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木村義雄14世名人は現役中、歳をいくらかサバ読みしてた?「早熟の天才」の年齢に関するミステリー

松本博文将棋ライター
(写真撮影:筆者)

 自分より年上だった人が、いつしか年下になっていた。

 理屈から言えば、そんなことは起こりません。年上の人は、いつまでも年上です。しかしながら芸能界では、そんな逆転現象がしばしば起こるようです。

 年齢をいくつか(ほとんどの場合は若く)ごまかしてプロフィールとする。それが何かのきっかけで、真実が明らかになってしまう。当事者は記者会見で、

「ごめんなさい、サバを読んでいました」

 などと謝罪する。ファンにとっては、いくらかショックなことでしょう。もっとも、多くの人にとっては、わりと「どっちでもええやないか」という話で終わるのかもしれません。

 現代の将棋界では、たとえば棋士の養成機関である奨励会に在籍するのに、厳重な年齢チェックがされます。

 もっとも、年齢制限のない昭和半ばまでの将棋界は、年齢に関してはわりとおおらかだったようです。

 昔の将棋指しの年齢がよくわかってなかったところ、新しい資料の発見によって生没年が明らかになった、ということはしばしばあります。

 では、近代ではどうでしょうか。『名人木村義雄実戦集』第7巻の月報に収録されている菅谷北斗星(観戦記者)の一文に、次のような記述があります。

将棋界の七不思議の一つに、木村の年齢がある。彼自身は四十七歳と言つてるが、額面通りにはどうも受け取れない。

出典:菅谷北斗星「木村と升田」『名人木村義雄実戦集』第7巻月報所収

 以下に続く内容は「47歳とも思えないほど若い! すごい!」という紋切り型、テンプレ通りの話ではありません。「名人は47歳って言ってるけど、リアルにどこかおかしいわ、サバを読んでいるんじゃないの」(真顔)と感じられるものです。

 いやいや。木村義雄はもう近代の人ですよ。生まれた日付は戸籍にしっかり書かれてるでしょう。それも将棋史上における大名人。多くの人が、その人となりを調査している。それが年齢におかしな点があるとはそんなバカな・・・。

 ということを語るその前に、当時の将棋界の状況をのぞいてみましょう。

 北斗星の一文は1951年の名人戦七番勝負第1局▲木村義雄名人-△升田幸三八段戦で木村名人が勝った後に書かれたものです。

 木村名人は1905年2月21日に生まれたと伝えられています。ならばこの時、満年齢で46歳1か月。数え年ならば47歳です。誕生日からの計算通りで、何もおかしくありません。

 一方の升田八段は1918年3月21日生まれ。第1局が終わった翌日が誕生日で、その時点で満33歳。数えで34歳となります。

 木村、升田の両雄の年齢差は13歳。現代であれば羽生善治九段が49歳、渡辺明三冠が35歳で14歳差。ちょうど似たぐらいの開きでしょうか。

 木村、升田の両者はまさに「宿命のライバル」という間柄でした。

 1951年。A級順位戦最終局で升田八段は大山康晴八段(当時28歳)に勝って、名人挑戦を決めます。升田八段は8勝1敗1持将棋。大山八段は8勝2敗。この頃は両者と木村名人、塚田正夫前名人(当時36歳)がトップ4を形勢していた時代でした。

 名人挑戦者が決まった翌日、東京の木村名人と大阪の升田挑戦者は、ラジオを通じて対談します。オールドファンにはよく知られている有名なやり取りですが、これも木村全集の月報から、その頃(1952年)にNHK記者の海野謙三が木村名人について書いた一文を抜粋します。(発言者の名は引用者が補いました)

今まで名人戦の感想はずいぶん録音したが、最もおもしろかつたのはやはり第十期名人戦の対升田八段とのAK・BKからの対局前の二元放送だろう。

木村「大山君には悪いが今度はあんたに勝つて貰いたかつた。気迫がわかつていたからあんたが勝つとは思つていたが――」

升田「窮鼠かえつて猫を噛むですよ、呵々」

木村「同じ棋風の人といつもさしているんじやたいして修業にならないよ」

升田「大山のような女房の味ぢや飽きたんでたまにはキャンキャン芸者の味も嘗めたいというところですか。はつはつ……兎も角枯淡な味の出てきた名人に挑戦できたのはうれしい」

