日本の理系の常識は、世界の非常識? - 公的資金での研究は、国策に沿う必要があるのか?

さまざまな立場と考え方の発表が一同に会する、学会のポスター発表会場。

公金で行われる研究は、政府の意図に沿うものであるべき。さらに、納税者の期待を裏切ってはならない。

日本では、このように考えられがちです。特に理工系では、その傾向が強いようです。

しかしこれは、世界の科学界の常識ではありません。

国によらず、そういうプレッシャがあるのは確かです。しかし「常識です!」と言い張れることだとは認識されていません。

なぜ、日本ではそうならないのでしょうか? どこがおかしいのでしょうか?

2月、生活保護基準に関する学会発表を行ってきました

今年2月、AAAS(米国科学振興協会)年次大会で、日本の生活保護制度に関する発表を行ってきました。AAASは、約1000万人規模(関連学会を含む)の会員を持つ世界最大のNPOで、科学雑誌「Science」の発行元として有名です。

私の発表の内容は、ざっくり言えば

  • 生活保護基準の決定がどのように行われているか
  • 生活保護基準の決定に、専門家はどのように関わっており、専門知がどのように利用されているか
  • 生活保護基準の決定が充分な根拠なしに行われた時、どのように事実が明らかになっていくか
  • 現在の生活保護基準が決定された時の問題点。特に、根拠とされた「生活扶助相当CPI」という厚労省の独自指標が実態を反映していないこと
  • 政府の誤りをただすことの困難な社会構造と、その社会構造を変革する可能性

の5点です。

内容の詳細と米国の研究者・来場者たちの反応については、既に「ダイヤモンド・オンライン」でレポートしています(生活保護のリアル~私たちの明日は?: 米国人から見た日本の生活保護制度への違和感)。

日本で問題とされている問題点の多くについて、米国の研究者たちは、グラフを見たとたんに気付きました。

さらに「では、どうすればよいのか」に関する熱のこもったディスカッションが3時間続き……くたびれましたが、充実感と手応えが残った発表でした。

米国人来場者たちの意見も含め、詳細については前掲記事をお読みください。予稿へのリンク(AAAS年次大会サイト内)・ポスター原稿へのリンク(立命館大学生存学研究センターサイト内)も記事内にありますが、手っ取り早く読みたい方のために、リンクをこちらに示しておきます(予稿ポスター左半分ポスター右半分)。

ポスターで使用したグラフは全て、厚労省・総務省が公開している調査結果および、それらにもとづいて計算して得られたデータから作成しています。

何が言いたいのかって? 改ざんも捏造も盗用も、その他の不正行為もしていません、ということです。あくまでも、研究のルールに則って研究しています。

この学会は予稿審査があるため、昨年10月に予稿を投稿しています。予稿の内容については、属している大学院(立命館大学先端総合学術研究科)のゼミで発表し、検討を受け、さらにブラッシュアップした予稿の最終チェックを指導教員に受けた上で投稿しました。さらにAAASが採択したため、発表に至ったわけです。ポスターの最終案も指導教員が確認しています。手続き的にも、何の問題もないはずです。

なお、この予稿審査に先立ち、国内の査読付き論文誌に論文を投稿しましたが、そちらは不採択となりました。というわけで、このAAAS年次大会が、生活保護問題に関する私の初めての学会発表となりました。

なお、2013年の生活保護基準引き下げの根拠の問題点については、経済統計学者の上藤一郎先生も既に論文化しています(2014年3月、論文へのリンク)。私の発表内容は、上藤先生が問題視した内容に関する検討も含んでいます。

ある日本人との「はぁ?」なやりとり

ポスター発表で、ディスカッションのために設けられた時間は3時間でした。終了も近いころ、一人の日本人男性が近づいてきました。

かっちりしたスーツ姿、30代と思われるその男性は、氏名・所属が記載された来場者バッジを手で隠しながら、強い口調で、

「この発表は過去に日本で行っているんですか?」

と切り出しました。どこの誰とも名乗らずにいきなり喧嘩腰? 学会で許される態度ではないです。

私は、

「過去に同内容の発表を日本で行ったことはなく、最初の発表が国際学会となったのはタイミングとめぐり合わせの問題です」

と説明しました。すると男性は、

「なぜ、先に海外でやるんですか? 日本で発表して広く議論されてから、海外に持っていくのが筋ではないんですか?」

とか詰問を続けました。

日本でも広く報道され、問題視する多数の新聞記事・雑誌記事が既にあるのですが、2013年の生活保護基準引き下げは、予稿投稿時点では、決定からまだ2年も経過していない直近の問題ではあります。というわけで、時間のかかる学術研究は多くはありません。しかし、前傾の上藤一郎先生(静岡大学教授)による研究が既に国内で論文化されています。私はそのことを説明しました。

