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『天気の子』受賞ならず 米・アニー賞が示す日本アニメの更なる深化の必要性

まつもとあつしジャーナリスト・コンテンツプロデューサー・研究者
(C)2019「天気の子」製作委員会

優れたアニメ作品や監督に贈られ、「アニメーション界のアカデミー賞」と称されるアニー賞の授賞式が1月25日、アメリカ・ロサンゼルスで開催された。日本からは昨年公開された『天気の子』『若おかみは小学生!』『プロメア』の3作品がノミネートされていた。日本国内でのヒット作・話題作であり、『天気の子』は海外でも興行が好調であったが、いずれも受賞はならなかった。その明暗を分けたのは、一体何だったのだろうか。

有力日本作品多数ノミネートされるも受賞ならず

日本作品が受賞を逃したなか、作品賞はじめ7部門を受賞したのはスペインの『クロース』。Netflixが独占配信するオリジナル作品だ。

この他にも、フランスの『亡くした体』がインディペンデント作品賞を受賞しており、こちらも、Netflix独占配信作品。これら2作品がこのあと2月10日に控えるアカデミー賞にノミネートされている。

前回取り上げたように、日本アニメにとって2018年~2019年は豊作とも言える時期だった。『君の名は。』(2016)の世界的ヒットを受けて、数多くの企画が生まれる形となった年であったわけだが、『君の名は。』がやはりアニー賞ではノミネートにとどまったように、『千と千尋の神隠し』(2003)以来、海外のフルCGアニメーションの受賞が続いている。世界で日本のアニメが最高位の評価を受けるには未だ何かが足りないということを思い知らされる結果でもあった。

筆者の周囲では、映像の視聴スタイルの変化をその理由に挙げる声も多かった。これまで、日本のテレビアニメは海外での放送機会が一部の過去作品を除いてほとんど無く、そもそも海外の映像各賞で評価される場所にいなかった。そして、アニメ映画と言えばジブリ作品という時代が長く続き、劇場作品の数・多様さにも乏しかった。そこに降って沸いた劇場アニメブームであったが、海外での長編作品の主戦場は既に劇場ではなく、Netflixのような配信ウィンドウに移ってしまっている。審査員も含め、多くの人々にとって劇場よりも日常的に接触できる場に存在しており、観客の評価も可視化されている作品と、審査の段階ではじめて目にする作品である時点で、既に差が付いてしまっているというわけだ。

『失くした体』Netflix公式サイトより
『失くした体』Netflix公式サイトより

「アニメ」は「アニメーション」と異なる存在感を示せるか?

しかし、日本のアニメも(テレビ作品=シリーズものが中心だが)Netflixはじめ海外の配信プラットフォームで流通されているものも少なくない。しかもメディア等でよく紹介されるように海外にも熱心な日本のアニメファンがいる。にもかかわらず海外のアワードのような評価の場で、日本のアニメやや特異なものとして扱われがちで受賞の機会も限られているように感じられるのはなぜなのか?

実は日本の商業的な「アニメ」と、アート寄りの作品が多い海外の「アニメーション」は異なる存在として捉えられている――こう提唱するのは、アニメーション研究者の津堅信之氏。筆者も全く同感だ。

津堅氏が著書「アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質」(2007)で検証していったように、日本のアニメはディズニーの影響も強く受けながら、鉄腕アトムのように動くマンガとして独特の表現手法を自ら確立していった。本来1秒間に24コマ必要であるにもかかわらず8枚まで減らす(=3コマ打ち)など、動画を「マンガ的に」間引いたのは、ディズニーのような豊富な人的・資金的リソースがない故でもあったが、結果的に他に例をみない魅力的な表現が生まれることにもつながっている。

いまアニメの世界にもデジタル化の波が押し寄せている。フルCG「アニメーション」が映画賞も席巻し続けるなか、日本の「アニメ」表現にも根強いファンがいる。しかし、より幅広い層に評価を拡げるには、もう一段の進化が必要だと筆者は考えている。それは更なる「テーマ性」の獲得だ。

もう一段の深化が求められる「テーマ性」

『天気の子』は新海誠監督自身が語るように実は気候変動「も」テーマに込めた作品だが、日本国内ではそのように解釈される機会は多くはなかった。本質的には「ボーイ・ミーツ・ガール」の物語として示され、作品をみた観客も『君の名は。』の延長線上にある作品としか認識しなかった人が少なくなかったはずだ。

気候変動と非協調的な国際社会、移民問題と自国第一主義、ソーシャルメディアによる過剰なコミュニケーションとそこから生まれる分断……など、いま「世界」には様々な問題が存在しており、当然、アートの分野にも強い影響を与えている。映像表現が優れていることはもちろんのことだが、いかにそこに強いメッセージを込めることができるのか、が「アニメーション」の世界では重要なファクターになっている。

(アニー賞でインディペンデント作品賞を受賞した『失くした体』。恋愛や謎解きで見る人を引き寄せながら、人と人とのつながりや身体性をテーマにした作品でもある。手塚治虫の代表作であり、最近アニメ化もされた『どろろ』を思い起こさせる)

日本の「アニメ」はその多くがマンガを原作として人気を拡張してきた歴史がある。つまり、近年盛り上がりを見せる劇場作品や、海外賞で競い合うことになるオリジナル作品において、原作抜きでテーマ性をどう作品に込めていくかという取り組みは実のところ、まだ発展の余地が残されている。一方で、時には「政治的」とも捉えられるエッジの効いたテーマを「アニメ」のような文化産業が扱うことについて、受け手となる私たちも十分な訓練を受けているとは言えないだろう。(そのアレルギー反応は「表現の不自由展」を巡る未成熟な議論などで確認することができる)まず作品が向き合うことになる国内市場=文化圏が十分に成熟していなければ、クリエイターもテーマを真正面から扱うことは難しくなる。「アニメ」には実写映画に対して批判も含めた批評空間が存在していないとよく指摘されるが、メディアもそのあり方を見つめ直すタイミングに来ていると思う。

日本の「アニメ」は海外ではエスニック(民族的)なものとして捉えられ、熱狂的なファンもいることは事実だが、海外で「アニメーション」とならび評価されるためには、日本ならではの視点と表現で、それでいて海外にも通用する普遍性を備えたテーマ性をいかに物語に込めることができるのかが重要だ。 日本のアニメとそれを受止める私たちにももう一段階の深化が求められている。

ジャーナリスト・コンテンツプロデューサー・研究者

敬和学園大学人文学部准教授。IT系スタートアップ・出版社・広告代理店、アニメ事業会社などを経て現職。実務経験を活かしながら、IT・アニメなどのトレンドや社会・経済との関係をビジネスの視点から解き明かす。ASCII.jp・ITmedia・毎日新聞経済プレミアなどに寄稿、連載。デジタルコンテンツ関連の著書多数。法政大学社会学部兼任講師・デジタルハリウッド大学院デジタルコンテンツマネジメント修士(プロデューサーコース)・東京大学大学院情報学環社会情報学修士 http://atsushi-matsumoto.jp/

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