木村「あんたはそういうが枯淡な味が出てきたらおしまいぢやないか」

升田「ゴマ塩頭にいつまでも名人になつておられては困るというのが私の本心です」

木村「ゴマ塩頭でも負けたくはないからな、まあ早く風邪を直しなさい」

出典:海野謙三「棋士と放送――木村義雄」

 この対談のハイライトは、升田八段が木村名人に向かって「ゴマ塩頭」と言い放つところです。「ゴマ塩頭」とは白髪まじりの頭のことで、名人の年齢を揶揄しているわけです。対して名人も負けずに言い返す。現代のトップ棋士同士、たとえば羽生九段と渡辺三冠の間では、間違ってもこんな言い合いにはなりません。

 さて、年齢だけを見れば、指し盛りの升田八段に対して、木村名人はすでに最盛期は過ぎていたとは言えるかもしれません。

 当時の観戦記は加藤治郎八段(後に名誉九段、ペンネームは三象子)が担当していました。加藤八段は次のような描写を残しています。

二日間の激闘に疲れたのだろう升田の額にアブラが浮き、木村のアゴヒゲが白く光っていた。

出典:三象子:第10期名人戦第3局観戦記

長考中、若い升田は、タバコをやめすっかり健康を取り戻したのか全然疲れを見せない。が年長の木村は「砂糖水を一ぱい下さい。何か疲れたようだ」彼のアゴヒゲが二、三本白く光っている。

出典:三象子:第10期名人戦第6局観戦記

 年齢に関して、両者のコントラストが強調されています。

 さてこの七番勝負の内容がまた面白くて・・・と始めてしまうとさらに前置きが長くなるのでここでは割愛します。スコアは4勝2敗で、木村名人が防衛。数えで47歳の第一人者が手練手管を尽くして、最盛期を迎えつつある挑戦者を相手に、名人の地位を死守しました。

 さて、先ほどの年齢の話に戻ります。木村名人はこの時、本当は何歳だったのか。菅谷北斗星は以下の証言を紹介しています。

 松下七段は、「私が十六歳の時木村さんは二十八歳だつた。ことし私が三十七歳、木村さんは四十九歳になる筈だが、どこで若くなつたのか」と不思議がつていた。

 土居八段は、「木村は不思議じやよ。金子より年上だつたのが、何時の間にか下になつてしまつたよ」と笑つていた。

 このあいだ、将棋連盟で斎藤八段の対局があつた。そこに木村名人が現われ、「斎藤君は私より年上なのに元気だネ」と賞めた。斎藤は「冗談言うな。自分の方が年上な癖に」と、プリプリ怒つていた。

出典:菅谷北斗星「木村と升田」『名人木村義雄実戦集』第7巻月報所収

 ひえー。これはどういうことでしょうか。

 松下力七段(後に九段、1913-1987)は1905年生まれという木村名人とは、8歳違いのはずです。ところが松下七段の認識では当初、12歳差だった。松下七段が「ことし私が三十七歳」というところ、正確には1951年で数えで38歳だと思われますが、それにしても松下七段の計算では木村名人の年齢が合いません。

 金子金五郎八段(後に九段、1902-1990)は木村名人よりも3歳年長のはずです。それが土居八段の証言によれば、はじめは木村名人の方が年上だった。そしていつの間にか逆転して、木村名人の方が年下になった。これまた、どういうことでしょうか。

 斎藤銀次郎八段(1904-1979)は、木村名人が1905年生まれだとすれば、確かに斎藤八段の方が年上です。しかし斎藤八段に「自分の方が年上な癖に」と思わせたということは、最初の設定ではやはり、木村名人の方が年上だったことをうかがわせます。

 北斗星は次のように続けます。

 ともかく、木村名人の正確な年齢は誰にも判らない。煙幕の彼方にある。これが俳優とか舞台に立つ芸人なら、職業上年齢をかくす必要もあろうが、女子供を対象としない棋士として、年齢を隠す必要がどこにあるだろうか。

 それは、彼の若さに対する憧れ、執着と解する外はない。木村の衰えを見せない強さは、この俗つ気、娑婆つ気になる。名人の称号からくる枯淡味なぞ薬にしたくても感じられない。それでいゝのだ。

