取材メモ:イタリア・トリエステの精神医療に関する講演(上)

1970年代、バザーリア改革によって精神科病院をなくしたイタリア・トリエステは、精神疾患を持つ人の地域生活の一つのモデルとされています。

バザーリア改革から約40年、イタリアの精神医療の現状はどうなっているのでしょうか?

本日(2014年11月22日)、大阪で開催された、イタリアの精神科医ロベルト・メッツィーナ氏による講演のメモを公開します。

講演概要

講師 ロベルト・メッツィーナ氏(精神科医、トリエステ精神保健局長、WHメンタルヘルス調査研究コラボセンター長)

司会 竹端寛氏

コーディネーター 大熊一夫氏

通訳 松嶋健氏

主催元告知ページこちら

第一部

主催サイドによる挨拶など

●竹端さん挨拶

配布物説明など。

●山本深雪さん(?)挨拶

日本、今すぐは無理でもトリエステを目指していけると思う。よろしく。

●大熊一夫さん

東京・大阪のコーディネーター。

ロベルト・メッツイーナさん紹介。トリエステ+WHOのコラボにも関わる。WHO、トリエステはコラボすべき相手と認識。「持続可能で費用対効果が高い」。病院中心より安い。治療的にも人権的にも優っていることが明確。30年以上の実績から。トリエステ型のモデルを世界に普及させようという立場。

通訳、松嶋健さん。イタリア語、この分野においては、彼なしには無理。同時通訳は無理。効率悪いけどしかたない。今は大阪の国立民族学博物館の研究員。医療人類学者。

ここからは「ロベルト」でいく。イタリアの患者・医師関係、「きみ・ぼく」が基本だから。

ロベルト・メッツイーナさん講演

精神医療の役割は、患者を社会から排除すること?

今日はこの大阪でお話できることを嬉しく思う。大阪が日本の精神保健の中で重要な役割を担っていることはよく知っている。

さっき山本深雪さんとも話した。精神障害を持った人の人権について、非常な努力がされている。ひどい精神病院を閉鎖にまで追い込んだとか。

自分を日本に招いてくれた方々に感謝。

精神病院は、人間がモノとして客体化されて権利を奪われる施設。このモノ化、客体化のプロセスの中では、我々の身体、社会的な身体がもろもろのつながりから切り離されていく。

こういった人間をモノ化する施設の中では、内部の対立の構造、特に管理する側とされる側、スタッフと入院者という対立の構造がはっきり現れる。そこではスタッフの側、本来は出来るだけ良い治療をしたいという意志を持っているはずのスタッフが、施設の中では否応なく管理する側の役割を担わされ、入院患者は管理される側。対立の構造ができる。

フランコ・バザーリアが批判したのは、精神病院と施設のこういうメカニズム。そこでは、精神医療、精神医療をはじめとするスタッフ、この社会的な排除というものを社会から任されて、社会管理の役割を担わされる。そういう役割になっていることをバザーリアは批判した。

精神病院と精神医療が持っている矛盾に対して闘うということ、この社会的排除、今日のトリエステでも大阪でもなくなっていない。それに対する戦い。精神医学が社会管理を任された科学としてではなく、その人々に権利を返していくために役立つような科学として別の道を歩む必要があると思う。

収容されていた人々に「権利を返していく」

人々に権利を返していくということ。具体的には、住むところ、仕事、収入、その他社会的な関係性を戻していくということ。というのは、精神の病というものに常につきまとうのが社会的なつながりから切り離されるということ。これを戻していく、返していくことが決定的に重要になる。

この権利を返していくというプロセスにおいては、単に地域社会の側が参加することが必要なだけではなく、もっと積極的に地域社会を巻き込んでいって、巻き込んだ地域社会とともに進んでいくプロセスになる必要がある。

したがって、精神的な問題を抱えた人たちのリハビリテーションというのは、その人一人だけの問題ではなく、地域社会全体にかかわる問題。それは地域社会の中で市民として生きる権利の問題であったり、そこで使用することができるさまざまなリソースであったり、より広い社会的文脈で捉えられる必要がある。

