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「呪われた体」に悩み生きてきた長男殺害 元農水事務次官の裁判の焦点

池上正樹心と街を追うジャーナリスト
家族が眉間にしわを寄せて責め続けていたら、家の中も安心できる居場所ではなくなる(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

 東京都練馬区の自宅で当時44歳の長男を殺害したとして、元農水事務次官の熊沢英昭被告(76歳)に対する判決が、16日午後3時に言い渡される。

 このところ、メディアから裁判に対するコメントを求められることが増えてきたので、改めて裁判のポイントを整理しておこうと思う。

 裁判の焦点は、検察側が「被告も好き好んで殺害したわけではない。ただ、周囲の関係には恵まれていたのに専門家に相談することもしないで、強い殺意を持って一方的に攻撃した」として懲役8年を求刑したのに対し、弁護側は「被告も障害を抱える長男を支えようと大変な努力をしてきた。ただ、激しい暴行を受け、死の恐怖を感じて、とっさにやった犯行だ」として、執行猶予付き判決を求めている点が異なる。

 従って、判決は、どのような量刑になるのか、どちらの主張に基づいた理由を採用するのかが注目される。

家族だけで悩みを抱えると関係は悪化する

 裁判を通して感じるのは、厳格な父親の姿だ。メディアなどの世間の目を気にする家庭環境の中で、被害者の長男は、自分らしさが出せない、あるいは、自分らしさを出すことを許されなかったのではないか。

 被告は、なぜ長男が怒っているのか、わからなかった。あるいは、わかろうとしなかったようにも感じる。

 長男は、有名私立中学に入学後、人付き合いが苦手で、いじめを受け、家庭内暴力を振るうようになった。大学卒業後は仕事が長続きせずにひきこもった。

 アスペルガー症候群と判明するのは、ずっと後の2015年になってからであり、それまでの早い時期に周囲の理解や配慮の必要性、社会資源の情報を得られる機会がなかったのは、不幸なことだったかもしれない。

 しかし、被告は、學校や行政に相談すると、「親子関係が悪化する」と思っていた。「職場に迷惑をかける」ことも気にしていたように見える。

 実際、行政のひきこもり支援は、機能していなかったのは現実だ。

 相談したくても、自治体の多くは、本人が40歳以上の支援に目を向けてこなかった。本人や家族が勇気を出して相談に行っても「40歳以上は対応してません」と断られたり、「ひきこもりはわからない」とタライ回しにされたりして、傷つけられてきた。「親が悪い」「なんでここまで放置してたの?」と親の責任を責められるので、怖くて相談に行けないという声も多く、高齢化した親子の孤立、「8050問題」の要因にもなった。

 行政のトップにまで上り詰めた被告が、そんな行政の支援制度を信用していなかったとしたら、何とも皮肉な話である。

 しかし、息子を殺したいと考えるくらいなら、その前にまず、ひきこもり家族会に相談してほしかった。

 家族会では、子どもに黙って相談する人がほとんどであり、親子関係の悪化は避けられる。それよりも、家族だけで悩みを抱えて、頑張れば頑張るほど関係が悪化することのほうが多い。

 ひきこもる本人も、家族の孤立や抱え込みが本人をますます追い詰めることを実感で知っている。

 家族会に行けば、同じように悩んでいる家族がたくさんいて、自分一人ではないということを知ることができる。

 憔悴していた家族がホッとすれば、親の期待に応えられずに申し訳ないと感じていた本人も、親の表情を見て安心できる。自分(親)が悪いと自分自身を責めることもなくなり、それぞれの状況に合った(当事者たちの)評判のいい社会資源の情報を入手することもできる。

嫌な記憶も写真のように覚えている

 長男は、ツイッターで「家族って、いるだけで安心してしまう」と書いていた。ネット上で交友のあった人は「被害者は、お父さんのことを尊敬していて、誇りに思っていた」「最も尊敬するお父さんに理解してほしかったのではないか」と証言している。

 アスペルガー症候群と診断した精神科医によると、長男は「発達の特性」として、「記憶力が非常に鮮明で、写真のように覚えている」「いじめを受けた嫌な記憶に苦しんだと思う」という。

 当事者たちから、嫌な記憶を例えば夜中に夢で見て、大声を出す、パニックを起こすという話をよく聞く。長男がイライラしていたのも、攻撃することが目的だったわけではない。

 一方で、清掃ができない特性を持った長男に、被告は「迷惑をかけるから」と、清掃してごみを出すよう繰り返し指示していたという。しかし周囲は、本人のできないことを否定するのではなく、できたことを肯定的に評価するなど、温かく理解することが重要だ。

 長男はツイッターに「呪われた体」と書き、悩みを抱えながら生きてきた。前出のネットでの交友者には「いま幸せですよ」と、自分なりの生活に楽しみを見つけ出していたという。「その人生を奪う権利はない」という検察の主張は、その通りだと思う。

 今回の事件を受け、家族や本人が悩みを抱え込まなくて済むように、安心して相談できる支援体制の構築が、どの自治体にも急務である。これからは社会全体で、苦しんでいる家族自身が、家族会でも専門機関でも、どこかに必ず受け止めてもらえる場所があると信じられるよう、家族が悩みを打ち明けてよかったと思ってもらえるよう、社会に伝えていく必要がある。

 被告人質問で、被告は裁判が終わったら、「償うことがいちばん大きなつとめ」として、農福連携の話が出ていた。しかし、長男のための贖罪の活動をするのであれば、農福連携はズレている。同じように疲弊し、憔悴した親たちをサポートする家族会などの活動に関わることが、長男のためになるのではないか。

心と街を追うジャーナリスト

通信社などの勤務を経てジャーナリスト。KHJ全国ひきこもり家族会連合会副理事長、兄弟姉妹メタバース支部長。28年前から「ひきこもり」関係を取材。「ひきこもりフューチャーセッション庵-IORI-」設立メンバー。岐阜市ひきこもり支援連携会議座長、江戸川区ひきこもりサポート協議会副座長、港区ひきこもり支援調整会議委員、厚労省ひきこもり広報事業企画検討委員会委員等。著書『ルポ「8050問題」』『ルポひきこもり未満』『ふたたび、ここから~東日本大震災・石巻の人たちの50日間』等多数。『ひきこもり先生』『こもりびと』などのNHKドラマの監修も務める。テレビやラジオにも多数出演。全国各地の行政機関などで講演

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