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【将棋史再発見】10手での投了が「プロ棋士らしからぬ棋譜」として戒告処分された過去

松本博文将棋ライター
(記事中の写真撮影・画像作成:筆者)

 将棋のプロの公式戦で、盤上では反則などのトラブルがなく、最も短い手数で終局した記録は、何手でしょうか?

 現在のところ、最短の例とされるのは▲佐藤大五郎八段-△中原誠名人戦(1974年8月19日、棋聖戦本戦トーナメント1回戦、肩書はいずれも当時)です。

 まず最初に、その終局図を見ていただきましょう。

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 わずか10手目。中原名人の△4二玉を見て、佐藤八段は投了しています。

 駒をただで取られてしまったなどの、重大なミスがあったわけではありません。

 まだ序盤とも言える段階です。なのに佐藤八段は、どうしてここで投了してしまったのでしょう?

「名人に失礼なので投了」という伝説

 佐藤大五郎九段(1936-2010)は、順位戦ではA級に2期在籍。1965年には王位戦七番勝負で大山康晴王位に挑戦したこともある実力の持ち主でした。豪快な振り飛車党として知られ、「薪割り流」の異称がありました。

 対して中原誠16世名人(1947-)は将棋史を代表する超一流棋士。1972年、24歳の時に名人戦七番勝負で大山康晴名人に勝ち、以後は将棋界の頂点に君臨し続けました。

 1974年8月当時、若き覇者の中原名人は26歳でした。

 一方で先輩の佐藤八段は37歳。トップクラスの棋士として充実していた頃で、中原名人に対してもこの対局まで2勝3敗と互角に近い戦績がありました。1969年度のB級1組順位戦で、昇龍の勢いで昇級していく中原誠に土をつけたのも、佐藤大五郎でした。相手が強いからといって投げやりになるなどということはなく、むしろ逆に闘志を燃やすタイプだったようです。

 先ほどの終局図に戻りましょう。

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「こんな指し方は名人に対して失礼だ」

 投了の際、佐藤八段は自分の指し方を反省してそんな一言をつぶやいた、とされています。将棋界に現在にまで伝わる、有名な伝説のひとつでもあります。

「名人に対して失礼」というのは、なるほど、プロともなればそんな考え方もあるのかな、と思わせるような理由です。

 佐藤八段が採用したのは▲7六歩△3四歩▲7七桂という出だしです。

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 これは「鬼殺し」(おにごろし)と呼ばれる作戦のオープニングでもあります。

 鬼殺しの骨子は、▲7七桂から▲6五桂と足早に跳ね、桂と角の連携で強引に相手陣を破るところです。相手は受け間違えると、あっという間に不利になります。

 しかし逆に、単純な鬼殺しは、相手に最善を尽くして受けられると、ほぼ通用しません。ですので、古来鬼殺しは「はめ手」の類(たぐい)として認識されてきました。

 相手が弱いアマチュアならばいざしらず、当時の最強者である中原名人に単純な「鬼殺し」など通用するはずもない。それは佐藤八段も最初から、百も承知だったでしょう。

 ではなぜ鬼殺しの出だしの手順を指したのでしょうか。棋譜を見ただけでは、その理由を探るのは難しいところです。

 後手の中原名人は▲7七桂に対して△6二銀と上がりました。以下も慎重に対応しています。だから先手の佐藤八段は、鬼殺しの出だしの手順を指したものの、桂を中段に跳ね出す急戦策には出ていません。

 投了図はそんなに差がついているわけではありません。

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 最終手となった△4二玉を指すのに、中原名人は52分も使っているのが、まだ難しい形勢であるという証拠の一つでしょう。

 筆者の手元の将棋ソフトの判定では、評価値にして500点程度の差です。後手の模様が良さそうなのは間違いないが、優勢とまではいかず、ましてや勝勢というにはほど遠い、ぐらいのところでしょう。先手には▲6六歩、▲1六歩、▲4八玉など、候補手はいくつも考えられます。

 たとえば現代の藤井聡太七段がここから先手を持って指し継ぐとすればどうでしょうか。どういう構想で立て直すのかはわかりませんが、藤井七段を相手に、後手番を持って勝ちきれる人は、そう多くはいないはずです。