病気にフォーカスせず、その人の「生きる」にフォーカス

重要なのは、こういうもろもろのニーズがそこにあるということ。病気ではなく、苦しみのまわりにニーズがあるということ。でも病気は混乱した形でとらえられる。それを精神科病院の中では、一元化された、病気という形でとらえる。でもニーズは複雑で多様な領域にわたっている。そのニーズに病院中心で対応するのではなく、脱中心化された形で対応される必要がある。

したがって、地域における精神保健のシステムというのは、より包括的で統合的なシステムとして構築する必要がある。そこでは、個々の人々の多様なニーズに対応する必要がある。また地域に住む住民全員の健康を考える必要がある。どうすれば、そういうシステムを構築することができるか、どうやってリソースを活用するかが問題。

福祉=「よく生きる」とは選択可能な人生を獲得すること、「市民権」プロセスを生きる「市民」になること

福祉というか、Well-being、よく生きるということの内実はどういうことか。経済学者・センなどが論じているが、選択可能な人生の中のもろもろの機能を獲得していくことが福祉ということ。センはcapabilityという言い方をするが、そういう潜在能力にかかわるものが福祉。

こういう考え方からすると、同様に、市民、市民権という考え方も、既存の「市民」「市民権」を受動的に受け取るものではなく、各自が能動的に市民になっていき、市民権を実践的に獲得していく。プロセスとしての市民権というものを考えなくてはいけない。

こういった市民権・capabilityを獲得していくためにも、精神病院から地域への移行が大切になる。単に治療を地域で行うだけではなく、そのための機能を提供することが重要。病院でない場所での提供。入院していた人のメンタリティの変化。地域の?(聞き取れず)が重要。

この写真(青いハリボテの馬の写真)はマルコという馬。トリエステの精神保健のシンボル。精神病院にいたマルコが地域に出て行く。そのまわりに人々のつながりが出来ている。トリエステで最初に作られた「グループで住む」人たちの写真。一緒に山登りなどしていた。

病院から、「精神保健センター」のある地域へ

1975年、最初の2つの精神保健センターが作られた。この精神保健センターが作られることによって、地域の中でのケアが可能になった。

精神病院にかわって、精神保健局がつくられた。その中にもろもろの新しい施設が作られた。精神保健センター、その一つ。地域のある区切られたエリアの住民に対する精神保健サービスを一手に引き受ける窓口。

「精神保健センター」は何をしているのか

この精神保健センターでは、すべて、どんな人でも受け入れる。症状の軽重で区分しないことが原則。したがってその地域に出た精神保健サービス、個々の患者に対して対応するだけではなくて、その周囲の人々やネットワーク、家族、地域全体に対して責任を持つということになる。

地域に出た精神保健サービスが仕事をするに当たっての原則がいろいろある。重要なこと、敷居が低くてアクセスしやすい、そこにはインフォーマルな堅苦しくない雰囲気があり、利用者の間に関係性が作られていく。スタッフもフレキシブルに対応する必要がある。

ケアの連続性。時間的な、空間的な。空間的な連続性とは、その利用者が犯罪を犯して刑務所に入ったとしても、その刑務所にまで地域精神保健サービスが入り込んでフォローするということ。

急性期、クライシス状態にある患者にどう対応するか

急性化、危機的、いろいろな問題や対立が浮かび上がってくる。そこにサポートを行う。それぞれの人の家に訪問するかもしれないし、センターに受け入れるかもしれない。特別な場所を作ってそこに持っていくわけではなく、クライシスの起こっている場所で対応する。

強制治療はおこなわない。本当にどうしようもないときの最終手段としてしかやらない。トリエステでは、強制入院が年間で20人程度。それも精神保健センターで危機に対応することによって強制医療を減らしていくことでやっている。

トリエステでの「チーム医療」とは?

