裁かれない性犯罪の「やり得」は、被害者ではない人々に対しても迷惑な件

ある犯罪の「やり逃げ」許容は、すなわち、その犯罪の助長です。(ペイレスイメージズ/アフロ)

著名ジャーナリストにレイプされたという女性が、実名顔出しで事実と被害を訴えています。

詳細については、小川たまかさんのご記事「彼女が顔を出して語ったもう一つの意味」からリンクを辿られるとわかりやすいと思います。

男性から女性への性犯罪が裁かれにくく、泣き寝入りしない人がさらに辛い思いをする現状は、私も自分自身が被害を受けた何度かの経験から実感しています。

本記事では、日本のこの「当たり前」が産んでいる、思わぬ”傍迷惑”について考えてみたいと思います。

男性から女性への性犯罪についてのみ触れるのは、他のパターンについては詳しくないからです。

私が知らないからといって「重要ではない」というわけではないので、詳しい方がご自分で記事化されることを望みます。

現状は?

性犯罪の「やり逃げ」は、私が20代だった30年前に比べると許されにくくなったと思います。私の学生時代、周辺では女子学生に対する集団レイプのようなことが数件ありましたが、女子学生の側が黙って(私にだけ事情をこっそり明かして)退学して消えていました。

しかし現在も、証拠が完全ではない場合、または被害を受けた側に何らかのツッコミどころがある場合、なぜか「疑わしきは罰せず」が適用されます。「なぜか」というのは、疑わしくなくても罰されることもある現状への皮肉です(もちろん基本は「疑わしきは罰せず」です)。

しかし2000年代以後、はっきりした証拠がある場合には、被害者を傷つけないように一応は配慮した上での事情聴取や捜査が行われ、加害者が特定されて逮捕されて実刑を受けることもあります「一応は」「こともある」を太字にしたのは、本来なら万全であるべき配慮がまだまだ不十分であり、捜査されたり逮捕されたり実刑を受けたりするのが「この種類・この程度の犯罪なら必ず」というわけではない現状への皮肉です。

私の過去記事で恐縮ですが、自身の性犯罪被害体験を作品化した映画【ら】の水井真希監督へのインタビューです。

なぜ、拉致と性犯罪をテーマに? 映画【ら】・水井真希監督に聞く(前編)

なぜ、拉致と性犯罪をテーマに? 映画【ら】・水井真希監督に聞く(後編)

水井さんは、10年以上前という時期を考えると、警察から例外的に心ある対応を受けたようです。といっても、きちんと話を聞いてもらい取り調べてもらうまでのハードルは、水井さん自身が当時は未成年だったこともあり、かなり高かったようです。本来なら、未成年だからこそ、より重く受け止められなくては困るところです。

傍迷惑その1:性犯罪冤罪が、かえってやりやすくなる

これらの現状の結果として起こっているのは、「性犯罪冤罪がやりやすくなる」という状況です。

性別を問わず、誰しも「冤罪はされたくない」「性犯罪冤罪なんか、されたくない」と思うものではないでしょうか。

しかし、

「性犯罪被害を受けた人が警察に訴えても、事実であっても捜査・逮捕には結びつきにくく、かえって自己責任を問われて傷つけられやすい」

という現状があるから、捏造でも妄想でも

「私は○○さんから性的暴行を受けて傷つけられました」

という声が上げやすくなっているのです。

当方は職業柄、事実であるかどうか不確かなものごとに「Yes」と言うことはできません。その人の語る「○○さんから性的暴行を受けた」は、事実であると確認できない以上、あくまでも「その人が語った」に過ぎないのです。なので

