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羽生善治、谷川浩司、森内俊之、そして豊島将之 将棋界の頂点を極めた「竜王・名人」の系譜

松本博文将棋ライター
(記事中の画像作成:筆者)

 2019年12月7日。第32期竜王戦七番勝負第5局は挑戦者の豊島将之名人(29)が広瀬章人竜王(32)を降しました。

【前記事】

スキのない令和の王者・豊島将之名人(29)竜王戦第5局を逆転で制し史上4人目の竜王・名人同時制覇達成

 豊島新竜王は名人を同時に保持して、今後の称号は「竜王・名人」となります。

 過去にこの称号を名乗ることができたのは、羽生善治九段、谷川浩司九段、森内俊之九段のみ。「豊島竜王・名人」は史上4人目となります。

 1935年。将棋界は実力制名人戦が始まり、以後は名人戦が将棋界の中心的な棋戦となります。戦後は少しずつタイトル戦が増え、1980年代には七大タイトル戦の時代を迎えました。七大タイトルの中にあって、名人位はなお別格の存在でした。

 1987年。それまでの十段戦を発展解消する形で、将棋タイトル戦序列1位の棋戦として、竜王戦が誕生しました。

 全棋士にアマも参加 超大型の「竜王戦」

 将棋界最高の公式戦創設(社告)

 読売新聞社は昭和37年以来、将棋十段戦を紙面に掲載、将棋ファンから好評を博して参りましたが、このたび十段戦を第26期(今期)限りで発展的に解消し、日本将棋連盟と共同主催によって、新たに将棋界最高の公式戦「竜王戦」を発足させることになりました。「竜王戦」はこれまでの棋戦をあらゆる面で大幅にこえる超大型棋戦で、竜王獲得者は棋士として“最高の栄誉”をもって処遇されるほか、将棋界空前の賞金2600万円が贈られます。

出典:「読売新聞」1987年10月1日朝刊

 以後、竜王戦と名人戦は七大タイトル(現在は八大タイトル)の中でも別格の2つの棋戦と位置づけられ、現在に至っています。将棋界の歳時記では、年度始めの4月に名人戦七番勝負、年度後半の10月に竜王戦七番勝負が始まります。

 1988年。第1期竜王戦決勝七番勝負がおこなわれました。その結果、島朗六段(25歳)が米長邦雄九段(45歳)を4連勝のストレートで降して、第1期竜王となりました。

 1990年。第3期竜王戦で谷川浩司王位・王座が羽生善治竜王に挑戦。竜王位を獲得しました。谷川竜王は、竜王位と名人位を(同時ではありませんが)いずれも獲得した初の棋士となりました。

谷川は「三冠が第一人者の条件」と広言してきた。竜王位獲得でその言葉を実現し、その実力と存在感をアピールした七番勝負だった。

出典:「読売新聞」1990年11月28日朝刊

 将棋界の「第一人者」の定義ははっきりと決まってはいませんが、「三冠」あるいは「竜王、名人を含んでの三冠」とはしばしば唱えられた説でした。

 翌1991年度。谷川竜王はトップ棋士の宿命として、大変なハードスケジュールをこなすことになります。

【参考記事】

超多忙な棋士の月間記録 大山康晴15世名人は15局、谷川浩司九段は12勝

 1991年度、谷川竜王は王座は失いますが、王位、竜王は防衛。他に棋聖、王将を獲得して四冠となりました。

 谷川四冠の後には、羽生七冠ロードの時代を迎えます。

 1994年度。羽生四冠は米長邦雄名人から名人位を奪取して、史上2人目の竜王、名人獲得者となりました。

 そして同年、佐藤康光竜王に挑戦しました。これは前年の竜王戦で敗れて竜王位を明け渡した羽生名人にとってはリターンマッチになります。このときの竜王戦七番勝負はNHKが取材をして「対決 羽生名人と佐藤竜王」という番組が制作されました。

 放映された番組を見ていた一人が、まだ4歳だった豊島将之少年でした。豊島少年はそれをきっかけに、本格的に将棋を始めます。

 番組の中で挑戦者の羽生名人(五冠)は次のように述べています。

「竜王と名人っていうのが、二つの大きなタイトルなので「両方併せ持って真のチャンピオン」っていうふうに私は一応定義しているものですから。ですから、今まで(同時に)二つ取った人はいないので、まあ今回は、そういう面での初めての挑戦ということもありますし」

