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タイソンvsダグラスから30年。「あれはロングカウントではなかった」。レフェリーが明かす疑惑の真実

三浦勝夫ボクシング・ビート米国通信員
ダグラスの猛攻を浴びて沈みかけるタイソン(写真:ロイター/アフロ)

トランプ氏もリングサイドに

 ボクシング界最大級のサプライズとなったのが1990年2月11日、東京ドームで行われたマイク・タイソン(米)vsジェームズ・バスター・ダグラス(米)の世界ヘビー級タイトルマッチだった。月日の経つのは早い。30年の時空を超えて映像を見直してみた。改めて興奮した。ありきたりな表現だが、ボクシングとヘビー級の魅力が満載、凝縮されたような試合だった。

 今でもマイク・タイソンこそがボクシング史上もっともエキサイティングな選手で、このスポーツの象徴だと唱えるファンは多い。その全盛期、いやもしかしたら彼の絶頂期はその少し前だったかもしれないが、対戦者は自動的に絶対不利の予想を余儀なくされた。ダグラスは身長とリーチに恵まれた中堅ランカーだったが、“鉄人”タイソンと渡り合うには少し線が細いような気がした。

 しかしイージーな相手と思われたダグラスが一世一代の出来を披露してダウン応酬の末、10ラウンドKO勝ち。地球に衝撃が走った。ちなみにダグラスは日本とゆかりがあり、ミドル級上位だった父のビリー・ダグラスは70年代、三迫ジムに招聘されて来日。後楽園ホールで米軍の横田基地勤務のフラッシャー石橋(本名スティーブン・スミス=元日本ミドル級王者)を相手に3回KO勝利を収めている。

 当日のリングサイドにはタイソンを擁するドン・キング・プロモーター、WBCのホセ・スライマン会長といっしょに現米国大統領ドナルド・トランプ氏の姿があった。不動産王のトランプ氏は牙城というべきニュージャージー州アトランティックシティで当時、ボクシング興行を開催していた。同じく観戦していた後の統一王者イバンダー・ホリフィールド(米)とタイソンの一戦を同年6月、アトランティックシティで挙行する段取りのための来日だった。トランプ氏にしても、まさかタイソンがノックアウトされるとは予想だにしていなかったに違いない。

レフェリーはメキシコ人

 さて、ダグラスが成し遂げた快挙で一つだけ論及されるのが8ラウンド終了間際に起こったダウンシーン。それまで優勢に進めていたと思われるダグラスがタイソンの右アッパーを食らって背中からキャンバスに落ちた。あの試合のレフェリーはメキシコ人のオクタビオ・メイラン氏。「あれはロングカウントではなかったか?」という疑いが今でも話題に上る。

 映像では「……エイト、ナイン、(テン)」といった感じ。10寸前で立ったダグラスが続行を許された印象。厳密には10.1秒とか10.2秒ぐらいのタイミングだ。この場合カウントアウトされても文句は言えない。レフェリーが続行させたところで終了ゴングが打ち鳴らされた。

 続く9回に盛り返したダグラスが10回に痛烈にタイソンを倒し返して劇的な勝利を引き寄せたのだが、レフェリングによっては8回で試合が終わり、勝者と敗者が逆になっていた可能性があった。だから、あそこで続行されたからこそ、ボクシングの歴史に刻まれる大番狂わせが発生したともいえるのだ。

8ラウンド、倒れたダグラスにカウントを数えるメイラン・レフェリー(写真:Excelsior)
8ラウンド、倒れたダグラスにカウントを数えるメイラン・レフェリー(写真:Excelsior)

2億ドルの試合がフイに

 事が大きくなったのは、もしタイソンが勝利を得ていれば、2億ドル(約220億円)のビジネスといわれたホリフィールド戦が実現し、キング氏やトランプ氏が潤い、WBCも承認料というおコボレにあずかったからだ。試合後、彼らの矢面に立たされたのがレフェリーのメイラン氏だった。

 30周年ということで、最近メキシコのテレビ、新聞、ネットメディアがメイラン氏にスポットライトを当てタイソンvsダグラスを回想させている。現在72歳になるメイラン氏は、あの一戦の前もWBCの本部国メキシコを代表するレフェリーだった。トミー・ハーンズ、アレクシス・アルゲリョ、マービン・ハグラー、ウィルフレド・ゴメス、アズマー・ネルソン、マッチョ・カマチョら著名選手の世界戦を担当。そして“ノー・マス”で有名なシュガー・レイ・レナードvsロベルト・デュラン2を裁いたこともあった。世界ヘビー級タイトルマッチという豪華な舞台に立てたのもスライマン会長をはじめ、WBCの信頼が厚かったからである。

 ところが勝者ダグラスの手を上げリングを降りたメイラン氏に重鎮たちは辛らつだった。「東京ドームの控え室でスライマンに怒鳴られた。『アンタのために2億ドルのファイトがパーになってしまったぞ』と。ドン・キングも『2度とあのレフェリーを世界タイトルマッチで使うな!』とすごい剣幕だった。スライマンには(宿泊先の)ニューオータニ・ホテルでも罵られた。トランプには何も言われなかったけど、きっと彼は私が英語がよくわからないと思ったんじゃないかな」