地域における個々のニーズに応じるフレキシブルなシステムをどうすれば作っていけるか。重要なことは、チームでの仕事。単純に「他職種のチーム」という狭い意味で捉えられてはいけない。それぞれの人の、利用者本人も含めての専門性が大事。重要なのは、チームに参与しているそれぞれの人の主体性。専門性に限定されない、それぞれの人の人間としてのあり方が認められ、評価され、それがチームの中で認められて仕事をするという意味。

したがって、トリエステでは、チームの中には専門職ではない人も多くかかわってくるようになる。家族、ピアサポート、ボラ、いろんな人がこのチームを形作る。

10床足らずのベッド数で、5万人の住民に対応できている実績

トリエステ、精神保健センターが24時間オープン。他にある施設、SPDC(?)総合病院の中にある6床のベッド。急性期にそこに運び込まれても24時間以内に退院させて、精神保健センターで対応。居住施設も。24時間やっている精神保健センターを中心に機能させる。

ただ、この地域精神保健センター利用者の90%が、直接センターにやってくる。各精神保健センターに6~8床のベッドがあり、5万人~8万人(?)の住民に対応。

この精神保健センターにあるベッドを使って、短期間、入院ではなくてそこで休む。そういうことも利用しながら、重篤度で選んだりせずに、この精神保健センターですべての対象者を受け入れて対応。

治療を必要とする人を地域から切り離さないことの重要性

精神保健センター、地域から切り離されていない場所。家族、友人がいつでも訪問することができる。

そのセンターの場所、どういう場所であるべきか。それぞれの機能に従って空間がわけられていない。「ここは看護師の部屋」「ここは患者の部屋」という分けられ方がしてない。そこにいろんなものがインフォーマルに混ざり合った場所。

総合病院の中にある矯正治療に使う場所も、鍵は閉めてない。出ようと思えば出ていける。鍵で物理的に出て行くのを阻止するのではなく、人間が話し合い、出て行くのをやめるように説得する。

拘束行為は一切しない。スタッフがそばに付き添って、この非常に複雑な危機の状態のときにそばに付き添い、物理的な拘束に代わる対応をする。

精神保健センターは「オスピタリタ」、歓待、おもてなしの場所。病院、「オスピタリダザチオーネ」規則がある。時間も施設化。秩序。精神保健センターはフレキシブルに。共有されるなかで生成される規則と時間が流れる馬。

病院だと、クライシスによって社会的ネットワークから切り離される。でも精神保健センターでは切り離されない。

単なる「閉鎖→開放」ではなく、ものの見方が転換

病院のパラダイム、病気や症状を中心としたもの。精神保健センターでは人生の出来事の一つ。

「病院か地域か」ではない。ものの見方が根本的に変わる。地域にあるのは、全体性としての人間。生活して生きる人間。誰もが人生においていろいろな危機に陥る。あくまでもそれは、社会的なつながりの中で危機に陥る人間が中心。病気を治療するということではなく、危機に陥った人間をサポートする。そこで用いられる技法も、人間的な技法にもとづいてサポートを行う必要がある。そういうビジョン。ものの見方自体が転換しているのだということを理解して欲しい。

患者も医療従事者も「責任を担う」考え方

全体としての人間に対するサポートという考え方においては、イタリア語では「責任を持つ」という言い方。病院にいて来るのを待っているだけではなく、地域の中で、さまざまな問題や苦しみを抱えた人の近くにいく必要がある。近さ、フットワークのよさ、フレキシブルなあり方が重要。

精神保健サービスが「責任を担う」とは、各人の責任を肩代わりするのではなく、人生の重荷をみんなでかついで歩いて行くということ。それを、その人のまわりにあるネットワークで荷物をわけ持って歩いていく。そこにサポートが入る。重要なのは信頼関係。信頼関係がすべてのベース。そのベースのもとに、さまざまな治療やケアのプログラムを行える。信頼関係がベース。

責任をもって働くという仕事のしかたは、当然、精神医療で考えられるような「入院」「外来」とは全然違う。地域精神保健センターは「外来」ではない。「外来」で診て、敷居を超えると入院するというシステムではなく、人々の苦しみや困難を一緒に担うということ。センターという特定の場所が重要なのではなく、関係性を作るのが仕事の中心。

第一部の話はここでおしまい。第二部、「責任を担う」というサポートのしかたをすることによって、この苦しみを抱えた人々が、生きていくのにどういう形で、その回りに社会的なネットワークをつくり上げることを可能にするか。価値に基づいた仕事のしかたとはどういうものか。そういうことについてお話したい。

ありがとう。

(拍手)

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