「名人に香車を引いて勝つ」「たどり来て未だ山麓」「新手一生」升田幸三元名人の名言と戦後の将棋史
【前記事】
将棋史上の大天才・升田幸三 その唯一の弟子・桐谷さんが師匠を語る
年末年始、テレビでは特番が放映されます。そうした中で、石田九段将棋チャネルでは、12月30日に「大山、升田の知られざるエピソード」、1月2日に「空前絶後、大山、升田の香落戦」が配信されるそうです。石田九段と桐谷七段が昭和の巨匠の思い出話を語り、新進気鋭の佐々木勇気七段が升田-大山の歴史的な対戦を語る。これは見逃せません。
オールドファンであれば、木村義雄14世名人(1905-86)、升田幸三九段(1918-91)、大山康晴15世名人(1923-92)による戦後の将棋史は既にご存知のことと思います。本稿では新しいファンのためその概略と、升田九段の多くの名言をご紹介したいと思います。
升田少年は広島県三良坂町(現三次市)で生まれ育ちました。そして将棋指しをこころざし、母の反対を振り切っての実家を飛び出します。その際に、物差しの裏に「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」と書き置きを残しました。升田少年はまだ将棋界のことをよく知らなかった。広島市内で一番強い将棋指しに勝ったら、さらなる飛躍を求めて大阪に行くという意味だったようです。ただし少年の夢であった、日本一の将棋指しになるという決意がよく示されていることに違いはないでしょう。この言葉は後年、
「名人に香車を引いて勝つ」
と表されるようになります。これはまた、夢のような話です。古来、名人が下位者を相手に香車を引く(香落のハンディで指す)ことは多くありました。しかし香車を引かれるようなことは、制度上ありえませんでした。
升田幸三少年は知遇を得た人の紹介によって、大阪の木見金治郎八段(後に九段)の門下となります。升田少年は内弟子として木見八段の家に住み込み、将棋以外の雑多な仕事をこなしました。そこではずいぶんと苦労をしたそうです。
「一人前になるには五十年はかかるんだ」
升田少年は自らにそう言い聞かせながら、修行に励みました。
【参考記事】
「四段」「八段」「タイトル防衛」将棋界における「一人前」という言葉の使われ方
升田少年は才能があり、また努力も怠りませんでした。順調に実力を伸ばし、やがて木村義雄名人の後継候補の筆頭にも目されるほどに強くなります。
しかし升田青年にとって不幸だったのは、二十代半ばの指し盛りの時期が、戦争と重なってしまったことでした。升田青年は一人の兵士として南方のポナペ島(ポンペイ島)に送られ、そこで危うく命を落とす危機にも遭っています。
戦後、日本に帰国した升田青年は、実力通りに名人位に近づいていきます。1946年に始まった第1期順位戦では、B級からA級に昇級しました。
1947年。戦前に不敗を誇った木村義雄は、名人戦七番勝負で塚田正夫(1914-77)に敗れます。ここで実力制名人戦史上初めて、名人位が交替しました。
第2期順位戦。升田八段はA級で1位の成績を挙げました。現在の規定であれば、これで名人挑戦権獲得です。しかしこの時の規定ではA級1位、2位、3位とB級1位がプレーオフをおこなうことになっていました。前年に升田がB級で抜群の成績をあげたためにその変更がなされたわけですが、運命は皮肉な形で、升田八段に不利にはたらいたことになります。
そしてまた皮肉なことに、升田八段が名人挑戦者決定戦で対戦することになったのは、B級から勝ち上がってきた大山康晴七段でした。両者は同じ木見金治郎八段(没後追贈九段)門下で、兄弟弟子の関係にありました。兄弟子の升田は常に弟弟子の大山に先行する立場でした。「打倒木村」を標榜する升田に、いつしか大山が追いついてきていたわけです。
挑戦者決定戦の三番勝負は、真冬の高野山でおこなわれました。下馬評ではもちろん、升田八段圧倒的有利。しかし大山七段の実力は既に、兄弟子に迫るところまでに来ていました。
1勝1敗で迎えた第3局。大熱戦を経て、最終盤は升田八段必勝となりました。大山七段は飛車を成り込んで升田玉に王手をかける。対して升田八段が手堅く合駒を打てば、ほぼそれまででした。しかし升田八段はそうせずに玉を逃げてしまう。そして大山七段が升田玉を詰め上げるという、世紀の大頓死となりました。
「錯覚いけない、よく見るよろし」
升田八段はそう言って、悲しくおどけたそうです。
もしここで升田が名人挑戦権を得て、相性のいい塚田名人に挑戦していれば、升田は名人となり、名人戦で連覇して、木村の次の永世名人になっていたかもしれない。多くの升田ファンは後に、そんなことを思って慨嘆することになります。
1948年。塚田名人は大山八段の挑戦を退けました。翌1949年。今度は木村前名人が塚田名人にリターンマッチを挑んみます。そして木村名人復位となりました。
