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駒をひっくり返す余裕もない? 残り時間切迫の終盤戦における飛車不成(ならず)

松本博文将棋ライター
(記事中の画像作成:筆者)

 4月25日、第3回AbemaTVトーナメント、チーム久保VSチーム三浦が放映されました。その際、先鋒戦・第2局▲高野智史五段-△今泉健司四段戦で、高野五段が飛車を不成で動かしたことが話題となりました。

 映像では20分20秒のあたりからをご覧ください。延々と続く相穴熊の終盤戦。後手の今泉四段は△4四角と攻防に角を打ちます。

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 今泉四段の角は高野陣をにらみながら、2二の飛車取りになっています。フィッシャールールで残り時間があと15秒の高野五段。対局時計の電子音が響く中、残り5秒となったところで、表情を変えずにすっと▲4二飛不成(ならず)と指しました。

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 解説の阿久津主税八段と聞き手の飯野愛女流初段は驚きます。

阿久津「えっ? 飛車不成?」

飯野 「不成・・・もう成ってる余裕がない?」

阿久津「これはたぶん、成り忘れただけだと思いますけど(笑)。まだ9秒ぐらいありましたからね。もう龍だと思ってたんじゃないですか? 頭では」

 残り時間が切迫する中、あわてて着手して飛車をひっくり返す余裕がない。これは実戦でもしばしば起こりうることです。またネット上の対局での操作ミスともなれば、それこそ日常的に見られる光景です。

 高野五段は早指しという設定の中、比較的余裕をもって指しました。高野五段の表情は変わりません。致命的なミスをしたと動揺している様子もありません。ここは成った方がわずかによかったものの、成らなくても形勢を大きく左右するところではありませんでした。

 この成らなかった先手の飛車は後手の龍(成り飛車)と交換されて、ほどなく盤上から消えます。最後は210手という長手数の末に、今泉四段の勝ちとなりました。

若き日の羽生九段の飛車不成

 打ち歩詰めを回避するための飛車不成は、詰将棋ではしばしば現れるテーマです。また実戦でもごくごくまれに生じます。

 一方で、棋士同士が対戦する公式戦で、時間に追われて飛車不成が着手されるのは非常にレアです。ただし、その例がないわけではありません。

 1992年度の第5期竜王戦七番勝負は谷川浩司竜王(30歳)に羽生善治二冠(22歳)が挑むシリーズでした。

 第1局はロンドンでおこなわれ、谷川竜王の勝ち。△5七歩成とできるところに、あえて桂を打つ△5七桂という妙手が出た一局でした。

 続く第2局は福島でおこなわれました。そして2日目夕方、竜王戦七番勝負史上初の千日手成立。協議の末に、後日指し直しとなりました。

 第2局指し直し局は富山でおこなわれました。持ち時間はフルの8時間に戻っています。(以上の経緯もまた将棋トリビアクイズで出題されそうなレアケースです)

 指し直し局もまた、大熱戦となりました。その最終盤の部分図。

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 先手の羽生玉は受けなしで、後手の谷川玉が詰むか詰まないかの一点にかかっています。残り時間は谷川竜王12分。羽生挑戦者1分。羽生挑戦者は6一飛を動かして銀を取り、▲4一飛不成と王手をしました。

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 これは取る一手なので△4一同玉。これで谷川玉は詰まず、以下は数手進んで谷川竜王の勝ちとなりました。

 さて、後世の人は何の情報もなく棋譜だけを並べ、この▲4一飛不成を見たら、いぶかしく思うことでしょう。

「えっ、打ち歩詰め回避でもないのに、どういう意味があるの?」

 『将棋年鑑』や『名人、羽生善治。』といった当時の文献を見ると、注釈は何も書かれていません。もちろん上級者が見れば、残り時間と、終盤のギリギリの局面という状況から、おおよその推測がつくことでしょう。他の文献を見ると、次のようにはっきりと記されています。

▲4一飛不成=秒に追われての着手。

出典:『谷川浩司全集』(平成4年版)

 若き日の羽生九段が、飛車を成るだけの余裕がない終盤戦だったという意味でも、歴史に残る一局だったのかもしれません。

 シリーズは最終的に最終第7局にまでもつれこみ、最後は羽生挑戦者が4勝3敗(1千日手)で制して、竜王復位を果たしています。

若き日の森内九段の飛車不成

 部分図は1999年度棋王戦挑戦者決定戦二番勝負第1局▲島朗八段-△森内俊之八段戦(段位はいずれも当時)。

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 詰めろ逃れの詰めろが双方に出る最終盤で、図では先手の島玉が詰まなければ勝ちというところ。森内八段は△8八飛不成と金を取って王手をかけました。

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 これは成でも不成でも取る▲8八同玉と取る一手。そして先手玉はわずかに詰まず、島八段の勝ちとなりました。

 当時の新聞観戦記には「今期のベスト10に入る名局」と書かれています。一方で△8八飛不成については触れられていません。観戦記欄はスペースが限られていますし、また一局の素晴らしい内容からして、飛不成などは些末なこと、という判断なのかもしれません。

 続く挑決第2局は森内八段の勝ち。羽生棋王への挑戦権を獲得しました。

 こちらの部分図は2001年全日本プロトーナメント決勝五番勝負第5局▲谷川浩司九段-森内俊之八段(当時)戦より。

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 形勢はすでに森内八段勝勢で、どう決めるか、というところでした。森内八段は△7八飛不成と馬を取りました。

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 これにはやはり▲同馬の一手なので、成っても成らなくても、ほぼ同じところ。森内八段には時間を倹約する意図があったようです。

 結果は森内八段の勝ちとなりました。

 以上、公式戦で現れた飛車不成の例でした。もしかしたら、ご存知のない方もおられるかもしれません。現代のようにインターネットでリアルタイムで中継されていたら、もっと大きな反響を呼んでいたことでしょう。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)、『など。

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