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現代将棋界ではみんな「ひえー」と叫び、神武以来の天才・加藤一二三九段(80)は「ひゃー」と叫ぶ

松本博文将棋ライター
2011年、王将戦の立会人として後進を見つめる加藤一二三九段(写真撮影:筆者)

 先日の記事は、再び大きな反響をいただきました。

 今回は神武以来(じんむこのかた)の天才、加藤一二三九段の「伝説」について補足をしたいと思います。

 1982年、加藤一二三十段は名人戦七番勝負で中原誠名人に挑戦しました(肩書はいずれも当時で、十段はかつて存在したタイトルの名称です)。両者3勝3敗1持将棋2千日手という死闘の末に最終局にもつれこんだので、この七番勝負は通称「十番勝負」とも言われます。

 持将棋も千日手も引き分けです。持将棋は1局とカウントして、正式には最終第8局。勝てば名人という大一番で、加藤挑戦者は苦戦をしのいで、ついに形勢は逆転しました。中原名人の玉には詰み筋が生じています。しかしその詰みは、そう簡単ではありません。

 加藤挑戦者には時間がほとんど残されていません。残り時間が切迫する中で、加藤挑戦者は自陣の受けの手段を探します。しかしそれも見つからない。万事休すかと思われたその時、加藤挑戦者の脳裏には、天啓のように中原玉の詰み筋が浮かびました。

 2017年の引退会見の際、加藤九段は次のように述べています。

「私はその時ですね、勝つ手を見つけた時に、その瞬間に『あ、そうか』と叫びました」

 これは将棋史上における最も劇的な場面の一つです。加藤挑戦者は中原名人の玉を詰ませて「十番勝負」に終止符を打ち、ついに名人位を勝ち取りました。

 加藤九段の記憶では、詰みを見つけた際に「あ、そうか」と叫んだ。そして現代に伝わる「伝説」ではこの時「うひょー」と叫んだということにもなっています。

 棋士が驚いた時に思わず声を発することがあるのは、以前の記事で記してきた通りです。加藤九段は確かに「あ、そうか」と叫んだとして、もしかしたら他にも何かつぶやいていたのかもしれません。その言葉は「うひょー」だったのかどうか。

 対局者であった中原誠16世名人は後年、こう述べています。

――(前略)加藤九段が詰みを発見して「ウヒョー」と叫んだという話が語り草になっています。

中原 詰みはわかっていたのだけど、もう指しようがなかった。加藤さんが「ウヒョー」と声をあげたかどうかは覚えていませんね。

出典:将棋世界Special.vol4「加藤一二三」 ~ようこそ! ひふみんワールドへ

 当時の映像や音声記録はおそらく残されておらず、現在では既に、客観的に確かめる術はないものと思われます。

 一方で、目撃者の目と耳を通して記された文献上の記録としては、次のようなものがあります。

82年8月1日の毎日新聞朝刊(東京本社版)は、勝負が決した瞬間をこう描写している

<一分将棋の秒読みの中で突然加藤が「ヒャー」「フーッ」と悲痛に近い声をあげた。盤側にいて一瞬加藤が時間のなさを嘆いたようにみえた。しかし、その声は五十数秒の中で百五手目の3一銀の必殺の手を発見した喜びの叫びだった>

出典:「毎日新聞」2017年6月11日東京朝刊

 筆者の個人的な推測では「うひょー」よりは、どちらかと言えば対局直後に新聞記事に記された「ひゃー」という叫びの方が、真実に近いのではないかという気がします。

 筆者自身も加藤九段が「ひゃー」と驚く姿は間近で何度も見たことがあります。また現代の映像記録からも確認できます。

 2007年度NHK杯2回戦▲羽生善治二冠-△中川大輔七段戦(肩書はいずれも当時)。解説は加藤一二三九段が務めました。終盤では中川七段が勝勢。さすがの羽生二冠もこれは・・・というところから、羽生二冠は手段を尽くして指し続けます。

