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オリンピック運動とスポーツの本源を考えるーPeace Hill(下)天狗と呼ばれた男 岡部平太物語

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)
Peace Hill (下)天狗と呼ばれた男 岡部平太(橘京平著、幻冬舎) 

 オリンピック大会は何のために開かれるのか。あるいは、スポーツの目的は何なのか。その答えが見えてくるような小説だ。日本近代スポーツの礎を築いた反骨の九州男児の伝記、「Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語」(橘京平、幻冬舎)」の下巻。「スポーツとは何か?」と問われると、主人公の岡部平太はこう、答えた。

 「スポーツには必ず、勝敗があります。だから、勝つことが重要だと考えます」

 すると、その問いを発した米国の師のエイモス・スタッグコーチが、勝負にこだわる重要性を肯定しつつ、こう言葉を足した。

 「だが、フェアプレーでなければいけない。ルールを順守して勝つ道を探るのがスポーツだ」

 そういえば、1954(昭和29)年、東京・蔵前国技館で行われたプロレスラー力道山と柔道家木村政彦との試合前、岡部は観客席で立ち上がり、「木村、やめろ!」と大声で叫んでいる。興行の世界ではスポーツとしてのフェアなルールは成立しないことを確信していたからだった。心中が描写されている。

 「ルールの成立しない異種格闘技戦は、もはやスポーツではない」

 予想通り、木村は力道山の反則パンチを受け、失神した。

  

 この本を読みながら、僕はラグビーの大西鐡之祐先生の『闘争の倫理』を思い出した。戦争体験を持つ大西先生には早大時代、ラグビー部の監督をしていただいた。大監督なのに、学生に対してもリスペクトを持たれていた。闘争の倫理とは、「判断によらない判断以前の修練からくる正しい行動」を指すスポーツの倫理観である。現在の「インテグリティ(高潔性)」にも近いもので、簡単にいえば、「ずるをしないこと」か。大西先生はこういう言葉も遺した。

 「勝負というものは、ベストを尽くし戦い終えた瞬間に敵味方が一つの人間愛に包まれてゆく。その闘争の結果が二つの人間の愛情によって包まれていく現象、それが一番尊いのではないか」

 話を戻す。オリンピック運動を簡単にいえば、「平和建設に寄与すること」だろう。その象徴がオリンピック大会となる。運動万能の岡部は下巻では米国に留学してアメリカンフットボールやボクシング、ベースボールなどにも挑戦する。人種差別が辛辣な時代。どんな苦境に立とうと、負けん気のつよい岡部はモットーを念じてあきらめない。

 「どげんかなる! どげんかする!」

 岡部はアメフトなど多くの競技と科学的トレーニング法を日本に持ち帰り、満州(中国東北部)にもわたってスポーツの普及、指導で活躍する。だが時代は戦争できなくさくなる。岡部は長男の平一を神風特攻隊で失う。22歳だった。つい涙がこぼれそうになる。失意の中、岡部は平和のありがたみを改めて痛感するのだった。

 「平和でないとスポーツはできない」

 「オリンピックは平和の祭典だ。その根源を忘れてはいけない」

 「戦争からは何も生まれない。あるのは悲劇だけだ」

 福岡にある「平和台」という競技エリアの由来が興味深い。終戦から3年後の1948(昭和23)年、福岡で開催される第三回国体のメイン競技場の候補地として目を付けたのが、連合国最高司令官総司令部(GHQ)が摂取していた丘陵だった。

 折衝は難航。岡部は最後、こう言って、GHQ幹部を説得した。

 「日本に民主主義を根付かせるためには、スポーツが欠かせません。そのためには、どうしても競技場が必要なのです。ここをスポーツのピースヒル(平和の丘)にしたい。マッカーサー元帥にどうかお伝えください」

 結局は、岡部の熱意が伝わり、スポーツのピースヒル、平和台が誕生した。いい響きだ。福岡国体では競技場のメインポールに日の丸の旗が掲揚された。マッカーサーが戦後初めて公式掲揚を認めた日の丸の旗だった。岡部は心の中でつぶやいた。

 <スポーツの力は偉大だ。平和を願うみんなの思いがこの競技場にはこもっている。平一、喜んでくれよ>

 岡部は科学的なトレーニングを導入し、マラソン選手の育成にも熱中した。先のNHKドラマ『韋駄天(いだてん)』の主人公にもなった日本人初の五輪マラソン選手、金栗四三(かなくりしそう)とともに「オリンピックマラソンで優勝する会」を結成する。二人三脚で強化にあたり、1951(昭和26)年春、チームの監督として臨んだボストンマラソンでは田中茂樹を優勝に導いた。

 岡部は、師事した“日本オリンピックの父”嘉納治五郎に対し、柔道とプロレスの対戦に反対し、決別していた。でも縁だろう。その嘉納が夢見た東京オリンピック(1964年)の日本代表の陸上強化コーチを託された。既に71歳だった。

 驚くのは、コーチとしての探求心である。マラソンの強化策を探ろうと、1960年ローマ五輪で金メダルを獲得した“はだしのアベベ”のアベベ・ビキラに注目、単身エチオピアに乗り込み、高原での練習の効果を知り、帰国後、北アルプスなどでの高地トレーニングを提唱したのだった。

 だが、東京オリンピック開幕の1年ほど前、1963(昭和38)年8月、岡部は九州産業大学での講義中、倒れた。脳出血だった。

 これも縁だろう。岡部は晩年、僕の母校、福岡・修猷館高校の体育講師も務めていた。僕の同期の柔道部員だった友から贈られた本が、この佳作である。

 クリーム色の裏表紙に黒いマジックでこう、乱暴に走り書きされていた。

 <どげんかなる!

    どげんかする!>

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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