2017年8月、敢えて捧げる『24時間テレビ』へのオマージュ

愛は、世界を救えたかい?(写真:アフロ)

 夏の締めくくりの恒例行事と化した『24時間テレビ』が、今年も終了しました。

日本テレビ:『24時間テレビ 愛は地球を救う』

 昨年に引き続いてNHK・Eテレ『バリバラ』がぶつけた裏番組企画も、昨年以上に話題となっています。

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 『24時間テレビ』の意義は、どこにあったのでしょうか? どこにあるのでしょうか?

 今、敢えて、肯定的に検証してみたいと思います。

 少なくとも、1978年当時の『24時間テレビ』が画期的な番組であったことは、間違いありません。

 ただし、最初にお断りしておかなくてはならないことがあります。

 私は本年(2017年)、『24時間テレビ』も『バリバラ』も全く見ていません。20歳で一人暮らしを始めたときにTVを購入しなかったところ、そのまま53歳の現在まで、ズルズルと「テレビを持たない生活」が続いているからです。それに、私自身は『24時間テレビ』が好きなわけではありません。むしろ、どちらかといえば見たくない番組です。

 本記事は、たまにチラ見する程度だった過去の『24時間テレビ』と、両番組がどのように話題にされてきたかに関する「世の中の意見ウォッチング」に基づいています。

1978年8月、第1回『24時間テレビ』のインパクト

 1978年8月、『24時間テレビ』第1回が放送されました。深夜の時間帯にテレビ番組が配信されることは、世界各地の五輪中継などの場合を除いて、あまり日常的ではなかった時期です。

 「24時間連続の単一番組」「目的はチャリティ」という物珍しさもあり、放送前から大いに話題を集めていました。

 当時の私が暮らしていた福岡市近郊のベッドタウンは、ふだん、夜になると静まり返り、24時過ぎに灯りのともっている家はほとんどありませんでした。しかし、『24時間テレビ』が始まった1978年8月のその夜は、窓から見回すと多くの家で灯りがともっており、誰か起きているようでした。真っ暗な家はだいたい、高齢者が夫妻で暮らしているお宅(単身のお宅はほとんどありませんでした)。中3だった私の同世代やそのきょうだいがいる家は概ね、誰かが起きているようでした。

 これは当時としては、かなり「非日常」でした。というのは、24時過ぎまで10代の子どもが起きていることは、たとえ受験生であっても、あまり望ましいことと考えられていなかったからです。1960年代に10代だった方々からは、「そんなに勉強しないと成績が維持できないほど頭が悪いのなら、無駄だから勉強するな(進学するな)」と大人に言われた中高生時代の経験を聞くことが珍しくありません。

 1978年の福岡市近郊では、そういう大人は減りつつありましたが、良くも悪くも「学校と勉強は人生のすべてではなく一部」という文化が残っていました。少なくとも、中高生の親にとって「子どもが24時過ぎまで勉強している」と近所に知られることは、あまり名誉なことではありませんでした。かなりの確率で「子どもにガリ勉させる親(なのに、子どもの成績はあの程度?)」という非難を浴びることになるわけですから。

誰もが一定の意義を認めていた『24時間テレビ』

 最初の『24時間テレビ』の内容を、私はほとんど覚えていません。というより、ほとんど見ていません。中学3年の私は、すでにテレビに対する関心をほとんど失っていました(萩本欽一氏のファンではありましたが)。他の家族が見ているのを通りすがりにチラ見したり、ダイニングキッチンで洗い物を終えた時、4歳下の弟が熱心に見ているテレビ画面を覗き込んで、そのコーナーが終わるまで見ていたりした程度です。合計で1時間は見ていないと思います。

 しかし次から次へと、さまざまな人々の厳しい暮らしぶりや明るさやたくましさが映し出されます。そして絶妙のタイミングで、総合司会の萩本欽一氏らが寄付を呼びかけます。またしばらくすると、寄付の申し出の電話が鳴り続けている様子が映り、そして「感動のフィナーレ」。

 1978年、はじめての『24時間テレビ』は、24時間で約12億円の寄付を集めたのでした(『24時間テレビサイト』:寄付金総額)。ちなみに、同年の「赤い羽根共同募金」の寄付金総額は約140億円(資料)。その10%近い金額を一晩で集めた実績は、やはり驚くべきことでした。

 『24時間テレビ』は、「24時間連続のチャリティ番組」という新しいスタイルとともに、通常のニュース番組やドキュメンタリーでは放送されにくい障害者の実情を、「これでもか、これでもか」と世の中に訴えかけました。世の中の人々は話題作りに乗り、うかうかと番組を視聴し、衝撃を受けて「自分たちに出来ることを何か」と考え、番組の呼びかけに応じて寄付をしました。その結果が、24時間で12億円という寄付総額です。

 2017年、萩本欽一氏が第1回『24時間テレビ』の総合司会を引き受けるにあたり、破格のギャラを要求し、そのギャラを全部チャリティに回させていたことが報じられました(ライブドアニュース記事)。