「事実であるかどうかは当方には判断できませんが、あなたは○○さんに傷つけられたと感じているのですね。その心の傷が早く癒えますように」

以上のことは言えないのです。

ここで、もしも

「確かな証拠として使えるものがいくつかはあるし、警察に示したけど、動いてもらえなかった」

というのであれば、それは良くあるパターンなので、何らかの協力が可能かもしれません。

しかし、具体的に聞こうとすればするほど、

「○○さんが有名人だから警察が相手にしてくれなかった、あなたも警察の同類だ」

「○○さんに被害を受けて苦しんでいるのに、みわよしこがセカンドレイプした」

というような話に展開する場合があります。

「それは私に言ってもどうしようもないことなので、どなたかの支援を受けて○○さんに直接言っては」

と言うと、

「そんなことが出来るわけはない、みんな○○さんの味方なんだから」

という返事。

実際に起こっていることは、おそらく

「証拠不十分すぎて(場合によっては証拠が全くなく、あるいは本人のアリバイさえあやふやで)味方として動くにはリスクが大きすぎるし、動きようがない」

です。

性犯罪被害を受けた時に、警察が「動かぬ証拠」として採用するものの範囲は非常に狭いので、捏造や妄想でなくても、こういったことは起こりえます。ご本人としては、当然の願いがまったく叶わず、「なんでこんな不条理」の連続となるわけです。

孤立感を深めていった果てに、「無条件に味方になってくれる人以外はみんな敵」という気持ちになり、「あなたの苦境がなんとかなってほしいとは思うけれど、こういう理由で、無条件にあなたの言い分が事実だと言うことはできない」という他人をセカンドレイパー扱いし、さらに孤立する……というスパイラルにはまっていく方は、少なからずいらっしゃいます。

ご本人が最も大変な状況にあるわけですが、周辺の人々も「近くにいたら大変すぎるけど、見捨てるには良心が咎めるし、離れたら裏切り者呼ばわりされるし」という状況に置かれることになります。

ましてや、性犯罪被害が捏造や妄想によるものであれば、周辺の人々にとっては「傍迷惑」以外の何物でもありません。

とはいえ、捏造や妄想の可能性を最初に考えると、本当に被害を受けた人が深く傷つくことになってしまいます。

いずれにしても、世の中での性犯罪被害の取り扱いの現状は、周辺に広い意味での「傍迷惑」、悩まなくて良いはずのことで悩まなくてはならないという状況をもたらしています。

こういう傍迷惑を生まないために必要なことは、性犯罪の捜査・立件が確率現象ではなく「こういう状況ならこうなる」が明確にされ、加害した人・被害を受けた人がどういう人であるかと無関係に、加害が事実ならば加害者が裁かれて罰を受けることでしかないと思います。

「被害を受けた人がどういう人であるかと無関係に」というのは、そこを問題にすると、「ふだんの生活態度が隙だらけ」「ふだんから虚言癖がある」「妄想を含む精神疾患を持っている」といったことが、「だから加害の事実はない」とする理由に使われてしまうからです。

いかに被害を受けた人の生活態度に問題があり、虚言癖があり、妄想が日常的に語られていても、「本人の望まない性行為を行ったら犯罪加害」という原則が貫かれないと、本人の自己責任や性癖や病気の問題としての”逃げ”が可能になります。

それはすなわち、そういったものを背景とした捏造や妄想が語りやすくなるということでもあります。

どなたも、捏造や妄想で性犯罪加害者にされたくないし、捏造や妄想にYesと言わなかったらセカンドレイパーにされるのはイヤでしょう?

傍迷惑その2:性犯罪加害者とされた人の「身の潔白を証明したい」という、当然といえば当然の欲求

逆に「女性に性的な問題を繰り返してきた」と噂される男性本人と、その人と親しい男性たちから、身の潔白を証言するための協力を強引に求められたこともあります。最後には「協力しないなら、あなたも濡れ衣を着せている一員とする」といった脅迫めいたものにまで発展していきました。

この男性本人が性的な問題を繰り返しているという噂は、断続的に数年間にわたって耳にしてきましたが、相手も内容もさまざまでした。しかも「被害を受けた」という本人からではなく、すべて伝聞です。

私はその話を耳に入れられるたびに

「いつの話? 9年前? 時効になってるかもね。今となってはどうしようもないのでは?」

「やられた本人が泣き寝入りしないで動く決意をしない限り、どうにもならないんだから、そこまで重大な問題なら御本人に会わせて」

という応答を繰り返してきました。

私としては他に答えようがないのですが、もしも事実である可能性が高く、被害を受けたというご本人が「泣き寝入りしないために動く」と決意しておられるのなら、何らかの協力は可能かもしれません。ただ、協力が可能かどうかを判断する材料も足りない状況でした。