木村名人と升田八段は戦後、熾烈な競争を繰り広げました。両者は盤上だけではなく、盤外でも張り合いました。
1949年、金沢でおこなわれた全日本選手権の対局の前夜。木村名人と升田八段の間では、豆腐は木綿ごしがいいのか、それとも絹ごしがいいのかという、他の人にとっては「どっちでもええやないか」ということまで、言い争いのタネとなりました。
続くこの後が、将棋史中、白眉の名シーンです。
この一連のやり取りは「ゴミハエ問答」と呼ばれます。
「名人なんてゴミみたいなもんだ」
将棋界の第一人者である名人を前にしてそんな発言をする棋士は、後にも先にも、升田八段ぐらいでしょう。
1951年。升田八段はついに名人戦七番勝負に名乗りをあげ、木村名人に挑むことになります。しかしこの時は2勝4敗で退けられました。
1952年。第1期王将戦の七番将棋において、今度は升田八段は木村名人を圧倒します。そして4勝1敗という成績を挙げました。
現代の王将戦「七番勝負」では、どちらかが4勝をあげた時点で閉幕です。しかし当時の王将戦「七番将棋」の規定では、そうではなかった。3番差がついた時点で王将位が確定し、その上で手合が改められ、「半香」(平手と香落が一組の手合)に指し込まれることになりました。
つまりこの時、升田八段は木村名人を相手に香を引いて指すことが決まったのでした。升田少年が描いた「名人に香を引いて勝つ」という途方もない夢の「名人に香を引く」というところまでは達成されたわけです。
ただしその香落番は指されませんでした。升田新王将が対局を拒否したためです。この大事件は対局場の名にちなんで「陣屋事件」と呼ばれます。
陣屋(現在の名称は「元湯 陣屋」)とは神奈川県・鶴巻温泉の名宿です。将棋界では現在もここで、多くのタイトル戦がおこなわれています。
木村名人との香落番がおこなわれる前日。升田新王将は付添もなく、一人で陣屋を訪れることになった。そして入口でベルを鳴らしても誰も来なかった。升田は腹を立て、日頃の不満が爆発して対局を拒んだ・・・というのが一応の概略です。
ただし升田の本心は名人にの権威に傷をつけたくなかったという点にあり、ベルがどうこう、というのは口実だったようです。
激しい気性と思われる升田には、実はそうした繊細な一面がありました。
升田は栄光から一転、将棋連盟の理事会側から対局拒否をとがめられ、出場停止の処分を科されそうになります。将棋界は升田非難と升田擁護の二派にわかれ、大変な騒動となりました。そこで事件の当事者であり、また将棋界の中心人物でもある木村名人が裁定が一任され、升田の行為は実質的に不問に付されることになりました。
升田は当時の心境を色紙に書き、陣屋に残しています。
「強がりが雪に轉んで廻り見る」
同じ1952年。名人位は47歳の木村義雄から29歳の大山康晴へと移りました。
「良き後継者を得た」
名人戦で敗れた直後、木村はそんな言葉を残しています。ほどなく、木村は現役生活を引退することになりました。
兄弟子の升田に先んじて名人になった大山は、着実に将棋界の第一人者としての実績を積み重ねていきます。
このまま大山名人の天下が続くかと思われたところで、升田八段は反転攻勢に出ました。
1955年度。升田八段(当時)は王将戦七番将棋で、大山康晴王将(名人)に挑戦しました。そしてこれまでのうっぷんを晴らすかのように3連勝で圧倒します。名人を半香の手合に指し込んだ升田新王将は、香落番でも勝利。
「名人に香車を引いて勝つ」
という、少年時の夢を達成しています。
1957年。王将位、九段位を併せ持つ升田二冠は、大山名人から、名人位も奪いとりました。当時のタイトルは、その3つしかない。升田は史上初めて、三冠同時制覇を達成したわけです。
そこで升田三冠はこんな言葉を残しました。
「たどり来て未(いま)だ山麓」
数ある名言の中でも、特に人気が高い言葉です。これは升田の謙虚さの表れでもあり、また自戒の言葉でもあったのでしょう。
升田が普段自宅で使っていた駒箱の蓋には、次のように記されていたそうです。
たどり来て未だ山麓 大名人 升田幸三
謙虚な言葉を残す一方で「大名人」「超名人」「名人の上」など、思わず笑ってしまうような威勢のいい肩書を名乗るあたりも、升田幸三の魅力と言えるのでしょう。
「新手一生」(しんていっしょう)
これが升田九段生涯のモットーです。お墓にもその言葉が刻まれています。
升田九段は将棋界史を変えるような創造的、革命的な新構想をいくつも編み出した上で、木村14世名人、大山15世名人といった史上最強クラスを相手に、目の覚めるような鮮やかな勝利を収めてきました。
さて、数ある升田名言の中で、筆者が特に印象深い一つを選ぶとすれば、元日に詠んだというこの一句です。
「昨年のままで結構 女房殿」
人間・升田幸三の魅力と優しさを伝えて余りある、名句ではないでしょうか。