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不敗将軍・木村義雄名人に真っ向から立ち向かった闘将・神田辰之助九段とその後継者

松本博文将棋ライター
神田辰之助一門系統図(記事中の画像作成:筆者)

 昨日2月21日は、木村義雄14世名人(1905年2月21日-1986年11月17日)の誕生日にあたります。

 そして本日22日は神田辰之助九段(1893年2月22日-1943年9月6日)の誕生日です。

 木村14世名人、神田九段はちょうど12歳差。干支でいえばちょうど一回りほど離れていたことになります。

 第3期名人戦七番勝負で対戦した際には、満年齢で、木村名人は37歳。神田八段は49歳でした。(肩書はいずれも当時)

 当時は木村名人の絶頂期であり、ほとんど無敵の状態でした。その木村名人に比較的分がよく、また精神的にひるむことなく、闘志をむき出しにして戦う神田八段は、当時最強の挑戦者でした。

 木村名人は後年、神田八段について次のように記しています。

これまでの二人の成績をふり返ってみると、私の方が勝ち込んでいる。しかしその勝敗率は、他の八段中に比べると神田氏が図抜けていい。したがって読者の多くに、私は神田氏に苦手という印象を与えているようだ。私は、勝敗というよりも自分が対局したその手応えから強弱を判断する。実戦で全力を投じて戦った私の手応えは、事実神田氏が一番手強かった。

(中略)私の大勝負と言われるもののうちでも、この第3期名人戦はおそらく最大の勝負として記録に残るのではないか。

出典:『名人木村義雄実戦集』第6巻

 また木村-神田戦がエキサイトしたのは、少し前に神田八段の昇段問題が原因となって、日本将棋連盟が分裂するに至ったことも理由として挙げられます(経緯が複雑なのでここでは触れません)。この頃には再統一して「将棋大成会」が結成されたものの、木村-神田の間には遺恨が残っていたようです。また東西の対抗意識が当時は厳然と存在していました。特に関西の神田八段にとっては、背負うものが大きかったようです。

 ただしこの時、両者ともに身体的に不調をかかえていました。木村名人は敗血症と歯槽膿漏。神田八段は肺の病におかされ、やせ衰えていました。

 当時は3日制で持ち時間は各15時間。木村名人は珍しく1日目に25分、3日目に35分の遅刻をします。当時の規定ではその2倍の時間が持ち時間から引かれたそうです。そんなこともあってか、木村名人は終盤で時間が切迫します。

 終盤に入ったところでは、木村名人が優勢でした。この時、千日手がらみでトラブルが起こります。

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 1図から△5三銀打▲4二銀成△同銀▲5一銀という手順が指されました。これは千日手模様です。現代の規定であれば問題なく千日手となります。

 ただし、当時は歴史的な経緯から、千日手の解釈があいまいでした。木村名人の認識では規定上、玉周辺で千日手模様となった際には、攻めている方が手を変えなければならない。しかし神田八段の方は手を変えません。

 木村名人の自伝『将棋一代』を読むと、この時、木村名人はかなり感情的になっていたようです。規定に従わないのであれば、神田八段の側がよくないわけですが、筆者の個人的な推測としてはこの時、木村名人の側には何らかの誤解があったようにも思われます。さらに後年に編まれた『名人木村義雄実戦集』では、木村名人は対局当時の認識には触れずにスルーして「千日手は会の規定で指し直しになる。指し直しにするには、いかにも惜しい」と穏当な見解を述べています。

 当時の千日手に関する認識については、いずれ千日手の歴史を書く際に改めてご紹介したいと思いますが、ともかくも神田八段は手を変えず、木村名人の方が感情的になって手を変えます。直後に木村名人に悪手が出て、神田八段はそれをとがめる好手を指し、形勢は逆転します

 進んで、2図は将棋史上のハイライトシーン。木村名人が4三銀を3二に引いたところです。

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 形勢は神田八段勝勢。とはいえ、神田八段は持ち時間15時間を使い切って、残りは1分。ここで勝ちを読み切るのは至難の業だったでしょう。またここに至るまで、簡単な勝ち筋を逃したという後悔もあったかもしれません。

