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激動のスポーツ史を読むーPeace Hill(上)天狗と呼ばれた男 岡部平太物語

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)
Peace Hill (上)天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(筆者撮影/作成) 

 ことしはラグビーワールドカップ、来年には東京オリンピック・パラリンピック、再来年には関西ワールドマスターズゲームズが日本にやってくる。この“ゴールデン・スポーツイヤーズ”を機とし、スポーツの本質やオリンピズムを考えてみたい。NHKの大河ドラマ『いだてん』に触発され、「金栗四三―消えたオリンピック走者」(佐山和夫、潮出版社)「嘉納治五郎―オリンピックを日本に呼んだ国際人」(真田久、同)を読む。加えて、このほど出版された「Peace Hill(上) 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語」(橘京平、幻冬舎)のページをめくった。

 オリンピズムとは、オリンピックの理念である。オリンピック運動とは、ひとことでいえば、国際平和の建設に寄与することである。福岡に「平和台」という競技場エリアがあった。名付け親は、岡部平太という人物だった。終戦から3年後の昭和23(1948)年、福岡で第三回国体を開催することになったけれど、競技場の土地がない。

 岡部は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が接収していた丘陵に目をつけ、折衝をはじめた。奪還は難航を極めたが、最後のひと言が決め手になった。この本には、こう書かれている。

 「もう戦争は終わったのだ。ここをスポーツによるピースヒルにしたい」

 その後、丘陵は岡部が名付けた「ピースヒル」、すなわち「平和台」となった。かつての西鉄ライオンズの本拠地球場である。

 日本のスポーツ黎明期、世は「講道館柔道」の創始者、嘉納治五郎、“日本のマラソンの父”金栗四三を生んだ。同時期、岡部平太が福岡県・糸島半島の芥屋村(現在の糸島市)に生まれた。反骨精神の塊だった。「どげんかなる、どげんかする」。そう自分を奮い立たせながら、スポーツ風雲児は激動の時代を生き抜いた。

 柔道がめっぽう強かった。運動神経は抜群で、ラグビー、剣道、テニス、サッカー、野球、水泳など何でもやった。「スポーツは勝たねばならない」という信念があった。勝利をめざして切磋琢磨することこそが、スポーツを通じた人間教育の本質だと信じていた。根性論ではなく、科学的な理論を大事にした。日本に初めて科学トレーニングを導入した男としても知られる。

 リズミカルな文体でぐいぐい読者を引き込んでいく。じつは著者も青春時代、柔道に打ち込んでいた。だからだろう、柔道経験者ならではの描写に好感をいだく。「それから1年、帯が何度も擦り切れ、幹の皮がめくれた頃、東京生活二年目の春がやってきた」

 米国に留学し、アメリカンフットボールを日本に初めて紹介した。留学後の東京高等師範学校(現筑波大)講師時代に、東京高師校長を長くつとめた師・嘉納治五郎に対して、柔道とプロレスとの対戦に反対し、師と決別する。のちの嘉納に「あいつがいてくれたら」と言わせる。小説の冒頭、嘉納は臨終の際、「岡部、お前は今、どこで何をしているのか…」と悔やむ。

 嘉納は最後、愛用の万年筆で黒革の手帳にこう、記した。

 「わが夢を託す」

 嘉納治五郎、金栗四三ら、近代スポーツの幕開けに参加し格闘した人々との交差も織り交ぜつつ、波乱万丈の岡部平太の人生が描かれる。日本が初めてオリンピックに参加した明治45(1912)年のストックホルム・オリンピック大会の日本の風潮はどうだったのか。なぜ日本は東京オリンピック開催にまい進したのか。

 スポーツの持つ力とは。平和と自由を愛した九州男児に寄り添い、スポーツの歴史に触れるのも悪くなかろう。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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