「ポジション・トーク」の力~改めて、相模原事件と『SCRATCH 線を引く人達』に寄せて(改題)

風には、国境も壁も無力です。(写真:アフロ)

「ポジション・トーク」という用語が肯定的な意味合いで使われることは、めったにありません。むしろ当事者の言葉だからこそ、説得力は低くされがちです。でも、当事者にしか分からないことは、確実にあります。

「しょせんポジション・トーク」「当事者だからねえ(冷笑)」を乗り越える方法はないのでしょうか?

相模原事件と植松聖被告をテーマとしたラジオドキュメンタリー『SCRATCH 線を引く人達』(radiko.jp番組ページ(本日2017年1月5日まで聴けるようす))からは、「乗り越える方法は、なくはない」という可能性が見えてきます。

というのは、番組製作者の一人である放送記者・神戸金史さんは、重度障害児の親として、

「もしも、わが子があのとき津久井やまゆり園にいたら、植松被告に殺されていたかもしれない」

というリアルな恐怖を抱かざるを得ない当事者だからです。

「当事者でもあったから出来た」という事実

元旦に公開した拙記事

相模原事件の植松聖被告とは、何者か? - ラジオドキュメンタリー『SCRATCH 線を引く人達』

は、おかげさまで、多くの方々にお読みいただくことができました。

記事公開後、番組を制作されたTBSの鳥山穣(とりやま・じょう)プロデューサーから、丁寧なメッセージを頂戴しました。鳥山さんは、番組に植松被告役で出演もしています。

メッセージを、ご本人の了承を得て公開いたします。

聴いていただき、また丁寧に評していただきありがとうございます。

SCRATCHというタイトルは、神戸さんと準備を進めている時に、以前英語の授業で聴いたことを思い出してつけたものです。

重大な事件の特異性と、今の人たち(私も含む)が感じる普遍性をどう伝えるかが肝でしたが、神戸さんという記者と当事者の面を併せ持つ主人公、制作者がいることで実現できたと思います。

面会シーンは同席した私の声に似ていたので、私が再現して吹き替えました。

植松聖被告は、現在、拘置所にいます。面会は可能なのですが、録音機材やカメラを持って入ることはできません。番組中の神戸金史さんと植松聖被告の緊張感あふれるやりとりは、その場で録音されたものではなく、後でメモをもとに再現されたものです。

「当事者目線」は主観、いかに力強くとも

「当事者」という用語が意味するものは、人によっても文脈によっても異なります。

ここでは、障害者問題や貧困問題界隈での意味、

「立ち去ることができない人」

とします。

障害児・障害者本人は、もちろん障害の当事者です。

生まれた子どもが障害児だった家族・子どもが障害児になった家族がいれば、その家族も当事者です。

親に対して健常児の育児以上の重い負担がかかることの是非はともかくとして、親は養育・教育の責任を負っています。逃げ出せば、法的な処罰もありえます。このような意味で、障害児の親は当事者です。

きょうだいがいれば、日々を共にし、また「障害のあるきょうだいがいる」という理由で特別な期待や注目を浴びたりすることになります。是非はともあれ、障害児のきょうだいは、健常児のきょうだいと異なる日常を過ごすことになります。人生の節目における選択、進学するとき、職業人となるとき、自分の家庭を持つときの選択は、「障害のあるきょうだいがいる」ということの影響を若干なりとも受けます。そして、障害のあるきょうだいも親も歳を重ね、老いていきます。親亡き後、障害のあるきょうだいが生きて暮らすために、きょうだいとして何もしないわけにはいきません。「見捨てる」「縁を切る」という選択をすれば、それはそれで心の負担となります。

障害児のきょうだいは、「障害のあるきょうだいから立ち去ることができない」という意味で、当事者です。

本人、あるいは「立ち去れない」という意味での当事者は、当事者ではない人々よりも長時間、かつ濃密に、その問題と付き合っています。だから「最もよく知っている人たち」ではあります。

問題は、そのままでは「主観」に過ぎず、「その人の問題」「その家族の問題」で片付けられてもしかたがないということです。枠を「障害児・障害者の家族」まで拡げても、「障害児・障害者と関係者の問題」です。「当事者だからねえ」と冷笑したければ、できてしまいます。

主観は、線引き=「scratch」を自動的に作り出す仕掛けの一つとしても機能してしまいます。それは宿命でもあります。経験・体験の持つ「経験した自分じゃないと分からない」という性格は、裏返せば「経験していない他人には分からない」ということですから。

主観と客観の間

個人の経験を社会の知恵にするための方法は、たくさんあります。

とりあえず、個人がブログで表明するだけでも、「あ、私もそうだ」という気づきの機会を世の中にもたらします。部分的に共通する経験をした人の語りを数十人分まとめただけでも、「何が本当の問題なのか?」を浮かび上がらせる書籍が作れます。人文社会科学には、個人の経験を社会の知恵にするための方法がたくさん蓄積されています。

個人として、二つの世界の間で

改めて鳥山さんのメッセージを読んでみると、「特異性と普遍性」「当事者」と「記者」という文言があります。

重大な事件の特異性と、今の人たち(私も含む)が感じる普遍性をどう伝えるかが肝でしたが、神戸さんという記者と当事者の面を併せ持つ主人公、制作者がいることで実現できたと思います。

まさに、「個人」「主観」を、「客観」「普遍」に結びつけることそのものです。言い換えれば、「しょせん、ポジション・トーク(冷笑)」と受け止められるのではなく、「ああ、自分にも通じる大事なことだ」と受け止められるようにすること。

今回、『SCRATCH 線を引く人達』は、神戸さんが重度障害児の親であり記者であったことによって、すべての人間、社会のすべてに通じることがらを浮き彫りにできたと言えるでしょう。

当事者の声と「ポジション・トーク」の力

当事者の心情や思いの表出、「ポジション・トーク(冷笑)」と片付けられてしまう当事者の語りは、社会の知恵や力になりうるはずです。しかし、そのままでは知恵にも力にもなりにくい現実があります。

とりあえず私は、書き手として、研究を行うものとして、分断を乗り越える力を作りたいと心から願います。

『SCRATCH 線を引く人達』(radiko.jp番組ページ(本日2017年1月5日まで聴けるようす))から受け取ったエネルギーを自分の力のひとつにして、乗り越えていこうと思います。