大川小の当時の生存児童「民家で津波が見えなかった」

被災校舎を見下ろすコンクリート叩きの上で、当時を語る只野哲也さん(右)筆者撮影

 東日本大震災で学校管理下にあった児童・教職員84人が津波の犠牲になった石巻市立大川小学校の悲劇から、まもなく7年。学校から生存した児童の1人で、当時小学5年だった只野哲也さん(18歳=現在高校3年生)が1月28日、遺族らと一緒に語り部ガイドを行い、津波に襲われたときの様子や学校防災の大切さなどを、訪れた100人以上の参加者たちに伝えた。

 この日は、遺族や地域住民などでつくる「大川伝承の会」主催の語り部ガイドと勉強会が行われた。訪れた人の中には、安倍晋三首相夫人の安倍昭恵(あきえ)さんの姿もあり、哲也さんらの説明に耳を傾けた。

 哲也さんは、同じく学校にいた当時小学3年生の未捺(みな)ちゃんや、自宅にいた母親と祖父を亡くし、自らも逃げる途中に津波にのまれながら、学校の裏山に登って生還した。

背中を押されるまで津波は見えなかった

 当時、児童たちは校庭から、三角地帯と呼ばれる川の堤防上を目指したが、通ったルートは民家裏の軽トラック1台分の狭い路地で、行き止まりだった。哲也さんたちは路地を右折し、民家の間の通路を走って県道に出ようとしたとき、前方に煙が上がるのが見えた。

 あの日、自ら登った辺りの急斜面な裏山を背に、哲也さんが訪れた人たちの前でこう語る。

「津波は見えなかったんですが、やばいと思って山に向かって走った。通路に子どもたちが何人かいたんですが、自分だけで精一杯だった。急な斜面を5メートルくらい登って、後ろを見たときはまだ津波は見えなかった。もう少し登れるなと思ったら、背中を押されるような圧力がかかって気を失った」

 行き止まりに遭った路地で、何十人もの子どもたちが立ち往生していた。民家がたくさんあって、押し寄せてくる津波が見えなかった。

 この場所で、流されなかった34人の子どもたちが生き埋めになっていたという。話を引き継いだ鈴木典行さんの次女で、当時小学6年の真衣ちゃんも、ここで見つかった。

「ここにいると思って捜索したんじゃないんです。民家の屋根の一部が張りついていて、他のお父さんたちと一緒に剥がしたら、2人いた。ここを掘ろうって、つるはしやスコップを持ってきたけど、ここにいると思うと道具なんて使えない。軍手1枚で瓦礫をよけ、土を掘ったら、子どもがいっぱい出てきたんです。なんで、ここにいるんだよって…」

 哲也さんや鈴木さんら遺族をぐるりと囲んだ参加者たちから、すすり泣く声があちこちで聞こえてくる。

 自転車でも徒歩でも通学のとき、ヘルメットを着用することになっていたと哲也さんは言う。

 「ヘルメットを被ってたから頭は守られた。同級生の子も流れてきた冷蔵庫につかまって山に上がった。その子と山の斜面にしばらくいたんですが、川と堤防も全部、足元まで水に浸かっていて、どこが川と陸地かわからなかった。しばらくしたら、役場の職員の人が来て、山を移動したんです」

昭恵夫人も雪の裏山をブーツで登った

 一行は最後に、「もし、ここに避難していれば…」という裏山の緩やかなルートをあの日の子どもたちの代わりに登り、コンクリート叩きの上から被災校舎を見下ろした。

 首相夫人の昭恵さんも、哲也さんに手を引いてもらい、雪の積もった裏山をブーツで登った。

 コンクリート叩きの上でも、しばらく昭恵さんらは哲也さんの言葉に耳を傾けた。

 昭恵さん「何、着てたの?」

 哲也さん「ジャンパーは着てて、流されなかった。でも靴は靴下も脱げて、裸足で雪の中を歩いた」

 周囲「えーっ?!」

 哲也さん「翌日、山を避難するときも裸足なんで、刺さる、刺さる…」

 哲也さんは、年月が経つにつれ、思い出すことがあるのか、あの日のディティールを少しずつ語り始めているように思える。

「自分たちがどういう思いで、あの日の夜、ここにいたのか。子どもたちがどういう気持ちで津波にのまれ、悔しい、悲しいって亡くなっていったのか…」

 裏山を下りた後、メディアの囲みで、改めて哲也さんは自らの思いを伝えた。

「民家で川が見えなくて、学校の地震訓練では校庭に避難して点呼取って終わりで、津波の避難訓練はしていなかった。しっかり訓練していれば、震災当日も早めに移動したり、川の様子を確認したりして山に避難できていたかもしれない。日頃の津波や地震に対する意識が足りなかった。自分たちが伝えていくことで、大震災のとき、少しでも犠牲者を減らすことにつながるのではないか」

子どもたちが口封じされている

 その後、近くの公民館に場所を移し、勉強会が開かれ、約50人が参加した。

 学校のすぐ裏には登れる山があったのに、なぜ登れなかったのか。なぜ大川小の検証委員会は、ダメな検証報告をしたのか。児童の遺族を中心に、地域住民や関心のある一般の人たちも交え、話し合うテーマは尽きない。

「教育委員会には“全力で子どもを守りますから、安心して通わせてください”って言える学校づくりをしてほしいと、何度も言いに行きました。なんで、これだけのことがあっても、それが言えないのか…」

 進行役を務めた児童遺族の佐藤敏郎さんが、言葉を詰まらせる場面もあった。

 一方、2014年3月に始まった裁判は、今月、控訴審が結審し、4月に判決を迎える。原告に加わっている遺族が、こう説明した。

「メディアでは“遺族が和解を拒否”してゴネてるかのように報道されたが、納得いかないと控訴して和解しないと言ってきたのは、石巻市や宮城県のほうだった。結審後、メディアに出したコメントが“和解したかったのに大変残念でした”と聞いて、本当にびっくりした」

「事前の学校防災で“子どもたちの命を守るべき”という法的判断を示すために、和解しないことがすごく大事なポイントだと思う」

 唯一生き残った教諭は、7年近く経った今も「公務災害」として病休扱いのまま、遺族らに「真実」を語ることができずにいる。

「当初、生き残った子どもたちが、聞き取り調査で話してくれたことは、すべて破棄されてしまって、報告書には載っていない。一生懸命証言してくれた子どもたちが口封じされ苦しんでいる。誰が、何のために、何を隠ぺいしようとしているのか?」

 次回は3月4日、「阻んでいる壁」をテーマに、勉強会を開く予定という。