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将棋の対局開始前に大橋流で駒を並べるのは、古くて新しい伝統

松本博文将棋ライター
大橋流で駒を並べる(記事中の写真撮影・画像作成:筆者)

大橋流と伊藤流

 将棋界では対局開始の前に、それぞれ20枚ずつの駒を並べます。

 その際には、まず上位者が「王将」(王)を所定の位置に置くのが作法です。同様に下位者が「玉将」(玉)を置く。

 あとは本来は、自由です。どう並べてもいい。

 ただし、現在の棋士のほとんどは「大橋流」という並べ方をしています。

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 左右対称に置いていくと意識すれば、覚えやすいかもしれません。

 少数派として「伊藤流」もあります。

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 こちらは少々複雑です。伊藤流の趣旨は、まず歩を並べることによって、飛角香が相手陣に直射しないようにする、という意味があるようです。

 大橋と伊藤は、江戸時代に名人、高段者を輩出した、将棋を専業とした家の名です。両家では、そういう並べ方をしていたというわけです。

 ご存知のない方は、映像で観ていただくのがわかりやすいでしょう。

 

 将棋の中継で、対局開始前に互いに大橋流で並べていくのは、厳粛な儀式のように感じられます。「さすが日本の伝統競技」と印象に残る方も多いようです。

 最近では、初心者向けの将棋教室でも、この並べ方が教えられます。子ども大会で、お子さんたちが大橋流(あるいは伊藤流)で並べている光景も、珍しくはありません。

 ところでこの並べ方は、実は長い間、半ば忘れられた伝統でした。昭和の名棋士も、もっとフリーダムな感じで並べていました。そう聞けば、意外な感じがするでしょうか。本稿ではそのあたりの歴史をたどってみたいと思います。

昭和の半ばまではバラバラに並べていた

 大橋本家、大橋分家、伊藤家の三家は、明治に入ると権威を失っていきます。明治の始めに11世名人に就いた八代伊藤宗印を最後に、これらの家の出身者が名人となる伝統もなくなりました。

 明治や大正、そして昭和のはじめ頃は、おそらくは大橋流や伊藤流の並べ方もすたれ、高段者も含め、多くの将棋指しは、駒をバラバラに並べていたと推察されます。

 1940年。木村義雄名人に土居市太郎八段が挑戦する第2期名人戦七番勝負第1局。観戦記者を務めた作家の里見とんは、対局開始の模様を次のように記しています。

すぐに駒を並べ終つた。ひとの話に、専門棋士は、玉から左右へ金、銀、桂馬、香車と、必ず順を追つて並べるものと聞いてゐたが両氏とも存外無造作に、摘まみあげたのを、その置き場へもつて行つてゐた。

出典:里見とん「指始式拝見記(続)」

 大橋流、伊藤流のことは、ごく一部では知識として伝わっていたようですが、当時のトップ棋士はその並べ方をしていません。

 将棋界の歴史、伝統に詳しかった建部和歌夫八段(たけべ・わかお、1909-74)は次のように記しています。

専門家は、どういう順で駒を並べるか、ということをよくきかれるが、江戸時代には将棋家元の規定として、つぎのような二様(引用者注:大橋流と伊藤流)の駒の並べ方と、礼法があつた。しかし、今日では廃れ、忘れられてしまつたので専門家でも好き勝手に駒を並べているに過ぎない。

