本日(2014年6月29日)午後、新宿駅南口の歩道橋上で、男性が引火性の液体をかぶって焼身自殺を図ったということです。男性は自らの身体に火をつける前、集団的自衛権の行使に反対する発言を行っていたそうです。

ハフィントンポスト:新宿駅南口で男性が焼身自殺図る? 集団的自衛権の行使容認に抗議か

時事通信:ガソリンかぶり? 火付ける=中年男、集団的自衛権反対訴え―東京・新宿

ANN:新宿駅前 一時騒然…男性が焼身自殺図る

自殺は、メッセージを訴える手段・世の中の流れを変える手段として有効なのでしょうか?

一般的に自殺は「死に損」

1985年、筆者が大学2年生だった秋、同じ大学の同じ学科に属する1学年上の女子学生が行方不明になりました。

行方不明になる直前、最後に言葉を交わしたのは私でした。飯田橋駅前にあったマクドナルドで、3時間ほども話したでしょうか。彼女はもっと話したそうでしたが、その時期は学園祭シーズンでした。バンドの練習を控えていた私は「また今度」と別れたのでした。

翌年春、彼女は長野県大町市の資料館(だったと記憶)の駐車場で、凍死体になって発見されました。雪が積もり始めた時期、一番お気に入りだった服を着て、化粧もして、睡眠薬か何かで意識朦朧として駐車場に横たわり、そのまま雪に埋まって死んだようです。雪解けとともに美しい状態で発見されたいという彼女の希望は叶いました。

彼女が自殺したきっかけは、非常に些細なことでした。当時付き合っていた大学の同級生男子のアパートに一人でいたところ、彼のお母さんがそこにやってきて、彼女のことを口汚く罵ったのだそうです。そこに彼氏が帰ってきたのですが、お母さんに対しては何も言わなかったということでした。彼女は黙ってそこを立ち去りましたが、彼氏は彼女に声をかけることもありませんでした。私が彼女と最後に話したのは、その翌々日です。

彼女と親しくしていた友人たちは、彼氏に対して怒りを抱きました。その一人であった男子は、大学の中で彼氏を面詰して殴りました。彼氏は大学を卒業し、無事に就職したようですが、その後どうなったかは誰も把握していません。

彼氏のお母さんは、自分の衝動的な言動が一人の女性を自殺に追い込んだことを知っているでしょうか? たぶん、知らないと思います。知っているとして、お母さんには自分の言動を正当化する言い分がいくらでもあるでしょう。

ご家族には大きな喪失感があったことでしょう。親しかった友人たちも、嘆き、悲しみました。彼女にありえたはずの将来は、永遠に失われました。そして彼女に自殺を決行させるほどの衝撃を与えた中年女性(当時)とその息子は、何かを失ったわけではありません。おそらく、どのような反省をすることもなかったでしょう。反省するような人たちだったら、自殺させるほどの言葉をかけたり、その現場にいて何もしなかったわけはないだろうと思うのです。

彼女は、まったくの「死に損」だったと思います。

メッセージを確実に伝えても、たいていの自殺は「死に損」

1986年、東京都中野区にある区立富士見中学の2年生だった鹿川裕史さんが、

(前略) 俺だってまだ死にたくない。 だけどこのままじゃ「生きジゴク」になっちゃうよ。 ただ俺が死んだからって他のヤツが犠牲になったんじゃ、 いみないじゃないか。 だから、もう君達もバカな事をするのはやめてくれ、 最後のお願いだ。(後略)

出典:http://yabusaka.moo.jp/sousikigokko.htm

という遺書を残して、首吊り自殺しました。

この事件では、教員たちもイジメに参加しており、その証拠(「葬式ごっこ」の色紙)となるものもありました。教員が参加してのイジメ・教員が主導してのイジメは珍しいことではなく、私自身も小学校高学年の時期に経験しています。これほど対処の難しいイジメはありません。たいていの場合は問題視されることもなく、ウヤムヤのまま忘れられてしまいます。しかし富士見中学の件では、動かぬ証拠があったせいか、学生・生徒のイジメ自殺では異例というべき教員らの処分(諭旨免職・減給)に至りました。

