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将棋の2日制のタイトル戦では2通の封じ手が作られるけれど、そこで違う手が書かれていたらどうなるのか?

松本博文将棋ライター
2011年王将戦七番勝負の封じ手(記事中の写真撮影・画像作成:筆者)

 将棋界では8つのタイトル戦があります。そのうち、2日制なのは名人戦(持ち時間各9時間)、竜王戦、王位戦、王将戦(各8時間)の4棋戦です。

 2日制の場合は1日目が終わり「指し掛け」とする際、最後に手番となった対局者が「封じ手」をおこないます。これは手番の側が一晩考えられるなどの不合理をなくすなど、合理的な趣旨があります。

 封じ手をする対局者は用紙に次の手を記入し、封筒に入れて密封し、運営側(立会人)に預ける。そして翌朝、封じ手を開封して対局再開。これが2日制のタイトル戦の流れです。

 将棋界が近代的な制度を確立していく際には、チェスの制度も大いに参考にされました。持ち時間制や封じ手(シールドムーブ)などもその一例です。

 封じ手の制度が導入された当初は、用紙に棋譜(符号)を記す形式でした。

 ではもしその際、棋譜を間違えてしまったらどうするのか。そんな例はなさそうでいて、実は長い将棋界の歴史では、そんな前例もあります。将棋史に詳しい東公平さんは次のように記しています。

古将棋に詳しい方はご承知の通り、棋譜の書き方は幾通りもあるため、二八飛と八二飛のような、単純な書き誤りがよく生じた。しかし、お互いさまということで、このミステイクを「反則じゃ」ととがめる人はなく、笑って訂正し、対局は続行されていたのだ。そういう時代だった。

出典:東公平『近代将棋のあけぼの』

 塚田正夫名誉十段(1914-77)は次のように記しています。

封じ手といえば、私の失敗談をご披露しよう。昔、ある棋戦で、木村名人との対局(香落)であるが、私の封じ手が8六飛と書くのを2六飛と間違えてしまい、敵の2五歩の頭に行ってしまった。木村名人のことであるから笑って許してくれたが、ひやあせ物であった。

現今の封じ手は、棋譜号で書くのではなく(前述の2六飛でなく)、図面を用意して、矢印で駒の行く道を書く、これなら間違いない。

出典:塚田正夫『将棋世界』1976年1月号

 塚田名誉十段が記す通り、封じ手で間違いが起こらなくなったのは、用紙にあらかじめ運営側(ほとんどは記録係)が図面を書き、そこに矢印で駒を進める先を記入する方式となったからです。

 その方式が最初に採用されたのは、1937年におこなわれた、いわゆる「南禅寺の決戦」(阪田三吉-木村義雄戦)のようです。「南禅寺の決戦」と「天龍寺の決戦」(阪田三吉-花田長太郎戦)は持ち時間30時間の7日制という空前絶後の設定としても知られています。

 将棋史上のスーパーヒーローである阪田三吉贈名人・王将(1870-1946、姓の表記は「坂田」とも)は、ほとんど字が書けない人でした。そこで図面に矢印の方式が考えられたそうです。記録係を務めていた山本武雄九段(1917-1994)は次のように記しています。

△4五金打に▲5三歩と迫り、つぎの一手が坂田翁の封じ手となって第五日目を終る。なお、封じ手は当時、7六歩、3四歩といったように、指した手を符号で書いて、封筒におさめるならわしだったが、坂田翁が文盲のため、令嬢の玉江さんがあらかじめ用意された図面用紙へ、動かした駒を矢印で記したのであった。

出典:山本武雄『将棋百年』

 指し手を図面に記すことにすれば、ほとんど間違いは起こらなくなるでしょう。そしてその方式は、現在にまで踏襲されています。念のために符号まで記しておけば、さらに確実かもしれません。(成、不成などの区別が必要な際には、その旨を字で記す必要はありそうです)

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 さて現在の2日制タイトル戦では、封じ手は2通作られるのが慣例です。その趣旨はまず何よりも、紛失に備えることと思われます。

 1日目夜から2日目朝にかけて、封じ手の1通は立会人が預かり、もう1通は宿の金庫などに保管されるのが通例です。そうなれば仮に1通が紛失した際、対局続行に支障をきたすというリスクはほとんどなくなります。

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 ではいつから封じ手は2通作成されるようになったのでしょうか。東公平さんに尋ねてみたところ、これはどうもはっきりしないようです。

 「南禅寺の決戦」の観戦記を担当した菅谷北斗星は次のように記しています。

(第一日目)坂田氏は考慮四十四分、令嬢玉江さんと別室に赴き、『指し掛け』となる手を記した。そして厳重に封緘してこれを北斗星に託した。私はこれを明日の対局開始まで肌見離さず保管することにした。夜眠る時も一緒に眠ることにした。

出典:菅谷北斗星観戦記

 これを読むと、当時は1通だけだったようにも思われます。

 2通作ってしまえば、なるほど紛失のリスクは分散されます。ではもし、2通でそれぞれ違う手が書いてあると、どうなるのでしょうか。

 これはもう将棋界の定番中の定番と言っていい疑問です。

X「封じ手は2通作られます」

Y「これもし、違う手が書かれていたらどうするんですか?」

X「さあ・・・。どうなるんでしょう?」

 将棋番組の中継を見ていると、まるで定跡のように、そんな解説と聞き手のやり取りが見られます。関係者がどうなるのか知らないのですから、ファンは知るよしもありません。

 東さんは次のように記しています。

ところで、もし二通の封筒から、違う手が出てきたらどう処置する? 人騒がせだから、なるべくこの種の話は書かないようにしてきたが、最近のタイトル戦で、かなり危ないケースがあったらしい。

出典:東公平『近代将棋のあけぼの』

 どれほど完璧な人間でも、時には考えられないようなミスをします。タイトル戦に登場するような棋士であっても、ミスをしないとは限りません。

 東さんは封じ手は1通でいいのではないか、という主張をされています。

チェスでは封筒は一通だ。封じ手の規定があり、書き損じでもなんでも、不可能な手を書いたり、なにも書かない場合は負けになる。国際試合の多いチェスでは、もめごとが起きては大変だからルールブックは完璧に近く、各国語で出版、市販されている。

(中略)将棋の封じ手も、封筒は一通にするほうが安全である。仮に紛失しても、封じた人を信用すれば一大事にはならない。

出典:東公平『近代将棋のあけぼの』

 一方で封じ手は必要に応じて作られる実用的な用途があるとともに、現代ではタイトル戦がおこなわれた際の重要な記念品ともなります。封じ手がプレゼントの商品となったり、チャリティーに出品されたりすると、ファンには喜ばれます。おそらく封じ手はこの先も、複数作られる続けるのではないでしょうか。

 では2通の封じ手に違う手が記されていた際にはどうなってしまうのか。

 それはやっぱり、よくわかりません。

 悪意のない多少のミスであれば、運営側は善意に解釈して穏便に対局を続けようとするでしょう。そして木村名人と塚田八段の故事にならえば、相手は笑って了承、ということになりそうです。

 想定されうる事態である以上、あらかじめルールで定めておけばよさそうにも思われます。しかし実際にトラブルが起こってからでないと細かなルールを作らないのもまた、将棋界の流儀のようです。

「どうなるか」という問いに、いま言えるだけの予想を記すとすれば、おそらくはそれを機にルールが設定され、その先同様の事態が起きた時にどうなるかはっきりする、ということになりそうです。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)、『など。

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