帰れない日章旗 - 元・米軍兵士と家族の太平洋戦争(改題)

戦争は、戦勝国も戦敗国も不幸にします。(写真:アフロ)

(2017年9月25日 午前6時 中日新聞に同タイトルの連載があったことを知り、改題しました)

 太平洋戦争中に戦死した旧日本兵の遺品の中には、戦勝国の兵士によって記念として持ち帰られたものが多数あります。

 しかし、日本敗戦から72年が経過した今、戦勝国兵士の子孫の中には、父や祖父が持ち帰った旧日本兵の遺品を、「その方のご遺族に渡したい」と望んでいる人々がいます。

「父の遺品の寄せ書き日章旗を、ご遺族のもとへ」という依頼

 私はこの8月、一度も会ったことのない米国人男性から、お父さんの遺品を「本来の持ち主に返したい」と依頼されました。

 遺品は、戦死した旧日本兵が持っていたらしい寄せ書き日章旗です。

 きっかけは、知人の米国人科学記者が「OBON SOCIETY」の旧日本兵遺品返還活動をSNSで紹介し、私に「読んで」と注意を促してくれたことでした。

 ふだん、彼が「ヨシコは日本人だから関心あるんじゃないか?」と知らせてくれる情報や、「ヨシコは日本人だから読めるんじゃないか?」と判読を依頼してくる文字の写真は、米国の内外で開催されるイベント・彼が旅行先で見かける露店など多岐にわたります。判読依頼される文字の半数ほどは、アニメイベントの台湾人ブース内の掲示や、屋台の中国語チラシであったりします。いずれにしても、漢字を見て、日本人の私を思い出してくれるのは大変ありがたいことです。私は「それ日本語と違うよ、中国語の繁体字だから台湾だと思うよ、文章の意味はだいたい分かるよ」などと内容を説明します。秘めたる政治的主張を期待していたらしい彼は、その文字列の内容がグルメ情報であると知って脱力したりします。

 しかしこの時は、ジョークが大好きな彼と私の間では初めての、シリアスなやりとりになりました。

 戦勝国としての米国の良心を日本人の私に感じて欲しい彼に対し、その気持を受け止めながらも、私は日本にとっての戦争を語らざるを得ません。いわゆる「大空襲」の数々以外にも、軍需工場を対象とした局地的な空襲が多数ありました。そのような空襲の一つで、私は祖父の一人を失いました。祖父の妻子である私の祖母・親・おじおばたちの人生は、祖父の死によって激変しました。現在も、私が住む地域には、米軍の不発弾が数多く残されています。「これが日本にとっての戦争なんだよ」と語る私に、慎重に言葉を選びながら返事する彼は、言葉少なくなりがちです。

 「辛い思いをさせて申し訳ない」と思いながらやりとりを続けているとき、彼のお友達・Jさんから連絡がありました。

「ウチにも、父が残した同じような旗がある。あの戦争で愛する家族を失った方に、お返ししたい」

ということでした。さっそく、写真を送っていただきました。

寄せ書き日章旗の写真

 送っていただいた寄せ書き日章旗の写真は、左右が逆でした。漢字文化圏以外の人々にとって、いかに漢字が高いハードルなのか、改めて感じます。下の写真は、左右を反転させたものです。

寄せ書き日章旗の全体。上部に「武運長久」とあります。
寄せ書き日章旗の全体。上部に「武運長久」とあります。

「2つの家族の名誉のために」

寄せ書き日章旗、中央右側。「師団」かと思われる文字も。
寄せ書き日章旗、中央右側。「師団」かと思われる文字も。

 旧日本兵のご遺族を探すにあたっては、もう少し情報が必要です。Jさんのお父さんは、どこで戦闘に参加されたのか。どこで、寄せ書き日章旗を拾われたのか。どこで何年に行われた戦闘なのか判明すれば、従軍した旧日本兵の出身地を絞りこめることがあります。もしも戦闘地が小さな島なら、1つか2つの都道府県まで絞りこめるかもしれません。

 

 1919年に生まれ2003年に亡くなったJさんのお父さんは、1941年~1945年、米軍のB17・B29両爆撃機のパイロットだったそうです。正確に言えば、1941年~1942年は米国陸軍航空隊(United States Army Air Corps(USAAC))所属、1942年~1945年は米国陸軍航空軍(United States Army Air Forces(AAF))所属だったはずです。当時、米国空軍はまだ陸軍から独立していませんでした(米国空軍が設置されたのは1947年)。当時は日本にも空軍が存在せず、海軍・陸軍の両方に航空隊が存在していました。