では、加害者の少年たちはイジメをやめたでしょうか? その後の少年たちの様子は不明ですが、たぶん、やめてはいないでしょう。その後、学校でのイジメに対して、根本的な対策が取られたでしょうか? そんなことは全くないまま、30年近くの年月が経過しています。

手段にインパクトがあっても、やっぱり自殺は「死に損」

古くから、自分の置かれている理不尽極まりない状況を訴えるために、あるいは許しがたい政治的状況を変えるために、数多くの人々が自殺を図ってきました。

ベトナム戦争中の1963年、ベトナム人僧侶がアメリカ軍の侵攻に抗議して焼身自殺(参考)。1971年にはフランス人女性が戦争終結を求めて焼身自殺しました(参考)。

1970年の韓国では、一人の青年が底辺労働者の状況を訴えようとして焼身自殺しました(参考)。

チュニジアでは、2010年に行われた一人の青年の焼身自殺をきっかけとして市民運動が活発になり、当時の政権が崩壊しました(ウィキペディア「アラブの春」)。

チベットでは、中国からの独立を求める人々の焼身自殺が相次いでいます。2011年から2014年までで既に130人に達しているそうです(相次ぐチベット人の焼身自殺について)

中東などで現在も続く「自爆テロ」も、抗議の自殺と見ることが可能です。

誰かの自殺、しかも痛ましい手段での自殺によって、状況は変わったでしょうか?

短期的には、変わった場合もあります。1970年の韓国では、青年の死を無駄にすまいと立ち上がった人々が、労働運動を活性化させました。チュニジアでは、前述のとおり政権崩壊という結果となりました。

しかし長期的にみると、「自殺によって変わった」といえる例を見出すのは困難です。韓国の労働状況は、未だ根本的に改善したとはいえません。「アラブの春」後も、むしろ反動や軍政強化となっています。

自殺には、「訴える」「動かす」に有効な場合もあります。しかし残念ながら「構築する」「つくり上げる」という力を持っていません。自殺が自分の生命に対する破壊である以上、必然というべきではないでしょうか。

そもそも、なぜ自殺しかなくなってしまうのか?

自殺によってメッセージを訴え、世の中を動かそうとする人々は、例外なく弱い立場におかれています。弱い立場におかれているからこそ、追い詰められ、そういう手段しか取れなくなってしまうのです。

追い詰める側の人々にとって、弱い立場にある人々の声・言葉・存在には、そもそも価値がありません。価値を認めていないからこそ、死に至るまで追い詰めることができるのです。

死んだら、形式的に「お悔やみ申し上げます」「ご冥福を祈ります」くらいのことは言うかもしれません。何らかの責任を問われうる行動によらずとも、言葉や表情や仕草で人を一人死なせることができる自分の優位を守るためにも、世間に指さされないようにすることはは必要ですから。責任を問われたら、厳粛な態度や反省の言葉くらいは示すかもしれません。でも心から反省することは、おそらくないでしょう。心から「しまった」と思うことはあるかもしれませんが。

最初から価値を認められておらず追い詰められた人間が、どういう手段で死のうが、どういうメッセージを訴えようが、追い詰める側・価値を定める側にとっては、どうでもいいことです。だからこそ、追い詰めることができる(できた)わけですから。

何かを訴えたい・変えたいのなら、自殺は最悪の選択肢

何かを訴える目的・変える目的があるのならば、自殺は「最悪の選択肢の一つ」と言うべきです。たいていの自殺は、話の種にされ、忘れられて、それで終わります。「世の中に訴える」「世の中に何らかの影響を及ぼす」という目的に対して、最高に不発な手段です。

だから、生きてメッセージを発しましょう。

生きて「イヤだ」「おかしい」と訴えましょう。

言葉が発せなかったら、表情やしぐさで示しましょう。それは有効ではないかもしれませんが、しないよりは少しだけマシでしょう。

自殺以外の選択肢がなくなるような場からは、生きて逃れましょう。

生きていなくては、肉声を発することも、文字での発信もできないのですから。