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ミスター慶応、上田昭夫さんを悼む

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)

ラグビーの元日本代表SHで慶大監督を務めた上田昭夫さん(亨年62)の葬儀ミサ・告別式が27日、都内の教会で営まれ、ラグビー関係者ら約400人が最後の別れを告げた。午後3時。炎天下の出棺では、せみ時雨の中、1984年度主将の松永敏宏さんのキャプテンソロによる慶応ラグビー部の部歌がOBたちで静かに歌われた。

松永さんは上田監督の下、29年ぶりの関東大学対抗戦の全勝優勝を果たした。のちに監督も務めた松永さんは部歌を歌っている時、「ずっとありがとうございました、と思っていました」と言う。

「今日の自分があるのは、上田さんのお陰です。(慶応の)歴史をつくっていただいた。僕らの現役の時はまだ若く、時には一緒に走ってくれていました。練習は厳しかった。とにかく情熱の人でした」

上田さんは慶応幼稚舎時代にラグビーを始め、慶大では主将を務めた。身長160センチの小柄なからだでSHを務め、「魂のタックル」も得意とした。まさに慶応魂の権化のような人だった。現役引退後、母校慶大の監督に就任、部員と一緒に走りながら猛練習に打ちこみ、グラウンドを離れるとやさしい兄貴に変わった。部員たちをよく、自宅の夕食に招きもした。

1985年度、33歳で慶大を日本一に導き、また創部100周年となる1999年度を大学日本一で飾った。二度目の監督のときは、フジテレビでも活躍していた。その多忙の上田さんをフルタイムのコーチとして支えたのが、慶大OBの林雅人さんだった。

葬儀ミサ・告別式に出席した林さんも上田さんの情熱に驚いたことがある。戦う姿勢に厳しく、九州の遠征先でのミーティングでは2人の部員がにやにや笑ったことに激怒、「やる気がないなら、すぐ東京に帰れ!」と怒鳴ったこともある。

林さんが説明する。「選手にもOBにも、スイッチが入った時はすごい感じになるんです。私も怒られたことがある。情熱があって、目標に向かって一直線に進む方でした。事なかれ主義の真反対です。こだわり主義とでも言うのでしょうか。すべてに真剣な方でした」

ただ、上田さんは周りへの心遣いも忘れなかった。指導の根っこに愛情があり、部員にフェアでやさしかった。「雅人、いつも世話になって悪いな」と言われて、カナダでの日本代表の試合に連れていってもらったことがある。飛行機もホテルも上田さんが手配した。カナダの空港について、強い陽射しを見ると、「雅人、太陽で目を痛めるぞ」とサングラスまで買ってもらったそうだ。そんな人だったのだ。

こちらも随分、親しくさせてもらった。いつも少年のように真っすぐな人だった。食事を一緒にした時、「慶応魂とは?」「魂のタックルとは」と聞いたことがある。上田さんはこう、即答した。

「意地だよ、意地」

この日の告別式では最後、喪主の妻・順子さんに代わって長女がしっかりとあいさつした。素晴らしかった。「難病で急死と報じられましたが、1年半の闘病生活でした」とも明らかにした。昨年3月の香港セブンズの時も上田さんと空港で偶然一緒になって言葉を交わした。そういえば、どこかやせていた印象がある。

東京・日吉の慶応ラグビー場の隅っこには、『日本ラグビー蹴球発祥記念碑』という円柱形の石碑が建っている。もう4、5年前の夏の日か。ぶらりと日吉を訪ねたら、上田さんはひとりでせっせと周りを掃除していた。

上田さんは家族と仲間を大切にした。とくにラグビー仲間を。この日の厳かな葬儀ミサ・告別式に出席したら、上田さんがいかに部員に慕われていたかがよく分かる。かつての教え子たちが一生懸命に葬儀の手伝いに回った。告別式が終わると、ラグビー部OBが大聖堂の隅っこで背中を丸め、ただ号泣していた。

6年前の夏には“炎のタックルマン”と言われた早大ラグビー部OBの石塚武生さんが57歳で天に召された。上田さんは石塚さんと親友だった。今ごろ、天国では、二人がどんなラグビー談議に花を咲かせているのだろう。

さようなら、上田昭夫さん。ありがとうございました。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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