出典:1951年、建部和歌夫『新しい将棋手帖』

 升田幸三九段、大山康晴15世名人といった昭和の名棋士も、タイトル戦であっても、駒をバラバラに並べていました。

 現代の観戦記や棋譜中継のコメントでは、両者いつも通り大橋流であったとか、この棋士は珍しく伊藤流だとか、駒を並べる描写から入るのが一つの定跡です。

 しかし、かつての観戦記ではどうだったか。筆者が見た限りでは、そうした記述はほとんど目にすることがありません。

 観戦記者の長老格である東公平さん(86歳)にうかがったところ、やはり多くの棋士はそうした点に無頓着で、駒をバラバラに並べていたそうです。

大橋流復活は中原-米長のタイトル戦の頃から

 昭和の半ばまではバラバラだった駒の並べ方が、江戸時代の昔に戻って、大橋流(あるいは伊藤流)で並べられるようになったのはいつぐらいでしょうか。

 それはどうやら、中原誠16世名人と米長邦雄永世棋聖がタイトル戦の場で数多く対戦する頃からのようです。

 関根茂九段(1929-2017)は次のように証言していました。

「私はね、中原さん以降のことだと思うんですよ」

 (中略)

 駒の並べ方は江戸時代から伝わる大橋流と伊藤流の二種類あるが、現在の将棋界ではこの大橋流が一般的(中略)。それを定着させたのが中原だというのである。

 「昔の大山、升田は手当たり次第だった。格好をつけるのが嫌だったのかね」と関根。「そういえばそうですね。僕も四段時代からやっていたわけじゃない。多分、タイトル戦で米長さんと指すようになってからじゃないかな」と中原。

出典:鈴木宏彦・中原誠永世十段-中川大輔六段観戦記「沖縄タイムス」1999年10月22日夕刊

 長年にわたって将棋界を見てきた関根九段は、中原誠16世名人が大橋流を復活させたと見ているようです。

 1978年の名人戦七番勝負は、中原誠名人(現16世名人)に森けい二八段(現九段)が挑みました。この時はNHKが対局室に入って長時間にわたって映像を撮影しています。その模様は「勝負」と題してドキュメンタリー番組にまとめられました。

 駒の並べ方に着目すると、このあたりは過渡期のことだったかもしれません。

 七番勝負の第3局。当時の映像を見ると、中原名人は王将を置いた後、森八段が手を動かすのを待たずに、自分の右の銀を置いています。バラバラに駒を並べていた時代の名残かもしれません。そこからやがて、大橋流に合流します。

 森八段の方は大橋流に似た感じですが、先に歩を並べてから、角と飛を並べています。

 両者ともに相手を待って交互に並べるということはせず、自分のペース。森八段は気合が入っているのか、ピシリと駒音が高い。そして森八段の方がずいぶん先に、駒を並べ終えています。

 おそらく1980年代の中原-米長のタイトル戦では、大橋流は定着していたものと推察されます。

 トップ棋士の所作は、後進が自然と踏襲するようになります。中原-米長戦以降は、現在のように、大橋流で駒を並べることがスタンダードとなったようです。

追記:大橋流中興の祖は加藤一二三九段か

将棋めし研究家の小笠原輝さんに教えていただきましたが、中原16世名人、米長永世棋聖以前には、加藤一二三九段が大橋流で並べていたという証言がありました。もしかしたら、加藤九段が大橋流復活、中興の祖なのかもしれません。

徳川幕府のもとに、家元制度のあったころは、駒を並べる順序について、つぎに示す通り、大橋流と伊藤流、二つの流儀がありましたが、ただいまではそれほど重要視されておらず、わずかに加藤一二三八段が大橋流を守っている程度にすぎぬ実情です。

出典:山本武雄八段「将棋相談室」『将棋世界』1970年3月号

【再追記】東公平さん(ペンネーム:紅)の1973年名人戦観戦記中に、以下の記述がありました。

いま名人の顔は別人のように引締まっている。コマ箱をとり、ザラッとコマを盤上にあけ、第一日開始前と同じように<金、銀、王>の順でコマを並べ始め、加藤が<玉、金、金>の順でこれに従い、ほぼ同時に並べ終った。

出典:紅観戦記、1973年名人戦七番勝負第4局▲加藤一二三八段-△中原誠名人戦

 挑戦者の加藤八段が大橋流で並べていたことがうかがえます。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)、『など。

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