 先手がやや損をしたのは間違いない。しかしこの先、指そうと思えば、まだいくらでも指せるはずです。

 闘志の人として知られる佐藤大五郎八段は、この対局以前も以後も、信じられないような大逆転劇を何度も演じてきました。それがなぜ、この対局に限っては、不可解ともいえる早い段階で投了してしまったのでしょうか。

1974年当時の将棋界

 棋聖戦は当時、半年1期(1年2期)という非常に早いサイクルで開催されていました。当時のトップ棋士の間で、棋聖保持者はめまぐるしく移り変わります。

 1974年前期(第24期)は内藤國雄棋聖に大山康晴十段が挑戦(肩書はいずれも当時)。大山十段が3勝1敗で五番勝負を制して、棋聖に返り咲いています。

 1974年後期(第25期)の本戦トーナメント表は以下の通りです。

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 オールドファンには懐かしい名棋士の名が、ずらりと並んでいます。このうち、現在も現役を続けているのは、桐山清澄七段(現九段)と、当時21歳でデビューしたばかりの青野照市四段(現九段)だけです。

 1974年4月に棋士となった青野四段は、升田幸三九段などを破る快進撃で予選を通過。新四段での本戦入りは、中原名人以来の快記録でした。

 トーナメントの開幕戦では、二上達也九段と勝浦修七段(現九段)が対戦しています。同郷(北海道)、同門(師匠は渡辺東一名誉九段)の兄弟弟子対決は、213手で持将棋(引き分け)となった後、指し直し局は99手で二上九段の勝ちとなりました。

将棋欄では異例の棋譜の扱い

 筆者は改めて、当時の文献をたどってみることにしました。

 新聞には観戦記が掲載されます。将棋界の第一人者である名人の対局ともなれば、原則的には観戦記者がついて、その対局の模様は詳細に伝えられるはずです。

 将棋の棋聖戦を長く主催してきたのは産経新聞社です。昭和の昔の「サンケイ新聞」は、国会図書館のマイクロフィルムで閲覧することができます。リールをぐるぐる回しながら、筆者は1974年9月当時の将棋欄を見てみることにしました。

 当時の将棋欄ではまず開幕局の二上-勝浦戦の持将棋指し直し局が取り上げられています。これはすぐにわかりました。

 続いては第2局の中原誠名人-佐藤大五郎八段戦の観戦記が掲載されているはずです。しかし、筆者は最初、それをなかなか見つけることができませんでした。

 やっぱり10手では観戦記が成立しなかったのか。そうあきらめそうになったところで、二上-勝浦戦の観戦記中、以下のように触れられていることに気がつきました。

(前略)次の第二戦<中原名人対佐藤八段>ではたった10手で佐藤八段が投了するという珍事件?がおきた。この棋譜は本局の最後に記しておくつもりである。

出典:永井英明「サンケイ新聞」1974年9月9日

 二上-勝浦戦の観戦記の中で、中原-佐藤大戦の棋譜を紹介する。わずか10手だからできることですが、常日頃の将棋欄からすれば、異例のことといえるでしょう。

総手数10手の対局の経緯

 「サンケイ新聞」1974年9月16日の将棋欄では、二上-勝浦戦の紹介が終わった後で、中原-佐藤大戦について、棋譜とともに対局の経緯が触れられています。

 まず当日、佐藤大五郎八段は76分(1時間16分)の遅刻をしています。

 遅刻はもちろん、ほめられるものではありません。しかし人には様々な事情がありますし、不可抗力の場合もあるでしょう。

 公式戦の規定では、電車など公共交通機関が遅延した場合には、遅刻した分だけの時間が持ち時間からそのまま引かれます。(業界用語では「ママ引き」とも呼ばれます)

 そうでなければ、遅刻した時間の3倍がペナルティとして引かれます。

 佐藤八段は76分遅刻し、その3倍の228分(3時間48分)が持ち時間から引かれています。当時の棋聖戦本戦は持ち時間5時間ですので、残りは1時間12分ということになります。

 本来の対局開始の時刻は10時です。中原-佐藤戦は佐藤八段遅刻のため、11時16分以降に始まったのでしょう。

 佐藤八段は初手に▲7六歩と指しました。その消費時間の欄には「231」と記されています。228分を引かれた上で、さらに3分を使ったということになります。

 終局時の消費時間の通計は佐藤4時間30分、中原1時間12分。

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 総手数10手ですから、午前中に終わったように思っている人も多いかも知れませんが、開始時刻とその後の消費時間をみる限りでは、午後まで対局は続いたものと推測されます。

10手で投了の真相は?