 画期的な番組に賭けたスタッフと出演者たちの意欲が成し遂げた偉業であることは、認めざるを得ないだろうと思っています。

「ヤラセ」と「感動ポルノ」の1978年的意義 - とにかく「見させる」「善意を掘り起こす」

 とはいえ当時から、つまり1978年の第1回が終了した直後から、「ヤラセ」の噂は絶えませんでした。そのうち最も罪のない「ヤラセ」は、「寄付の電話が殺到しています」というものです。コールセンターで待機している黄色のTシャツを来た電話オペレータたちは、スタッフの合図に従い、かかってもいない電話の受話器を取って応対していたのだそうです。虚偽とは言い切れないとしても、寄付を過大に見せかけて寄付を募ったわけですから、「罪なし」とは言えないかもしれません。

 「貧しい障害者に大金を積んで、都合のいいシーンを撮らせてもらっているらしい」という噂もありました。大金かどうかはともかく、取材・編集のありようは2016年に「感動ポルノ」と批判されることになったわけです。

 しかし当初、『24時間テレビ』の目的は極めて明確でした。「より多くの寄付を集めること」です。その目的のための手段としての「ヤラセ」や「感動ポルノ」は、1978年当時、そんなに不適切だったと言えるでしょうか?

 そもそも1978年当時、障害者はほとんど、街の中にいませんでした。幼少の時期は親に丸抱えされており、というより親が丸抱えせざるを得ませんでした。親と同居していない障害児たちは、人里離れた施設と付属学校で暮らしたり学んでいたりしました。その子どもたちは、本物の信号を見たことがないにも関わらず、「赤信号では横断歩道を渡らない」といった交通ルールを知識として学んでいたりしたわけです。もちろん、成人後も施設での生活が続きました。このことは、2016年7月の障害者殺傷事件(相模原事件)で改めてクローズアップされましたが、現在も状況はそれほど大きく変わっていません。

 「家族のもとでも施設でもなく、地域で暮らしたい」という障害者たちが地域で暮らすための運動が活発化したのは、日本では1970年代に入ってからのことです。障害ゆえに義務教育からも排除されており就労も考えられなかった障害者たちは、生存・生活の糧を生活保護に求めるしかなかったのですが、障害者たちは生活保護を「生きることの基盤」、文字通りの「生存権」として肯定的に意味づけしました。生きるために介助が必要なら、介助者の人件費も生存権に含まれるはず。というわけで、1975年には生活保護に「他人介護料」が含まれていたことが判明しています。生活保護の他人介護料は、日本初の公的介護保障制度です。

 『24時間テレビ』が開始された1978年、親でも家族でもない他人に介護を受けて地域で暮らす障害者の存在は、まだまだ珍しいものでした。多忙な日常の中で「ここにいない人たち」を敢えて想像してみようという余裕は、当時も今も、多くの人が持ちたくても持てないものでしょう。だからこそ、『24時間テレビ』は見せつけ、障害者たちの資源の不足を訴え、寄付を呼びかけたのです。

 翌1979年、山田太一氏の脚本によるドラマ『車輪の一歩』(Wikipedia)が制作され、社会から隔絶されて暮らさざるを得ない障害者たちの姿を、障害者たちにそうさせてしまう社会のありようとともに訴え、大きな反響を呼びました。今にして振り返ってみると、「車輪の一歩」に批判的に描かれた当時の日本社会の状況、さらにセリフには、1990年の米国障害者法(ADA1990)、さらに2006年の国連障害者権利条約の基盤となった「障害の社会モデル」が色濃く滲みます。山田太一氏は、どこからこの発想を得たのだろうかと思います。

 ともあれ1978年とは、そういう時期でした。「障害者とその困難を視聴者に見させた」ということ自体、さらに「同情するなら金をくれ」(ドラマ『家なき子』は、はるか後ですが)とばかりに資金を集めたこと自体に、多大な意義があったのです。

 もちろん当時から、さまざまな批判がありました。私が最も数多く耳にしたのは、「年に1日だけ関心をもてば良いことにしている」「健常者の免罪符」といったものです。当時の私が接触する機会のあった大人のうち、重度障害者支援に関わっている人々は、異口同音にそういう意見を口にしていた記憶があります。ボランティアに熱心な人々の中からは、「年に1日だけ、しかもお金でなんとかしようとするなんて」という批判もありました。「年に1日だけの集金イベントよりも、いつもの善意」というわけです。番組に対する批判としては、「正論です、ごもっとも」としか答えようがない感があります。

 しかし、営利事業を営んでいる一民放に、それ以上の何かが可能だったでしょうか? 1年のうち、たった24時間ではありますが、営利事業のために割り当てられている電波を、営利目的で磨き上げられたノウハウや人脈を駆使してチャリティに用いるという決断は、「我が身を削っても」という、痛みを伴う大きな決断であったはずです。