 神田八段は秒を読まれても、なかなか手が出ません。

一分を超えれば時間負けとなる。

「五十五秒」

記録係の声に龍を握った手を震はせ躊躇した神田八段に、間髪をいれず「時間だよ」と鋭く一本極めつけた木村名人の熾烈な敵愾心。

出典:樋口金信観戦記「東京日日新聞」

 観戦記には以上のように書かれています。伝説では、木村名人は次のように言い放ったとされています。

「神田君、時間だよ!」

 と。名人とはいえ、12歳年下の後輩から「神田君」と呼びつけられ、神田八段はどう思ったでしょうか。

 昔の観戦記を読むと、木村名人は神田八段だけに限らず、対局中に相手を叱りつけるようなことを何度もしています。たいがいの棋士はそれですくみ上がったか、あるいは鬱屈した感情を抱いたことでしょう。

 木村名人は後年、次のように記しています。

いよいよ一分将棋となって、秒を読まれることになると、どんな棋士でも精神的の動揺をまぬがれない。勝将棋の方でも迷いが出る。これまた規定によると、五十五秒と読んで手を下さぬと負けになるのだが、神田氏はすでに五十八秒を経過した。そこで今度はやむを得ず注意したところ、さすがに心境の乱れと見えて、その時の一手が悪かった。

出典:木村義雄『将棋一代』

 現代の規定では一分将棋は「9」(59秒)まで読まれても指せばセーフ、「10」(60秒)を読まれればアウトです。木村名人によればこの当時は55秒でアウトだったようです。

 木村名人に一喝され、神田八段が震える手で指した(1)▲1一龍が歴史的な悪手とされています。

想へば1一龍は神田八段が最後の勝筋を失つた憾みの一手だ。

出典:樋口金信観戦記「東京日日新聞」

 木村名人もまた残り2分と切迫していました。しかしそこから崩れることなく指し進め、最後に勝利を収めました。

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 筆者の手元の将棋ソフトは▲1一龍で確かに形勢は逆転したと判定します。ただし木村名人の△3七馬は必ずしも最善とは言い切れないようで(ソフトが示す手は△8六歩)そこで▲3一龍で勝敗不明のようです。

 当時の観戦記には▲1一龍の代わりに(2)▲3一龍か(3)▲3三銀で「一手勝ちは容易」と記されています。

 ただしそれですっきり決まるというわけでもないようで(2)▲3一龍には△6二飛ともう一粘りされます。また(3)▲3三銀は△8六歩で勝敗不明のようです。

 『将棋世界』2016年4月号「イメージと読みの大局観2」では郷田真隆九段、行方尚史八段(現九段)、木村一基八段(現九段)、鈴木大介八段(現九段)が(4)▲4二銀△同玉▲3三歩というスマートな勝ち筋を示しています。なるほど、それは鮮やかです。現代のソフトもまた、同様の手順を示します。

 第3期名人戦は神田八段がこの第1局を失ったのが大きく、結果的には4連敗で敗退となります。

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 あまり知られていないこととして、この時の名人戦七番勝負では、神田八段の側が1勝でも挙げていれば「准名人」の称号を得るという規定が設けられていました。その経緯について筆者はよく知りません。推測すると、八段は古来「准名人」の格であり、明治、大正期には数人しか存在しなかったものの、当時は八段があまりに多く増えたため、その中で新たな格付けを設けようとしたものと思われます。

 神田八段が第4局に敗れた後、観戦記者の樋口金信は次のように書いています。

 敗れては何をか言はんや。旗旌を巻いて退陣するのみ。ただ関ヶ原に敗れた島津勢の如く江戸城攻略のあることを誓ふのだ。第二、第三の若き神田八段の出現によつて――。

出典:樋口金信観戦記「東京日日新聞」

 この結びの一文は、後世の目から見ると、はからずも予言のようです。神田辰之助門下からはその後、名人位をうかがう俊英が何人も現れることになります。系統図を見れば、それは一目瞭然でしょう。

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 神田一門からは戦後、6人のA級棋士が輩出されています。灘蓮照九段、桐山清澄九段は名人位に挑戦。そして神田九段の名人挑戦から77年後の2019年、豊島将之名人が誕生しています。

 最近、将棋クラスタの間では神田九段の直弟子の松田辰雄八段が話題です。その詳細についていますぐ知りたい方は、以下の小笠原輝さんの熱い記事をご覧ください。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)、『など。

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