出典:羽生善治、NHK「対決 羽生名人と佐藤竜王」

 既に名人位を含めて七冠のうち五冠を保持している羽生名人であっても、竜王位まで取らなければ「真のチャンピオン」ではないとは、ずいぶん高いハードルです。「竜王・名人」を併せ持って棋界の真の覇者という認識が、この頃には既に存在していたことを示す発言でもあるでしょう。

 七番勝負の結果は、羽生名人の4勝2敗。羽生名人は佐藤竜王から竜王位を奪い返し、史上初の竜王・名人同時保持を達成しました。

 1996年。羽生竜王・名人(六冠)は王将戦で谷川浩司王将を降し、史上初の七冠同時制覇を達成しました。豊島少年のみならず、この頃の羽生竜王・名人(七冠)の活躍を見て、将棋に関心を寄せた少年、少女は多く現れました。

 「羽生竜王・名人」の時代はしばらく続きました。

 96年11月。竜王戦七番勝負で谷川九段は羽生竜王を降し、竜王に復位しました。「羽生竜王・名人」の呼称は1994年12月から96年11月まで、2年弱ほど続いて終わりとなりました。これが竜王・名人同時保持の最長期間です。

 翌1997年。谷川竜王は名人位も奪い返して、史上2人目の竜王・名人同時制覇を達成しました。

 1998年。佐藤康光八段が谷川名人に挑戦し、名人位奪取。「谷川竜王・名人」の時代は約1年で終わりました。佐藤名人は史上3人目の(同時ではない)竜王、名人獲得経験者となりました。

 1998年。藤井猛六段が谷川竜王に挑戦し、竜王位を奪取しました。

 この時、谷川前竜王の肩書が注目されました。規約上、竜王位、名人位を失冠して無冠となった場合、1年の間は「前竜王」「前名人」の称号を名乗る権利があります。もし希望すれば「谷川前竜王・名人」の呼称を名乗ることもできました。しかしそうは名乗らず、「谷川九段」の呼称に戻っています。以後二十年以上、「前竜王」「前名人」を名乗る棋士は現れていません。

 2000年代に入ると、先行する同世代の羽生善治、佐藤康光らにタイトル争いで遅れ「無冠の帝王」とも呼ばれていた森内俊之八段が一気に実績を積み上げていきます。

 2002年。丸山忠久名人に挑戦した森内八段は名人位を獲得しました。

 2002年。羽生は藤井猛竜王から竜王位を奪取。翌2003年、森内名人から名人位を奪取。約6年半ぶりに「竜王・名人」へと返り咲きました。

 2003年秋。すぐに森内九段が反撃を開始します。羽生竜王・名人から、まずは竜王位を獲得しました。羽生現九段が長いキャリアの中で、七番勝負を4連敗のストレートで敗れたのは、この時一度限りです。2度目の「羽生竜王・名人」の期間は約半年で終わりました。

 2004年。森内竜王は名人位も奪い返します。竜王・名人の同時保持は谷川現九段、羽生現九段に続いて史上3人目となります。

 早くから活躍を期待され、タイトル獲得までには苦労したものの、その後は実力が発揮されて「竜王・名人」となるなど、森内現九段と現在の豊島竜王・名人のキャリアにはいくつかの共通点が見られます。

 2004年。森内竜王は20歳の渡辺明六段の挑戦を受けました。そして3勝4敗で竜王位を明け渡します。「森内竜王・名人」の時代は約半年で終わりました。

 以後、竜王戦では渡辺竜王が防衛を重ねていきます。一方名人戦では、羽生、森内のデッドヒートが続き、両者のいずれかが名人位を占めるという時代が続きました。そのため「竜王・名人」はなかなか現れませんでした。

 2013年。森内名人は渡辺竜王に挑戦。渡辺竜王の連覇記録を9連覇で止め、竜王位に復位。2度目の「竜王・名人」を達成しました。

 2014年。名人戦で羽生挑戦者に敗れ、2度目の「森内竜王・名人」の時代も約半年で終わりました。

 そして2019年。豊島将之竜王・名人が誕生しました。同時保持は羽生九段、谷川九段、森内九段に続いて史上4人目。今後、その期間はどれだけ続くのでしょうか。同時ではない両方獲得は、佐藤康光九段を合わせて5人目となります。

 現在進行中のA級順位戦では渡辺明三冠が5勝0敗でトップ。続いて広瀬章人八段(前竜王)が4勝1敗で追いかけています。両者のいずれかが名人戦七番勝負で豊島名人に挑戦し、初の名人位を獲得すれば、史上6人目の竜王、名人両方の獲得経験者となります。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『あなたに指さる将棋の言葉』(セブン&アイ出版)など。

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