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さよなら、心やさしきゴジラ。

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)

松井秀喜らしい引退会見だった。あくまで自然体。どんな質問にも誠実に答える。涙をこらえ、時にはほのぼのとした笑いを誘う。「引退という言葉はあまり使いたくない。まだ草野球の予定も入っているしね…」。ニューヨークからの切ない映像。本人の言葉通り、寂しい気持ちもあり、ホッとした気持ちもあったのだろう。

松井に関しては、2度、驚いたことがある。1度目は2009年、前年の巨人ドラフト1位の大田泰示を取材したときだった。背番号が松井の付けていた「55」。からだも大きく、松井をほうふつさせる大物オーラを発散させていた。取材場所が多摩川のジャイアンツ寮だった。松井が入っていた、通称“松井部屋”である。

「すごいと思います」と大田が言った。何のことかといえば、畳がすりきれて大きな窪みができていた。巨人の新人時代、松井が毎日素振りしていた場所で、目の前には全身を映す大きな鏡がおかれていた。

松井はそこでスイングをしてから球場にいき、試合前にはミスター長嶋茂雄さんと二人でスイング練習し、球場から帰るとまた、スイングをしていたそうだ。つまり練習、練習の毎日だった。

松井は飛距離に関して天賦の才を備えていたけれど、「努力の天才」でもあったのである。だから日米のプロで20年間、死ぬ気でがんばれたのであろう。

もうひとつが、これも、3年前の師走のことだった。東京の某所で、松井を単独インタビューしたことがある。同じ場所でポスターの写真撮影もあったので、インタビュー開始が遅くなった。当然、終了時間も遅くなる。たしか夜7時か、夜7時半ぐらいだったと思う。

そのあと、部屋をご年配の女性がそうじをしてくれた。松井はその年のワールドシリーズMVP祝いの大きな花束を持っていた。松井が帰る支度をして、さあ帰ろうとした時、柱の陰で、さりげなく、女性にその花束を渡したのである。

「遅くまでお疲れ様です。これ、もらったものですが、よろしければ」。実に自然体だった。買えば、何万円もする豪華な花束。あのときの松井のやさしい顔と、女性のくしゃくしゃとなった笑顔を忘れない。

その時は、ヤンキースからの移籍話が出ていて精神的につらかった時である。それでも周りに対する優しさを失わない。松井は野球選手として超一流だったけれど、間違いなく、人間としても超一流だった。

インタビューの時、子どもたちに何か一言と言ったら、たしか、こう笑顔で即答した。「“夢に向かって突き進め”。そういうことですね。はい。何事も。そういうことです」と。大リーグを極める夢に向かってまい進した松井。お疲れ様でした。まだ38歳。次はどんな形の夢を紡いでいくのか。

周りからは指導者になってほしい、との期待が高まっていくだろう。20年間の日米プロ生活、さらにはミスターから学んだことを次世代に伝えることは、だれからも愛される野球人・松井の宿命かもしれない。

【『スポーツ屋台村』(五輪&ラグビーPlus)より】

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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