しかし相手は

「なぜ先に海外なんだと言っているんです」

と繰り返すばかりでした。

もちろん、私は気がついていました。この男性は、日本政府の意向に真っ向から異を唱える内容の発表が国際学会で行われること自体を問題にしているのです。しかし内容ではなく、「発表する」という行為について、発表の場で問題にされるなんて。私の学会活動歴は中断を含めて25年以上になりますが、こんなことは初めてです。

私は、男性に所属と氏名を尋ねました。しかし男性はバッジを手で隠したまま、

「そんなことどうでもいいじゃないですか! とにかく最初に海外に出すのはなぜなんだと言っているんです」

と言い続けました、私は「だから、何が問題なんですか?」と答え続けました。

そのうちに、米国人の参加者が内容に関するディスカッションを申し込んで来られたので、男性は立ち去りました。

日本の理工系の常識に外れている? 上等!

男性がどこの誰だったのかは、最後まで明らかになりませんでしたが、手で隠していた名札からは長ったらしい英語の組織名がチラリと見えました。おそらく、日本の公的研究機関のどこかに所属する方でしょう。英訳したら「寿限無」になる組織名が珍しくありませんから。

AAASの年次大会には、毎年、概ね200人程度の日本人が参加しています。シンポジウム登壇やポスター発表のために参加する20名程度、報道関係者5名程度を除き、ほとんどは大学や研究機関の広報担当者です。広報する内容は、どうしても自然科学・工学に偏ります。なにしろ科学雑誌「Science」の発行元であるAAASの年次大会なのですから。

広報に関わるそれらの方々は、日本の理系の研究を伝え、さらに発展させる役割を担って、その会場に来ています。その方々の一部から見て、私の発表が「日本の恥さらし!」に映ったとしても、それほど不思議ではないかもしれません。でも私にとっては

「そっちが、日本の学術界の恥さらしなんだよ! 公金で旅費出してもらって給料も出てる身で、日本の恥さらさないでよ!」

と言いたいところでした。男性と私の日本語でのやりとりを理解しているらしい人が周囲にいなかったのは、不幸中の幸いというべきか、いや不運だったというべきか。

ちなみに、もしも「雑誌Science=理系の雑誌」と認識されているとすれば、かなり実態からズレています。格差と貧困の問題は、科学界が国境や分野を越えて取り組むべき世界的問題と認識されています。「Science」でもしばしば、そのような特集が組まれています。

またAAASは、米国の障害者の地位向上と機会拡大に40年以上取り組んできている団体でもあります。障害者に対する活動のディレクターであったAAAS元職員 Virginia Stern さんは、その功績をもって2012年、ホワイトハウスで大統領表彰を受けておられます(参照)。私は2011年に Stern さんにインタビューしてAAASの障害者支援活動の初期の様子を伺い、岩波「科学」2011年11月号で記事化しています。

それでも、AAASは現在も「基本的には研究者の団体」という側面を色濃く持っています。そもそも、AAASが社会への働きかけを始めたのは前世紀からのことで、目的は「自分たちの研究する権利を守る」でした。しかし長い時間が経過するとともに「研究者を守る」という当初の目的は薄れ、社会の中で科学が健全に発展し、社会に貢献し、社会の中で価値を認められること全般に拡がっています。

このような活動が求められる事情は、日本も同じです。というわけで、ここ数年、科学技術研究機構(JST)がAAASとの関係を非常に強めてきています。この関係が、数年後の日本社会に対してどのような結果として現れるのか、極めて注意深く見守る必要があるかと思っています。

「公金での研究=国策に沿うべき」ではない

上記「ダイヤモンド・オンライン」記事に対しては、さまざまな意見が寄せられました。「はてなブックマーク」には、

munuyu 正直なんのために国際会議行ってるんだ感。もし科研費のお金で行ったならこの みわよしこってひとは国庫に変換すべきだろう。ひどすぎる

という意見がありました。

「国のカネで研究して発表しているのなら、国策に反する発表はしてはならない」

という感覚、日本では相当根強いようですね。

ちなみに今回の発表では、立命館大学から旅費の一部について助成を受けましたが、科研費は使っていません。でも、もしもカネの出処が科研費であったとしても、国策に沿うことを求められる理由にはなりません。

