昭和の偉人・木村義雄14世名人が看破した、日本における肩書偏重の弊害

(写真撮影:筆者)

 将棋界では江戸時代から昭和のはじめに至るまで、将棋界の第一人者である名人は終身制でした。前の名人が亡くなった後にようやく、生きている人の中から次の名人が決められるのが慣例でした。

 関根金次郎(1868-1946)はその終身名人制のために、大変苦労した人でした。

 師の11世名人・伊藤宗印(1826-1893)が亡くなった後、実力的にも、また棋界をまとめる度量の大きさからしても、関根は次期名人にふさわしい人でした。しかし当時、関根の他にはるか年長で高齢の小野五平(1831-1921)という有力な後継候補がいました。

 ここで盤上で勝負をして、どちらが強いかをはっきりさせる「争い将棋」がおこなわれれば、おそらくは関根が次期名人になったでしょう。しかし争い将棋はおこなわれませんでした。関根は不満があったものの、有力者からの説得によって、小野の名人就位を容認しました。

 関根に対する説得の言葉の中には、高齢の小野はすぐに亡くなる、というものもありました。しかし小野名人は91歳まで長生きをしています。その間にライバルの阪田三吉(1870-1946)、関根の弟子である土居市太郎(1887-1973)も台頭するなど状況は変わり、小野名人の次の名人を決める際にも悶着が起こりました。

 紆余曲折を経て名人となった関根には、自身が味わった不合理な苦労を後進にさせたくない、という思いがありました。

 昭和のはじめ、関根名人は、当時の将棋界の実務を担う人々が新しい制度を作るのに乗る形で、それまでの終身名人制を廃止して、新たに近代的な実力本位の選手権制による名人戦を始めることに同意しました。

 そうして1935年(昭和10年)、実力制名人戦が始まりました。関根13世名人の次の名人位は、9人の八段の間で、実力によって争われることとなりました。

 有力な棋士が何人かいる中で、関根名人の念頭には弟子の木村義雄(1905-86)が最有力候補としてありました。結果は衆目の一致する通り、大本命であった木村八段が抜群の成績をあげ、32歳で第1期の名人位に就きました。

 以後、将棋界は後に至るまで、実力で最も優れた者が名人の地位に就くという精神が維持されていきます。

 名人戦は第2期以降、予選を勝ち抜いた挑戦者が七番勝負で名人と対戦するという、現在にまで続く形式となりました。木村名人は無敵の強さを誇り、圧倒的な実力で名人位にとどまり続けました。

 木村名人は江戸っ子らしい気概を持つ、大変な意地っ張りでした。しかし勝負師としては大変なリアリストで、将棋の実力とは何よりも技術力であると看破していました。当たり前のようですが、その考えを徹底するのは大変なことです。

 木村名人は盤上でも第一人者でしたが、人格識見にも優れ、戦前の将棋大成会、戦後の日本将棋連盟では会長を務め、運営面でも中心的な役割を担っていました。

 戦争の影響によって、将棋界もまた大きな損失を蒙りました。木村名人は戦後の将棋界の復興に携わる過程で、どうして日本が負けたのかを考えています。

 そのうち、今度の戦争がかくも惨めな負け様をした原因のうちで、何が最も大きいものであつたか? を自分流に考へるやうになつた。将棋の勝負では第一に技術(戦争に当てはめると、近代兵器其他の科学力)第二に体力(戦争では国力)第三に精神力(精神力は技術体力が互角の場合にのみ物を云ふものだ)だが、技術、体力が格段の相違だから、前にも云つたやうに、これは最初から、勝負にならないことは分り切つてゐたのだ。而もこちらが最善をつくしたとは思われない。最善を尽しておれば、下手は下手なりに、もう少し負けつぷりがよかつた筈だ、もう少しましな潮時に終戦の機会を掴めた筈だ――と、思つた。