 では改めて、形勢にそれほど差がついていない段階で、佐藤八段が投了した理由とは何だったのでしょう。観戦記には次のように記されています。

 対局後、佐藤八段は”家を出かけたとき頭痛がするので病院で注射をうってかけつけましたが、がまんできず投了しました”と語った。

出典:永井英明「サンケイ新聞」1974年9月16日

 佐藤八段の当初のコメントによれば、これが投了の理由のようです。病院まで行き治療を受け、それでも我慢ができないほどに体調がわるかったとすれば、それはもう、不可抗力としか言いようがないでしょう。

 身体が不調で、それにともなって精神面も不調となれば、不可解な棋譜を残してしまったとしても、不思議ではないかもしれません。

 経緯説明は、以下のように続きます。

 将棋連盟は佐藤八段から始末書を取り、二度とこのようなプロ棋士らしからぬ棋譜を残さないよう戒告した。

出典:永井英明「サンケイ新聞」1974年9月16日

 体調不良という主張があるにもかかわらず、戒告とは、ずいぶん重い処分です。

 将棋連盟機関誌『将棋世界』の、棋聖戦の進行を紹介するページを見てみましょう。サンケイ新聞の担当である梶川真治記者は、「大五郎、十手投げ」という見出しをつけ、棋譜を紹介した後で、次のように記しています。

 佐藤八段は第一手に四時間近い消費時間が記録されているが、これは76分の遅刻が3倍に加算されているためである。

 将棋連盟は佐藤八段に厳重な戒告を与えたのはもちろんのことである。

出典:梶川真治『将棋世界』1974年11月号

 戒告を「もちろんのこと」とする梶川記者の筆致からは、やや憤りのようなものが感じられます。

 将棋連盟執行部が戒告処分を下す理由としては、棋譜の質、遅刻、あるいは何か他の要因も合わせてあったのかもしれません。そしてそこでは「名人に対してあまりに失礼」という、いかにも将棋界らしい理由があったとしても、不思議ではなさそうです。

 それにしても「戒告」とは重い言葉の響きです。そこでは口頭での注意がされただけなのか。あるいは何かしらのペナルティが課されたのか。それはよくわかりません。

 観戦記者の大御所である東公平さん(85歳)は、将棋界の生き字引のような方です。1970年代の将棋界についても当然詳しい。その東さんに尋ねてみたところ、佐藤大五郎さんの処分については記憶にない、とのことでした。

筆者「将棋連盟の執行部が棋譜の内容にまで踏み込んで、『無気力将棋』と判定して、棋士に処分を課するような例はあったのですか」

東さん「それはわからないんだけど、昔の将棋連盟というのは実にいい加減でね。ご存知の通り、理事がルールブックなんです。理事会を通した正式な決定なのか、そうでないのか。一人の理事が独断で、何かを決めるようなこともありました」

棋譜は後世に残る

 わずか10手で終わった中原誠名人-佐藤大五郎八段戦。その対局の前後の経緯について、詳細は後世に伝わりませんでした。

 代わりに、インパクトのある棋譜とともに流布していったのは、

「名人に対して失礼な指し方をしたと反省して佐藤大五郎は投了した」

 という伝説です。実際にそうした発言があったかどうかはわかりません。しかし少なくとも、当初には挙げられていなかった「名人に失礼」という理由が、棋士らしいエピソードとして広まっていった。

 筆者が調べた範囲では、以上のような経緯まではたどることができました。ここでいったん区切って発表し、後に関係者の証言や他の新発見あれば、その時点でフォローしたいと思います。

 棋譜は広く発表してしまえば、変えようのないデータとして、変わりなく後世に残ります。

 一方で、棋譜に付随するエピソードについてはどうでしょうか。そちらは伝聞の過程や、棋譜を見た人々の想像によって、少しずつ形を変えていくこともある。そうした例は、少なくないようです。

 本稿で紹介した棋譜は、佐藤大五郎九段にとっては、あまり名誉とはいえないものだったかもしれません。定跡としては何か一言触れて、名誉を回復すべきところでしょう。しかし、ここまでずいぶんと長くなりました。いずれ稿を改めて、佐藤九段の数々の名手・名局をご紹介できればと思います。

【追記】続きの記事を書きました。

【将棋史再発見】佐藤大五郎八段はなぜ中原誠名人を相手に10手で投了したのか?

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)、『など。

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