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あぁ青春、炎のタックルマン・石塚武生さんの涙ー13回忌に合掌して

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)
練習に向け、スパイクシューズの紐を結ぶ石塚武生さん(石塚家からの提供)

 ある人の夢を見た。僕の大学ラグビー部時代だった。場所がはっきりしないが、西東京・東伏見か、長野・菅平高原のグラウンドだったと思う。全体練習後、タックルの仕方を教えてもらっていた。

 ある人とは、元日本代表の“炎のタックルマン”、石塚武生(たけお)さんである。2009年8月に天国に召されて、もう12年が経つ。今月、十三回忌をお迎えになった。

 なぜ、石塚さんの夢を見たかというと、たぶん、一昨日、石塚家と親交の深い宮坂ヨシザワ真理さんから、ご縁あって、遺品となった石塚さんの日記やノートをお預かりしたからだっただろう。

 石塚さんは僕らのヒーローだった。早大1年のとき、たしかFWコーチをされていた。小柄ながら、その強烈な意志がからだぜんたいからあふれていた。とても強い目をされていた。

 石塚さんは1975(昭和50)年の日本代表×ウェールズ代表(国立競技場)で果敢なタックルを連発し、試合後、グラウンドになだれ込んだファンによって胴上げをされた。中学生の僕は、その試合の石塚さんに感動し、ヨシッ、高校に行ったらラグビーをしようと決めたのだった。

 石塚さんには生前、よくしてもらった。大学卒業後、スポーツの記者となった僕は、何度も石塚さんを取材させてもらった。茨城・常総学院高校のラグビー部監督となった後、茨城県の初等・中等少年院の水府学院でのラグビー指導もカバーした。

 石塚さんは指導の最後、全員ひとりずつ、みんなの体当たりを胸でどんと受け止めていた。小柄なからだで、古傷のある右足を踏ん張りながら。終わって、汗でぐしゃぐしゃのTシャツを脱げば、胸には内出血の赤いアザができていた。

 石塚さんは泣いていた。「一人一人の少年に、ボールを持たせて体当たりをしてもらった。本物のラグビーの痛さは、仲間との絆を強くするものだとどうしても知ってほしかったのだ」。そう漏らした。

 2009年7月28日、日本での2019年ラグビーワールドカップの開催が決まった。石塚さんは殊の外、喜んでいた。その数日後、菅平から下山後、「突然死症候群」のため、帰らぬ人となった。57歳だった。訃報に涙が止まらなかった。

 目下、コロナ禍でどこも、大変な状況である。早大の後輩たちは菅平で合宿中だろうか。とくに1年生にとっては、つらくてしんどいだろう。でも、数十年後、わかる時がくる。その体験がいかに幸福な時間であったかということを。その時の菅平合宿の厳しい時間があったから、今の自分があるのだと。

 石塚さんの日記ノートの<振り返り まとめ 生い立ち~全日本選手>というタイトルの黒いファイルノートを開く。

 1971(昭和46)年夏、石塚さんが早大1年生時の夏の菅平合宿での記述があった。高校3年からラグビーを始めた石塚さんにとって、それは“地獄”だったに違いない。

 <毎日毎日、力を出し切れば出し切るほど、体の底から闘志があふれるのを感じながら練習に打ち込んだ。…(中略)…。そんな合宿の半分が過ぎたOB集合日、現役対OBの試合が行われ、生まれて初めてフランカーとして試合に出場させてもらった。対面は、全日本の井沢(義明)さんだった。何とも言えない気持ちでガムシャラにタックルしたのしか覚えていない>

 翌日、他大学との練習試合、早大は完敗した。石塚さんは、ラグビー日記に<初めて涙腺がバクハツしたのだ>と記した。

 <試合内容が悪く、FW、BKとも、キックダッシュの特訓、くやしくて、くやしくて、ナニくそ! バカヤロウ! とガムシャラに泣きながら走りまくった>

 菅平にはラガーマンたちの青春群像がある。かつての石塚さんのように、どんなにつらくても、シャニムニ走ってほしい。この御時世、ラグビーに没頭できる幸せを味わってほしいのだ。

 己の未来のために、今を生きる。青春の完全燃焼を目指して。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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