 Jさんは、お父さんがどこで寄せ書き日章旗を入手したのかを正確には知りません。しかしお父さんは、終戦時にはサイパンにいたそうです。Jさんは、「サイパンで、その旗を入手したのではないか」と考えています。サイパン島となると、寄せ書き日章旗の持ち主の出身地を絞り込むのは、かなり難しそうです。

 Jさん自身、お父さんと戦争について、「もっと詳しく知りたい」という希望を持っています。しかしお父さんは12年前に他界されたとのこと。

「この旗を、亡くなった日本の兵士の方のご遺族に返すことができたら、そのご家族と私たち家族にとっての名誉だと思います」(Jさん)

語り得ぬ戦闘を抱えた反戦の男

日章旗の右下。「忠勇」「東条英機」、その右は「玉砕」?
日章旗の右下。「忠勇」「東条英機」、その右は「玉砕」?

 Jさんのお父さんは、1939年9月15日に米軍に入隊、その後、ニューギニア島・北部ソロモン諸島・サイパン島で戦闘に参加したそうです。日本人なら、激戦地だったことは知っている地名の数々。思わず、姿勢をただしてしまいます。

 数々の功績を挙げたJさんのお父さんは、メダル2つ・勲章2つを授与されましたが、終戦直前に負傷し、終戦時には「病院か船の中にいた」(Jさん)ということです。

「あの戦争を闘った多くの元兵士たちと同じように、どちら側からも多くの生命を奪ったあの戦争について、父はあまり語りたがりませんでした」(Jさん)

寄せ書き日章旗、左下部分。「忠」「報国」が読み取れます。
寄せ書き日章旗、左下部分。「忠」「報国」が読み取れます。

 お父さんは、1941年に1歳下の女性と結婚しました。連合軍と日本がニューギニア島で戦闘を開始したのは、翌1942年のことです。軍人として、戦争の激化と長期化を当然のこととして予想しつつも結婚したであろうJさんのご両親は、どういうお気持ちだったのでしょうか。

 ともあれ、お父さんは負傷したものの帰還し、戦後、Jさんを含む二男一女に恵まれました。1947年にJさんの姉、1949年に兄、そして1953年にJさんが生まれました。戦後、お父さんは定年までセールスマンとして働き、お母さんは専業主婦として家庭を支えました。

「でも、私が幼少のころ、父が戦争中の経験に関する悪夢にうなされていたのを憶えています」(Jさん)

 心の中で、戦争の記憶がどのように疼いていたのか、計り知ることはできません。しかしJさんのお父さんは、その後の生涯にわたって、5年前に亡くなったお母さんの良き夫であり、3人の子どもたちの良き父であり、良き市民でした。

「そして、人生の最後の日まで、反戦の男でした。所属していた第71飛行隊の多くの退役軍人たちと同じように、自分の乗っていた爆撃機から落としたすべての爆弾への悔恨の思いを抱いていました」(Jさん)

 Jさんのお兄さんは、20年間にわたって米国海軍に所属、そのうち4年間はベトナム戦争だったそうです。Jさんには息子さんと娘さんがおり、娘さんの夫は最近まで20年間勤務した米国海軍を辞めたところ。戦争が出来る軍隊を持つ国で、「平和」「戦争」「反戦」「戦力」といった言葉の数々は、どのようにイメージされているのでしょうか?

 強大な国軍を維持しつづけており、その軍が他国との間で多数の戦争を続けてきた米国の中で、元軍人であり、なおかつ反戦を貫いたJさんのお父さんの心境は、日本人がたやすく推測できるものではなさそうです。

寄せ書き日章旗、中央左側。「所澤」かと思われる文字が。
寄せ書き日章旗、中央左側。「所澤」かと思われる文字が。

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 「父が残した旧日本兵の遺品を、ご遺族のもとにお戻ししたい」というJさんの願いの実現につながる情報をお持ちの方は、どうぞ情報提供フォームから、お寄せください(ただし、直接のお返事は不可能である可能性もあることをご了承ください)。