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さよなら、五輪を愛したハムさん

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)

みんなに「ハムさん」と慕われた伊藤公(いさお)さんが、天国に召された。78歳だった。日本で数少ない五輪評論家で、オリンピックのことをよく教えてもらった。目を閉じれば、あの優しい眼差しがまぶたに浮かぶ。

雨の11日、東京・新宿の寺で、お通夜がしめやかに営まれ、国際オリンピック委員会(IOC)の猪谷千春名誉委員ら五輪関係者も故人を偲んだ。遺影は1996年アトランタ五輪取材時の、メイン競技場の聖火をバックにした笑顔だった。祭壇の横には五輪マークの花も並んだ。

ハムさんが会員となっていた日本オリンピック・アカデミー(JOA)の笠原一也会長は言う。「ハムさんは、東京オリンピック・パラリンピックが決まったことをすごく喜んでいた。オリンピックを愛しているからこそ、ドロドロしたことには心配をしていた。2020年オリンピック・パラリンピックを見られなくなったのは心残りかもしれない」と。

反骨の人だった。信念、情熱の人だった。1935(昭和10)年生まれのハムさんは、日本がモスクワ五輪をボイコットした1980(同55)年、日本体育協会事務局の国際担当参事を務めていた。ボイコット決定の日を、「日本のスポーツ界にとって絶対に忘れてはならない日。スポーツが政治に敗れた日」と口にしていた。

私がモスクワ五輪ボイコットについての拙著『五輪ボイコット~幻のモスクワ、28年目の証言』を書く際、何かと相談にのってもらった。ご自身でもWebで『モスクワ五輪ボイコットの真相』というドキュメントを書かれており、ボイコット決定の貴重な会議メモまで提供してもらった。

なぜ、そこまで、と感謝していたけれど、ハムさんはモスクワ五輪ボイコットの経緯を歪曲しようとする日本スポーツ関係者に危惧を抱いていたからだった。ハムさんは、モスクワの地に行けなかった日本選手団の心情に寄り沿い、そうせざるをえなかった日本オリンピック委員会(JOC)の非力さとスポーツ界の体質、政治の強権を嘆いていた。

ハムさんは生前、おっしゃっていた。「なぜ、日本はモスクワ五輪をボイコットしたのか。我々はこの自問をし続けなくてはならない」と。そうなのだ。スポーツが政治とは無縁でないにしても、モスクワ五輪ボイコットを反省し、もっと独立性を築くべきなのだ。

ハムさんは1991(平成3)年に55歳で日本体協を希望退職し、フリーランスの道に入った。「五輪評論家」を名乗り、五輪パラリンピックを中心としたスポーツの話題についての執筆、評論活動を続けてこられた。とくに辛口の批評は切れ味があった。

取材証確保に苦労しながらも、五輪の現地取材、視察は計11回(夏季7回、冬季4回)におよんだ。五輪の理想と現実のギャップを鋭く指摘されていた。テレビでハムさんをご覧になった方も多いのではないか。

『オリンピックの本』などの著書を書かれ、昨年末には『オリンピック裏話』(ぎょうせい)を上梓された。なぜ2020年東京五輪パラリンピック招致に成功したのか、これからの日本スポーツ界の課題は何なのか、一緒に議論させてもらったこともある。

2020年東京五輪パラリンピックを楽しみにされていた。これを通し、日本のスポーツ界がどう変革していくのか。どんなレガシー(遺産)が築かれていくのか。私たちは故人の遺志を受け継ぎ、東京五輪パラリンピック組織委や政府の動きをウォッチし、記録していかなければいけないだろう。

ふだん我々がオリンピックというところの「オリンピック・ゲームズ」だけでなく、「オリンピズム」や「オリンピック・ムーブメント」なども深く考えなければいけない。東京五輪パラリンピックの招致段階で触れた「オリンピック・バリューズ(五輪の価値)」とは何なのか。平和とは。

私たちはもっとオリンピック・パラリンピックのことを学び、考え、行動していく必要がある。ハムさんの遺影を眺めながら、そんなことを思った。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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