棋士と医師の話

(記事中の写真撮影・画像作成:筆者)

囲碁一流棋士の医師への転身

 囲碁棋士の坂井秀至(ひでゆき)八段(46)が医師への転身を発表しました。

 囲碁棋士、坂井元碁聖が医師に 京大医学部卒、9月から休場(共同通信)

 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190816-00000054-kyodonews-cul

 囲碁の坂井八段が休場、医師の道へ戻る 「断腸の思い」(朝日新聞デジタル)

 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190816-00000033-asahi-soci

 

 元碁聖の坂井秀至八段、医師に転身――棋士のセカンドキャリアを考える(古作登)

 https://news.yahoo.co.jp/byline/kosakunoboru/20190816-00138625/

 既に各記事で伝えられている通りですが、坂井さんは学生時、アマチュアとして大活躍をされました。2001年、京都大学医学部を卒業。同年、医師国家試験に合格した後、棋士となる道を希望しました。28歳の時でした。

 今からちょうど18年前の今頃。関西棋院は坂井さんのために、異例の編入試験五番勝負を実施しています。その結果は、以下の通りでした。

医師資格を持ち、アマチュア最高峰からプロ囲碁界に入った坂井秀至さん(28)が13日、大阪・関西棋院でプロ段位決定のための最終試験碁を行い、中野泰宏七段相手に中押し勝ち。これで通算4連勝を収め、9月からプロ五段としてデビューすることになった。

出典:『スポーツ報知』2001年8月14日

 坂井さんはデビュー後の1年間で33勝5敗という好成績をあげるなど、すぐに活躍を始めます。2004年には、難関の名人戦リーグ入り。デビュー後から3年1か月でのリーグ入りは、当時としては史上最速の記録でした(2017年、芝野虎丸七段が3年0か月で本因坊リーグに入り記録更新)。

 今からちょうど9年前の今頃。坂井七段(当時)は碁聖戦五番勝負で、張栩(ちょうう)碁聖(棋聖・十段・王座とあわせて四冠)に挑戦。フルセットの末に、3勝2敗でタイトルを獲得しています。

 要するに、坂井八段は経歴は異色で、棋士人生のスタートは遅かったけれど、その後はタイトルも取って一流の活躍をしていた。それだけに、今回の医師への転身発表は、多くの人が驚きをもって受け止めたようです。

医師になりたかった将棋の棋士

 将棋界では、伊奈川愛菓(いながわ・まなか)女流初段(28)が、女流棋士と医師、両方の資格を取得してることが知られています。伊奈川さんは女流棋士としてデビューした後、大学の医学部に進学しました。医師の資格を得た現在も、女流棋士として活動を続けています。

 将棋の(男性)棋士と医師の二刀流は・・・。筆者が知る限りでは、その例は思い当たりません。

 将棋界の古い文献を見ていると、時に「1世名人の初代大橋宗桂は医師だった」という類の記述を目にすることがあります。これは似たような名の医師と混同されたために起こった誤りだということを、将棋史研究家の天狗太郎さんが突き止めています。宗桂は京都の町人でした。

 昭和の名棋士である山田道美九段(1933-70)はその若き日に様々な煩悶を抱えていました。たとえば、どのようなことを思っていたのか。

私は賭や何らの報酬がなくても、芸術家がその作品に全身をぶっつけていくように、いつも真剣に盤に対したいのだ。もしその一局の勝敗が何らの利益をもたらさないからといって、将棋をおろそかに指すとしたら、悲しむべき棋士の堕落ではなかろうか。もし、医者のように、その仕事に、何らの情熱も、意欲も持たなくなっても、日々の結果が多くの人の救いになっているような職業なら、それでもいい。しかし、私達棋士は将棋を立派に指すこと以外に、そんなに誇るべきものもないのだから将棋に情熱を失ったら、すでに不幸である。

出典:『山田道美将棋著作集』第8巻「降級前後」

 山田九段(当時は七段)は順調にB級1組までステップアップしていった。しかしそこでA級昇級ではなく、逆にB級2組降級を経験しています。26歳の時のことでした。

 山田九段はB級1組最終局を指しているうち、他の対局が終わり、自身の降級が決まった。そしてそれを知った後「この何らの利益のない将棋を立派に指そう」と思い、実行してみせます。

 以上は有名な、山田九段の高潔な人柄を表すエピソードです。山田九段は多くの若手棋士たちに影響を与えました。たとえ「消化試合」であっても全力を尽くすという将棋界の美風が確立するのに、大きく貢献したといえるでしょう。

 山田九段が棋士という職業を語る際に、医師を例にあげているのはなぜか。それは山田九段自身が医師になりたいと思っていたからでもあるでしょう。

私の心は、自然のうちに畏敬するアルベルト・シュバイツァー博士を求めた。出来ることなら、今の自分のすべてをひきかえにしてもよいから、医者になりたかった。医者になって、ランバレーネのシュバイツァー博士の側へ行きたかった。だが、本当に医者になるには、長い年月と努力を必要とした。それは私が長い間望んできたことだったが、自分の今の年齢を思うと、前途が不安になった。

出典:『山田道美将棋著作集』第8巻「降級前後」

 アルベルト・シュバイツァー(1875-1965)はアフリカ・ガボンのランバレネに診療所を建設し、そこで医療活動とキリスト教の伝道に従事した人です。

 山田九段は真剣に医師になることを考えていました。しかし、その夢は実行されることはありませんでした。山田九段は再び、将棋に打ち込みます。そしてA級昇級後に名人に挑戦し、棋聖のタイトルを獲得するなど、将棋史に残る実績を残しました。

医師になった元奨励会員

 立石径さんは奨励会在籍中、後にタイトル7期を獲得する久保利明現九段と、並び称されるような逸材でした。16歳で三段になったという点だけを見ても、その才能がうかがいしれるでしょう。

 図は1991年12月、棋聖戦五番勝負第1局▲谷川浩司竜王(王位)-△南芳一棋聖(王将)戦の終盤戦です。

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 後手玉は▲2四桂以下の詰めろがかかっていると同時に、4四角取りにもなっています。受けても一手一手ということで、ここでは先手玉に詰みがあるかどうかの一点の勝負になっています。

 実戦で南棋聖は(1)△6六角▲同金△7七銀と迫りましたが、▲同桂以下、わずかに詰みませんでした。対局者のみならず、高段者が揃う検討陣も詰みがないと読んでいた。しかし記録係の立石三段だけは(2)△7七銀以下、三十手近くにも及ぶ、複雑きわまりない詰みを読み切っていました。

 立石三段はそれほどの才能、実力を持ちながら、17歳の時、突如奨励会を退会します。この件は、久保現九段をはじめ、同時代の多くの奨励会員に衝撃を与えたようです。

 立石三段が奨励会を退会したのは、医師になりたいという夢があったからでした。

 立石さんはその後、神戸大学医学部に入学。現在は小児科医として活躍されているそうです。