コミック表現の是非を議論する際に大切なこと

(写真:アフロ)

週刊少年ジャンプで連載されているマンガが、性暴力を助長する表現になっているのではないか、という批判がネットで高まり、東京新聞でも取り上げられた。(7月7日掲載「ジャンプ『お色気』に波紋 少年誌で少女キャラ裸同然))「少年誌でここまでやる必要があるの?」という批判に対して、「ジャンプには昔からエロがあった」といった反論が寄せられるなどしている。このような場面で創作者、コンテンツ提供者、読み手にとって大切なこととは何だろうか?

物語表現を議論する際に文脈は欠かせない

昭和の時代から繰り返されてきた光景で、「また?」という感想を持った人も多いと思う。たしかに歴史的に「海外に比べて日本では猥褻や暴力表現に対して寛容だ」という事実はある。ただ、そのことが犯罪に結びついているという科学的根拠はなく、一方でアニメやマンガの多様さを生む要因ともなっていると筆者は考えている。(例えば、「進撃の巨人」で、巨人が人間を食べるような描写が、「暴力的だ」として何らかの規制を受けていたら、今のような世界的な人気となっているだろうか?)

法律による線引きはあるものの、その外側では何をもって猥褻・暴力と捉えるかは、各人の価値観によるところが大きい。しかもマンガの1場面を抜き出すと、物語の文脈から切り離されることとなり、解釈によるバイアスが掛かってしまう。今回「ゆらぎ層の幽奈さん」でネット上で取り上げられたのも、その扉絵だけを切り出したもので、登場人物がどういう経緯で「裸同然」になっているのか、その後どんな展開になっているのかといった文脈が分からない。

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実際、この物語の主人公が人に優しく、誠実なキャラクターだとして擁護されていたりもする。もちろん、それだけをもって猥褻・暴力表現だという批判から免れるわけではないし、批判者に対して「全て読んでから批判せよ」というのは無理があるが、物語という表現においては、その文脈とあわせて議論されるべきではあると思う。したがって、反論する側は物語が優れていること、その中での展開の一部であり全体の文脈では猥雑や暴力ではない、ということは面倒でも繰り返し指摘し続ける必要があるはずだ。

自主的なゾーニングは必要なコスト

今回のような議論は、歴史的にも繰り返されてきたもので、むしろ議論が行なえるというのは健全だという見方もできると思う。批判と反論の中で、創作者は表現のあり方を探っていくことになる。(そういう意味で、作者自らが仕掛けたまとめは状況を逆手にとった上手い「表現」の一例と言えるかも知れない)

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一方で、「とはいえ、書店などで自分の子どもが、猥褻・暴力的な作品を間違って手に取ってしまうのは避けたい」というのは自然な感覚だ。コミケでも成人向けのエリアが設けられ、頒布物を運営者が自主的にチェックを行っている。「ここから先はダメ」というゾーニングはコンテンツを提供する側からなされるべきで、それは日本の表現の多様さを守るために必要なコストであるはずだ。

表現そのものへのアクセスこそ守られるべき

表現の多様さ、表現の自由を守る上で、本当に批判されなければならないのは、国や自治体、学校などに対して、「この表現は問題だ」と行った「ご意見」「ご注進」を行うことで、自らが気に入らない表現へのアクセスそのものを排除しようという動きだと思う。2013年には島根県松江市などの教育委員会に対して、マンガ「はだしのゲン」の表現は暴力的だという陳情が行われ、一時学校図書館で閉架扱い(閲覧制限・現在は撤回されている)となったことがあった。最近では、産経新聞が6月16日に「公立中学校の図書館に“わいせつ扇情的”ライトノベル 生徒の要望で公費購入、大阪・門真市」といったタイトルで、人気ラノベ「エロマンガ先生」などが貸出・閲覧の対象外となったと報じている。

「はだしのゲン」については、天皇制度への批判などを敵対視したものだったが、であれば正面からその点を議論をするべきで、暴力表現を生贄にするのは筋が悪いし卑怯だ。「エロマンガ先生」などに対して「女性を性的愛玩物として描く本を図書室に置くのは生徒にとってもよくない」と批判した市議のコメントは、作品の中身を知る人であれば首を捻らざるをえないもので、まさに文脈不在の批判によって作品へのアクセスが封じられてしまった例だ。

このようなオープンではない場所での、物語の文脈を排除した「ご意見」「ご注進」によって、適切なゾーニングではなく、作品にアクセスする手段そののもが規制されてしまうことは避けなければならない。作品へのアクセスができなければ、そもそもの議論の前提さえ失われてしまうからだ。こういった動きこそが表現の自由を守る上で最も注視・批判されるべきであり、繰り返されてきた(そして個々人の価値観・人生観にも大きく左右される)猥褻・暴力であるか否かという議論よりも、さらに致命的だということは議論に関わる人たちの間でもう少し共有されても良いと思う。