出典:菅谷北斗星「木村と升田」『名人木村義雄実戦集』第7巻月報所収

 「女子供を対象としない」とは、現在の観る将棋ファンの視点からすれば「えええ」というところですが、当時としてはそんな認識だったのでしょう。木村名人の若さへの執着に関しては、その通りなのかもしれません。そして北斗星記者は「木村名人の正確な年齢は誰にも判らない」と軽く流す。当時の感覚では、それでいいのでしょう。年齢が何歳であろうとも、そんなことはどっちでもええやないか。要は何歳であっても強ければいい。それが将棋界の伝統的な考え方かもしれません。

 ただ、もし万が一、木村名人が年齢に関してサバを読んでいたとしたら、年齢に関する記録に関しては、ちょっと保留をつけなければならなくなります。

 木村名人の自伝『将棋一代』を見てみましょう。少年期の頃のことを読んでいると、前後の文脈とはあまり関係なく、やや唐突な感じで、次の一文がはさまれています。

ここで私の年齢に関する疑問だが、当時十三歳というのは、明治三十八年二月生れとある戸籍面によっての計算だが、確か五歳の時と思う、浅草で迷子になって、吾妻橋の交番へ連れて行かれた時、迷子札に竜の画が彫ってあったことをかすかに記憶している。辰年ならば明治三十七年の筈だから、あるいは年末に生まれたのを、春に持ち越されたのではないかとも思うが、父に訊いても古いことで、はっきりした記憶がないらしい。どっちでもよいことのようだけれど、筆の序(ついで)に記して置く。

出典:木村義雄『将棋一代』

 うーん・・・。このはっきりしない書き方はどうも、何やらはっきりしないものを感じさせます。「年齢詐称」を問われ続けた上での政治家風の釈明のようにも感じられますし、あるいは本当に、何らかの家庭の事情で、木村名人自身も実際の生まれた年月日についてはよくわかってないのかもしれない。

「迷子札」については、以下の記事の抜粋をご覧ください。

迷子や捨て子が頻発した江戸時代、子どもが、当人であることを証明する「迷子札」を携帯させられていた。東京都埋蔵文化財センターによる四谷一丁目遺跡(新宿区)の発掘調査で貞享2年(1685年)の迷子札が見つかり、この習慣が遅くとも江戸前期からあったことがわかった。(中略)

発見された迷子札は縦約7センチ、横約4センチ、厚さ約6ミリの将棋駒形の木札。(中略)

迷子札は都内の遺跡からは14例出土しているが、今回のもの以外はすべて真鍮や銅など金属製の小判形で、比較的新しかった。サイズは長さ5センチ前後で、住所、親の名前、子の名前のほか、多くは片面に干支(えと)の絵が刻まれている。(中略)

迷子札の習慣は明治期に廃れ始めるが、大正時代にも関東大震災を機に復活したようだ。人混みでの迷い子は、いつの世も親の悩みであることをうかがわせる。

出典:「読売新聞」2019年1月30日「江戸前期から『迷子札』発掘調査で木札」

 将棋の駒形をした最古の迷子札は、こちらで見ることができます。

 木村名人の幼少期である明治の終わりには、木札ではなく、違ったスタイルであったものの、子どもたちに迷子札をつける風習は残っていた。そこには生まれた干支を示す竜(辰)が描かれていた。だとすればそれは少なくとも、戸籍(明治38年=1905年)よりも前の年に生まれていたことを示しています。

 さらに前記の棋士3人の言葉を信じるとすれば、木村名人は1歳どころではなく、もっと多くサバを読んでいたことになります。

 筆者はいま、とりあえず目にした資料だけを参考にして、この原稿を書きました。もっと多くの文献資料を突き合わせていけば、さらに多くのことがわかるのかもしれません。

 北斗星の書いている木村名人の年齢ネタが、もし当時の業界内における冗談に類する話だとしたら、ネタにマジレスということになります。いまこれを書いている筆者の将棋史に関する素養のなさがバレてずいぶん間抜けなわけですが(筆者がおおむね間抜けなのは否定できませんが)目についた話でもあるので、メモしておき、諸兄姉のご指摘を待ちたいと思います。

「どっちでもよいことのようだけれど」

 と木村名人は記しています。ほんとそれ、というところでしょう。仮に年齢がいくらか違おうとも、木村名人の偉大さは変わりません。将棋界伝統の感覚であれば、まさに「どっちでもええやないか」というところなのでしょう。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『あなたに指さる将棋の言葉』(セブン&アイ出版)など。

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