この状況で、女性に対する性的問題を行っているとされる男性の身の潔白について「潔白だと思うと言え」と言われても困るだけです。

私は「事実であるかどうかは私には判断できない、従って、潔白だと思うとか思わないとか言えない」という応答を繰り返していました。すると、「濡れ衣を着せることに協力している」とか、「どっちつかず」「逃げ」、さらに男性の周辺から私に対する人格攻撃へと発展していきました。

この男性本人と私の関係は、「自分と無関係ではないけれど、付き合いがあると言えるわけではない」という極めて薄いものですが、さまざまな分野でそういった薄いつながりがあり、その全てで「潔白であると言え、さもなければ性的な問題の事実があると認めているものとする」と迫られたわけです。この状態は1年近くにわたって続きました。

つながりのある場の一つは、幸か不幸か、社会人大学院生として在学している大学院でした。不幸中の幸いだったのは、困惑の果てに相談した大学院の教職員のお一人が、この問題が継続しないように非公式に手を打ったことです。それで私は「△さんは潔白だと言え」という圧力からやっと解放されたわけです。

「こういう人だから、□□の問題は起こさないであろう」という推論は、一般的に、どのような場合にも成り立ちません。

加害にせよ被害にせよ、その人がどういう人であるかは問題にせず、誰かの「その人はやらないと思う」という発言を参考にするのでもなく、動かぬ事実・事実である確からしさの高いもののみによって

「性犯罪であり、……罪に該当し、……という刑罰が妥当である」

と判断されることが当たり前になってほしいものです。

現在はそうではないから、「その人は性的問題を起こしてないと思う」「その人が性的問題を起こしたという人が濡れ衣を着せているんだと思う」といった発言集めが行われ、それが何らかの有効性を持ってしまう可能性があるのです。

結論:性犯罪や内容の評価は、加害・被害とも「人」に依存させてはダメ

「やってないのに、やったことにされた」と「やったのに、やってないことにされた」は、どちらも許されざることです。

被害を受けたのに認めてもらえずに二次被害を受けることの背景も、冤罪被害の背景も、事実と無関係に捜査されたりされなかったり、罰を受けたり受けなかったりする状況にあります。

その状況のさらに背景にあるのは

「……という特性や属性を持った(持っていない)人間は、……という加害を行う可能性が高い(低い)」

「……という特性や属性を持った(持っていない)人間は、……という被害を自己責任で引き寄せる可能性やウソを言う可能性が高い(低い)」

という考え方、すなわち

「おかしなことをしやすい人がいて、おかしなことをする」

「おかしなことになりやすい人がいて、おかしなことになる」

という考え方です。

もしも一定の因果関係があるのだとしても、この考え方そのものが問題なのです。集団に対する傾向から、個別具体例でどうなるかを示すことはできません。

たとえば「40代で髪の毛の20%以上が白髪になった女性のうち90%が白髪染めを買う」ということが明らかにされているとしても、明らかにされているのは、一定の集団に対する確率です。「その」40代で髪の毛の25%が白髪になった女性が白髪染めを買うかどうかは予言できません。ウイッグを買うかもしれないし、バンダナをかぶって済ませるかもしれないし、何もしないかもしれません。

犯罪加害者や犯罪被害者になるかどうかについても、同じことです。「○○なら確率が高い」は、「○○のその人は加害者(被害者)である可能性が高い」の根拠にはなりません。

まずは、人と犯罪を切り離しましょう。

冒頭の件では、少なくとも被害を受けたという女性が「加害者が著名であろうが有力政治家のお友達であろうがなんだろうが、そんなことと無関係に事実および事実である確からしさだけに基づいて捜査と立件判断が行われた」と信じていないことと、日常的に起こりつづけているアレコレを考えると「被害を受けたという女性の言い分は信頼に値しない」とは判断しにくいことが、大きな問題点です。