 番組自体が画期的であったことに加え、番組を開始する決断が画期的だったことは、どれほど強調しても足りないと思います。

忘れられない「弱音を吐いたら死んでしまう」

 1978年の第1回『24時間テレビ』のうち、私が視聴した1時間ほどの中に、今も忘れられないシーンがあります。東南アジアの途上国で暮らすシングルマザーと障害児のドキュメンタリーです。もしかすると翌年の1979年だったかもしれませんが。

 母親は、ハードワークで自分と子どもたち(複数の子どものうち1人が障害児だったと、うっすら記憶しています)の生活を必死で支えながら、障害のある子どもをケアしていました。生きるだけ・暮らすだけで大変な毎日が映し出される中、母親は

「弱音を吐いたら死んでしまう」

とつぶやきました。とはいえ、正確にそう言ったのかどうかは分かりません。母親は現地語で話しており、テレビの画面に映し出された字幕でしか内容は理解できなかったからです。

 ともあれ画面には「弱音を吐いたら死んでしまう」という字幕が映し出されました。近くでテレビに見入っていた4歳下の弟は

「姉ちゃん、『じゃくおん』って、何ば吐くと?」

と私に尋ねました(博多弁の「何ば吐くと?」=「何を吐くの?」)。画面の中の母子にも弟にも悪いけど、私は思わず、笑い転げてしまいました。

 

 母子が、どういう経緯で録画を了承したのかは全く知りません。しかし1978年、「弱音を吐いたら死んでしまう」という母親の一言と姿をカメラとマイクに収めた取材陣に対して、2017年の私は「すごい」と敬意を表したいです。

 誰から見ても大変なこと、誰もが悲しいと思うことがらに対して、「大変だ」「悲しい」といった映像や言葉を録画・録音することは、それほど困難ではありません。必要なのは「カメラやマイクを向けることができる」という最低限の前提です。

 しかし「悲しみを笑いのめしている」「辛さを口に出したら崩れそうだから明るく振る舞う」「弱さを自分が認めたら頑張れなくなるから、自分や身内の前だからこそ弱さを見せられない」といった場面や言葉を録画・録音するにあたっては、「語っても大丈夫」、さらに「素直ではない形で語られるメッセージを、だからといって映像通り・言葉通りにしか解釈できないような形に切り出して放映したりせず、真意が伝わるように放映してくれるだろう」という信頼も必要です。

 このような信頼は、お金と時間をかければ醸成できるものではありません。もちろん、当時のTV業界の状況が可能にしていた面はあるでしょうけれども、スタッフの手腕と姿勢には敬意を表したいです。

『24時間テレビ』を可能にした時代背景

 最後に、第1回『24時間テレビ』が放映された1978年前後の、世界の障害者をめぐる時代背景を補足しておきます(この他、世界各国での障害者自立生活運動の盛り上がり・米国での公民権運動の一部としての障害者運動などもありますが、とりあえず国連だけにとどめておきます)。

1971年 国連「精神薄弱者(≒現在の知的障害者)の権利宣言」採択

1975年 国連「障害者の権利宣言」採択

1981年 国連「国際障害者年」

1982年 国連「障害者に関する世界行動計画」

1983年~1992年 国連「障害者の10年」(上記「世界行動計画」の実施)

 『24時間テレビ』が発案され、企画が実現した背景には、このような世界の動きがありました。もしかすると、役員の「君、何というバカな企画を!」という怒鳴り声を覆した気骨あるプロデューサーがいたのかもしれません。障害者に関する国際状況を丁寧に役員にレクチャーした幹部社員がいて、一気にゴーサインが出たのかもしれません。もしかすると、もともと障害者問題に対して「意識の高い」役員が、たまたまその時期にいたのかもしれません。

 『24時間テレビ』には、さまざまな批判があります。私自身、現在の『24時間テレビ』を10分連続して見られるかどうか、自信がありません。10分以内に、罵声とともにテレビそのもののスイッチを切ってしまう可能性が高そうです。私はそもそも、TVとその音声の存在に対する慣れを失ってしまっていますから。

 それでも私は、この番組が1978年にスタートしたことと番組の意義は、決して過小評価されるべきではないと考えています。しかし、40年目を迎える今日も、当時のスタイルを踏襲したままテーマその他の「マイナーチェンジ」を重ねることによって継続されており、「変わらない」あるいは「変われない」状況が維持されており、多様な批判を浴びつつ「終わらない」状況にあることは、大きな問題ではないでしょうか。

 そして、今年も『24時間テレビ』が視聴率とチャリティ金額の実績を(悪化しつつあるとはいえ)それなりに重ねていることは、「結局、日本人の障害(者)に対する意識を変える力にはなれなかった」という限界そのものを示しているように思えてならないのです。

 『24時間テレビ』は、もうそろそろ、終わり方を考える時期ではないでしょうか。

 日本テレビ社内にも、そういう声はあるのではないかと思います。しかし、視聴者が変わらない限り、商業メディアは変われません。

 日本人の障害(者)観が変わるとすれば、どこにどういう可能性があるのか。

 私は自分自身の課題として、今までと同じように、自分の記事での小さな小さなチャレンジを続けることにします。