 勝勢の中川七段は駒音高く、羽生二冠の飛車を取ります。しかしこの自然に見えた手がなんと敗着。中川玉には思わぬ頓死筋が生じていました。

 解説の加藤九段は頓死に気がつきます。その時の発言を、できるだけ正確に書き起こしてみます。

「あれ。あれ? あれ? あれ? あれ、待てよ、あれ? あれ、おかしいですね。あれ? もしかして頓死? えっと、こういって、あれれ、おかしいですよ。あれー? あれ? あっ歩が3歩あるから。あれ、頓死なのかな。(甲高い声で)へえー! これ頓死? 頓死なんじゃないですかね。あれ? あっ! あれ。いやっ! これ、頓死かもしれません。なんと。いやー、これ銀桂歩あるんで、歩が3つありますからね。でも待てよ、歩の数をちょっと計算が。こういって歩打って、取って取って、いや、ちょうどぴったり間に合いますから、これは、あの、大逆転ですね。たぶん。うーん。これ、詰んでますよ。(甲高い声で)ひゃー! これ確か、歩打って取るでしょ。歩打ってこうやって逃げて歩でしょ。ぴったり詰んでる! なんていう大逆転。NHK杯戦史上に残る大逆転・・・じゃないかな。ふゃあ・・・。(小さな声で)こうやってこうやってこうやってこうやってこうやって・・・。詰んでますもんね、これ。歩の数がぴったりだから。ひゃー。なんと、すごいことになりました。うーん・・・。やーあ・・・。これは羽生さんの逆転勝ちの中でも、もう、あれですね、大変な、あの、大逆転ですね。うーん・・・(ひときわ甲高い声で)ひゃー! 驚きました。まず、こんなことがあるんですねっていう大逆転ですね、これは。こう打って歩打って。しかし相当危なかったんだな、もうここじゃ。うーん。ひゃー」

出典:加藤一二三九段解説:2007年度NHK杯2回戦▲羽生善治二冠-△中川大輔七段戦

 頭の回転の早い加藤九段が早口で解説をする間、何度も「ひゃー」と驚いているのがわかります。NHK杯戦史上、そして将棋史上に残るこの大逆転劇は、羽生二冠の恐るべき強さ、そして加藤九段の解説によって「伝説」となりました。

 羽生現九段も加藤九段の「ひゃー」については、印象深い思い出があるようです。

「神武以来の天才」と呼ばれた加藤一二三九段の引退が決まった。63年の現役生活は驚嘆の一語に尽きる。(中略)私が六段時代に公式戦で負けたことがあった。終わった後の感想戦も強烈で、ものすごい早口で次から次へと読み筋を話されて、こちらでも圧倒された。合間の「ひゃー」とか「ほー」しか聞き取れなかったが、トップ棋士の真の思考を知る絶好の機会となった。

出典:「羽生善治の一歩千金 バッハのような加藤九段」「朝日新聞」2017年4月17日朝刊

 天才は天才を知る、というエピソードでしょう。

 加藤九段の公式アカウントのツイートでは「うひょー」という伝説を否定しつつも、おおらかに「ネタ」にしていると見受けられるところもあります。

「加藤一二三 うひょー」で新聞データベースを検索すると、加藤九段と藤井聡太四段(現七段)の対談記事がヒットします。以下は岡崎将棋まつりの席上対局(非公式戦)について、両天才が語り合ったところです。

加藤 藤井さんが模様よしで、終盤に入るところ。図の局面から藤井さんが指した一手、私は並べていて「うひょー」と跳び上がってしまいました。

藤井 この対局は初手から一手20秒の秒読みだったので決断よくいきました。

出典:「読売新聞」2016年10月17日「老いも若きも最善を追求 藤井聡太四段×加藤一二三九段」

 引退してますます人気の加藤九段は、今年で満80歳。数え年では将棋盤のます目の数と同じ81歳を迎えました。「盤寿」の記念に、再び対局する姿を拝見したいものです。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)、『など。

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