出典:木村義雄『勝負の世界』1951年刊

 将棋と戦争は同じものではありませんが、木村名人の見立ては、そうはずれているものではないでしょう。そして木村名人は日本社会の通弊を導き出します。

 そして、自分流で得た結論は、悲惨な負け方をした最大の原因は、肩書だといふことがわかつた。

 これは甚だ突飛な考へ方のやうだが、戦争中の各国を見ても(中略)実力のある者はドシ/\重要ポストに抜擢されたといふ。それが日本ではどうであつたか? 日本では何よりも位階勲等其他の肩書が重視され、戦争指導者は肩書で埋めつくされた。肩書のない者は、如何に優秀な考へを持つてゐても、また如何に卓越した実力を持つてゐても、それを実行に移したり実力を完全に発揮することは殆ど不可能であつた。それでは、口先だけで総力戦を唱へてみても、国の総力を出し切れる筈がない。

出典:木村義雄『勝負の世界』1951年刊

 木村名人は日本の敗戦の原因の一つが「肩書」の偏重であったと見ました。肩書だけが立派な人間が中枢を占める組織は、いずれ衰退の道をたどるのが、世の常のようです。木村名人は、当時の将棋界も冷徹に分析しました。

 この事に思ひ至つて、私は将棋界を振り返つてみた。ところが、将棋界もまた肩書が物を云ふ世界であつた。一度八段にのぼると、たとへ実力が七段以下に低下しても、いつ迄も肩書通り八段の待遇を受け、八段の対局料を貰つてノホホンと済ましてゐられる。世の中には、実力以外の何かによつて、一尺のものが二尺三尺と見誤られたり、また逆に二尺の実力があるものが一尺以下の待遇に甘んじなければならぬことが屡々あるものだが、勝負の世界だけはさうした事のないのが建前である。そこに勝負の世界に生きる者の生甲斐があるとも云へる。だから今迄のやうに肩書によつて凡てを律するという世度は間違つてゐる、いつまでもそんな不合理な世度をつゞけてゐては将棋界は立ち直らないと考へた。

出典:木村義雄『勝負の世界』1951年刊

 木村名人が立派な人だったとは、同時代を生きた多くの人々が異口同音に証言するところですが、この一文を読んだだけでもなるほど、と思わせられます。

 木村名人は既得権益を最も享受できる立場にいました。しかし上記の考えに基づいて、順位戦制度を創設し、段位を撤廃するという将棋界の未来を見据えた大改革を断行しました。そこには勇退して実力制名人戦の道を後進に開いた、師の関根13世名人の影響もあったのかもしれません。

 段位の方は、なければ不便という声に押され、ほどなく復活します。一方で順位戦の方は、細かい修正はあるものの、大枠はほぼ変わらず、現在に至るまで続いています。

 順位戦では1人の名人の下にA級、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組の5クラスが設けられ、成績がよければ昇級、わるければ降級します。奨励会を卒業し、四段に昇段した棋士はC級2組に入り、A級まで昇級すると八段に。A級の定員は10人で、総当りによって名人挑戦者が決められます。

 時を経るにつれ、棋士の数の増加などによって下位クラスでの昇級が理不尽なまでに難しくなるなど、順位戦制度もいくつかの問題点が指摘されるようになりました。

 しかしA級、B級1組の定員は長く変わらず、成績が振るわなければ1年で落とされてしまうところも変わりません。またクラスが落ちれば、段位は落ちないものの、収入はがくっと落ちるところなど、年功者に厳しい改革時の精神は残されていると言えそうです。

 現代の第一人者である羽生善治九段は、2018年、竜王位を失って無冠となった際に、その肩書が注目されました。そして選んだのは、もっともシンプルな「九段」でした。七大タイトル戦の永世資格を全てクリアしている羽生九段が望めば、おそらくはどんな称号でも名乗ることはできたでしょう。しかし羽生九段は、それを希望しませんでした。周囲の騒ぎから超然として、肩書などの小事にこだわらない。それが羽生九段の羽生九段たるゆえんでしょう。そしてそれは形式ではなく実質を重んじる、将棋界のよき精神を引き継いでのことなのかもしれません。