ボクシング界から追放される

 そう語るメイラン氏は本当に、あの試合を最後に世界タイトルマッチに登場するチャンスを失った。キング&スライマン・コンビ恐るべし。一度だけ特別ライセンスを発行してもらいアカプルコで行われたWBOフライ級戦を裁いたが、93年末までメキシコシティの定期ファイトを受け持ったのを最後にボクシングとの関係を断った。「スライマンに『私が間違っていた』と謝罪すればレフェリーに復帰できる道もあった。だけど私はお世辞を並べたくなかった。だからノーと言ったんだよ」

 終身会長だったスライマン氏はセニョールとかドンとかプレシデンテという敬称をつけて呼ばれるのが常だった。だがメイラン氏は呼び捨てだ。これは2人の関係が親密だったことを裏づけると同時に絶対的な権力者への対抗意識が感じられる。

 ではあのレフェリングは正しかったのか?

私のカウントは速い

 米国向けのメキシコのテレビ番組で電話インタビューされたメイラン氏は「ヘビー級の世界タイトルマッチを担当したのは、あれが最初で最後。完ぺきに仕上げたダグラスが自分の仕事をした。初防衛戦で簡単に負けたのは残念だったけどね。反対にタイソンは練習不足でホテルの部屋に5人も女がいた」と軽口を叩いた後、本題に入った。

 「私はレフェリー時代、カウントを速めに数える傾向があった。それに私はタイムキーパーと正確に呼応してカウントを数えるタイプでもなかった。よくタイムキーパーを見ながらカウントを開始するレフェリーがいるけど、それではタイムロスが生じることがある」

 メイラン氏の話にツッコませてもらうと、タイムロスとはタイムキーパーの指示に従いレフェリーがカウントをスタートするまでの時間を指す。しかしタイムキーパーも選手が倒れると同時に「ワン、ツー、スリー、フォー…」と数え始める。だから基本的にロングカウントが発生することはないと思う。またルール上、タイムキーパーに呼応してカウントすることはレフェリーの義務でないだろうか。

メキシコのメディアの取材を受けるメイラン氏(写真:El Universal)
メキシコのメディアの取材を受けるメイラン氏(写真:El Universal)

本当は14秒それとも?

 同じ番組で進行役は「14秒の謎」という言葉を発している。本当にダグラスが倒れてから試合が再開されるまで14秒もあったのだろうか。もう一度映像を見ると、確かにメイラン氏がカウントを数え始めるスピードは速い。だが途中からスローになった印象がする。そして一度、タイソンに「ニュートラルコーナーに待機せよ」と指示する場面がある。もちろんカウントはそのまま続行されるからロスはない。

 厳密には10秒以上経過していた様子もあった。また辛うじて起き上がったダグラスのダメージを考慮してレフェリーストップのTKOという判断がなされたかもしれない。それでも次の9回に猛然と反撃し10回で試合を決めたダグラスの攻勢を評価すると、メイラン氏は世紀の番狂わせの絶妙な演出者だったような気がする。少なくとも昨年の年間最高試合となった井上尚弥vsノニト・ドネアのダウンシーンの方が限りなくロングカウントに近い。

唯一のミステイクとは?

 私的な見方では10回のタイソンのダウンシーンの方がカウントの進行が遅い。もしかしたらタイソンに起き上がってもらい試合を続行させたいという心理がメイラン氏にも働いたのではないだろうか。まあ、あのダメージでは続行されても長く持たなかったのは明白だったが……。

 ちなみにあの試合で争われたタイトルはタイソンが保持していたWBC、WBA、IBFの3冠統一王座。ところが試合終了後、即座にダグラスをチャンピオンと認定したのはIBFだけ。WBCとWBAが渋々ダグラスを新王者と認めるのは3日後のことだった。いかにダグラスのダウンシーンが物議を醸し出したかを如実に物語るエピソードだ。

 不本意ながらボクシング界から決別したメイラン氏はリーバイス、リーといったジーンズの販売で成功し、今は家族とともに悠々自適の暮らしをしている。最後に30年前の思い出をこう語る。

 「もしあの試合で私に過失があったとすれば、起き上がったダグラスのグローブをシャツで拭かなかったことだ」

ボクシング・ビート米国通信員

岩手県奥州市出身。近所にアマチュアの名将、佐々木達彦氏が住んでいたためボクシングの魅力と凄さにハマる。上京後、学生時代から外国人の草サッカーチーム「スペインクラブ」でプレー。81年メキシコへ渡り現地レポートをボクシング・ビートの前身ワールドボクシングへ寄稿。90年代に入り拠点を米国カリフォルニアへ移し、フロイド・メイウェザー、ロイ・ジョーンズなどを取材。メジャーリーグもペドロ・マルティネス、アルバート・プホルスら主にラテン系選手をスポーツ紙向けにインタビュー。好物はカツ丼。愛読書は佐伯泰英氏の現代もの。

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