川内原発審査で見る原子力規制における「公開」の意味

7月16日、川内原発審査前に着席をする原子力規制委員会(筆者撮影)

原子力規制委員会が、7月16日、九州電力「川内原発」の設置変更許可申請書案を審査した。この委員会を映像で見ることが多い筆者だが、この日はリアルに傍聴した。福島第一原発事故後に作られた新基準で初めて再稼働に至るか否か、日本の運命が分かれる日だからだ。

ギリギリに到着して見つけた空席は、最前列から4列目までを占めている記者席のうち、一番前のど真ん中だった。より早く到着した傍聴者たちが後ろにズラリと座っており、申し訳ない気分で着席した。

原子力規制委 最前列から4列目まで記者席。その後ろで開会を待つ傍聴者たち
原子力規制委 最前列から4列目まで記者席。その後ろで開会を待つ傍聴者たち

「公開」会議に記者も傍聴者も区別はない

米国の原子力規制委員会ではこのような形にはなっていない。委員会室自体が特別にしつらえてあることは横に置いたとして、下の写真で分かるように、3方向から委員を取り囲む形で、その一方の席(下写真では手前右)を職員が占めるが、あとの二方向は記者と一般の区別などなく、早いもの勝ちだ。「公開」会議において記者も傍聴者もないのである。

米国原子力規制委員会室 2012年1月12日開催前、筆者撮影
米国原子力規制委員会室 2012年1月12日開催前、筆者撮影

よいことはすぐに真似して取り入れればよい。取材者と傍聴者を区別しないあり方は、すぐにでも改善できることだ。しかし、規制委に今より強く求められる「公開性」は、後述するが、傍聴席以上のことである。

日本の行政には傍聴すら拒む会議がまだある

一方、徹底して傍聴者を拒み続ける会議が河川行政では行われている。国土交通省水管理・国土保全局(旧河川)の「今後の治水対策のあり方に関する有識者会議」である。円卓を委員と同局幹部が囲むが、その円卓と記者席の間に職員の背中が何重にも並ぶ。

2012年12月国交省「今後の治水対策のあり方に関する有識者会議」(筆者撮影)
2012年12月国交省「今後の治水対策のあり方に関する有識者会議」(筆者撮影)

この会議は、「ダムにたよらない治水」へ転換するとして2009年12月に「会議は原則として非公開」として始まったときから12回目までは完全な密室で行われた。各方面からの公開要請が1年3カ月続き、13回目から報道関係者にだけは公開としたが、未だに一般傍聴を拒んでいる。

また13回目から公開されても、前12回目までにダムの検証方法が決まり、ダムの残事業費と代替案を比較してどちらが安いかで答えを出すこととなったから、良識的な少数委員が異論を唱えてもダム案が有利となる審議形態になった。

公開は「参加」の一要件でしかない

これと比べれば、新規制基準の策定過程も「公開」で行った原子力規制委員会は随分マシだが、悪い方と比べてはいけない。会議を公開することは、諸国で当然視される「参加」における一つの要素でしかないからだ。

原子力規制委員会は、川内原発の事業者の話はおびただしい回数を重ねて約1年を費やして聞いたが、批判的な検証を行っている専門家や市民団体、さらには避難計画が未策定である自治体の話は正式には一度たりとも聞いていない。それもせずに規制委員たちは何の予備知識もないことがほとんどの国民に対して「8月15日(金)までの30日間のパブリックコメント」を行うと述べ、規制庁は、「科学的・技術的意見の募集を行う」と言う。

しかし、このままでは一般の人が「懸念」をコメントしたつもりでも、規制庁の側で「科学的・技術的意見とは違う」と言って、その懸念に向き合わない可能性すらある。

会議を公開する意味は、「企業活動」と「国民の安全」など相反する利益や、審査側からは見えない住民の足元から見える懸念などが、公正明大に共有され、社会として合意できる点を模索し合うことにある。会議を単に公開すればよいのではない。すべてを決めてしまったあとで形式的にパブリックコメントをやればいいというものではない

米国の原子力規制委員会では、こうした場面では、自治体や最も批判的な市民団体を招いてその意見を聞き、その声に説明責任を果たした上になおパブリックコメントを行うなら行っている。繰り返すが、よいことはすぐに真似して取り入れればよいのである。