学問の営みは、さまざまな実験が行われ(実験が可能な分野の場合)、調査が行われ、データが集められ、仮説が立てられ、検証され、議論され、反駁され、次の研究へとつながっていくことで成り立って来ました。今後もそうでしょう。科研費をはじめとする研究資金は、この学問の営みそのものを維持するための投資です。研究資金を得たのが大学であれ研究機関であれ企業であれ、分野が何であれ、違いはありません。右か左か? 現政権の意向に沿っているかどうか? そんなことは問題にされません。少なくとも現在のところは。

とはいえ日本では、特に理工系では、「産官学一体」というべき研究体制が長く続き、その中から優れた研究成果も現れていました。代表的なのは1970年代以後の「技術研究組合」制度。産官学のあちらこちらに点在する研究者・研究資源を集中させることで、最先端研究の数々を生み出すことが行われていたわけです。「国策」の目指すところは、産業への早期の強力な展開で、その目的に対しても相当の成功を見ています。でも、産官学のさまざまな拠点から集められた研究者が協働するところで、何が起こっていたのでしょうか? 多様な人々による協力です。多様性の重視・異質な人々とのコミュニケーションは、1970年代~1980年代には、そのような場で実現されていたのです。

もちろん、研究体制の設立自体が国策に沿っているわけです。個々の研究者にとっての「欠陥の少ない単結晶を作る」「より寿命の長いLEDを作る」といった課題には、その研究者自身の「憲法改正や辺野古問題についてどう考えているか」は関係のしようがなかったりもします。

そもそも、「国策として次世代産業のための研究開発を推進する」は、日本以外の国では、それほど一般的というわけでもありません。海部美知さんのご著書「パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本」にも、

「次世代に『来る』のが何なのか、国や政府が予測できるわけはないから、ベンチャーに好き勝手にやらせて有望株が育つのを待つのがよい」

というシリコンバレーの価値観が紹介されています。

「シリコンバレーの方法が何もかも日本より良い」というつもりはありません。方法自体が優れていても、その国・その文化で実行可能とは限りませんし。ただ、日本の

「国が決めて推進するのが当たり前」

「公金で行われた学会発表は、ふつー、国策に沿うものでしょ?」

という感覚は、「そこがヘンだよ日本人!」ものです。

もちろん米国にだって、産官学・産官軍学一体の研究はありますし、カネの出処にまつわる一定の制約もあります。大手スポンサーの意図に沿わない人に対する嫌がらせめいたこともあります。ご関心がおありの方は、ディビッド・ヒーリー「抗うつ剤の功罪」をご一読ください。AAASにも、米軍との謎の関係を疑問視する意見はあります。

ただ、そのような制約は「良いことではないので必要最小限に」、抑圧や嫌がらせは「いけない」というのが、少なくとも表向きは、日本以外の科学界での常識です。

経験がない? だったら慣れましょう!

おそらく、政治的立場を明らかにすることや、政治的意見を科学研究の場で表明することに、日本の「理系」は、あまりにも慣れがないのでしょう。だから「国策と違うことを学会発表するな」とか「公金で政府方針と違う学会発表をするなんて」という意見につながるのでしょう。

でも、これからでも「慣れ」を作るべきです。その「慣れ」は、あらゆる人の自由を守ります。

今、国策に沿った研究ならばスムーズに行えるのであるとしても、その「国策に沿う」を決めるのは「お上」です。もしかすると、「納税者感情」も都合よく使われるかもしれませんが、とにかく自分ではない何者かによって決められることです。

いつ、誰が、あなたの意見を、あなたの活動を、あなたの研究を、「国策に沿わない」とするかわかりません。

そのときに、自分の意見や活動、そして研究を守るのは、国策に沿っているかどうかではありません。

そんなものに左右されない権利であり、自由です。

まずは、トイレの個室の中で小さい声で、改憲問題や辺野古問題などホットな話題について、誰にも聞かれないように小声で、自分の意見をつぶやいてみましょう。

そんな小さなことからでも、時間をかければ「慣れ」と度胸は作れます。