飯舘村 この4月に移住第1号は塾の先生

小学校は現在も避難先のプレハブ仮設校舎。しかし、子どもたちの表情は明るい。

「赴任してきて感じたんですけど、生徒も教員も明るいというか、意外にも前向きなのに驚きましたね」。そう言ったのは、学習塾「花まる学習会」の社員で、飯舘中学に派遣されている会田完三だった。

花まる学習会は埼玉県に本部を置き、関東圏を主な活動範囲としている。会田もその地域で仕事をしていたし、出身は新潟県で大学は横浜で、この5月で52歳になったが、それまで飯舘村はおろか福島県とも無縁に暮らしてきた。その彼が飯舘中学で勤務することを決めたのは、「報道だけでしか知らなかった被災地のために何かしたい、という気持ちがあったからです」と彼は説明した。

その彼は、この4月1日に飯舘村に居をかまえた。2011年3月11日の東京電力福島第一原子力発電所事故による放射能汚染で避難指示地域に指定された飯舘村は、3月31日に一部を除いて避難指示解除となり、元住民の帰村も始まったが、まだまだ帰村者は少ない。そんななかで彼は村に移り住んだ。避難指示解除後に飯舘村村民になった第1号が、会田なのだ。

飯舘村の村営住宅の自宅前に立つ会田。まだ周りは空き家ばかりだ。
飯舘村の村営住宅の自宅前に立つ会田。まだ周りは空き家ばかりだ。

放射能汚染にさらされた福島県相馬郡飯舘村は、人が住めない地域になり、子どもたちも村を出た。村立の飯舘中学は福島市飯野町の工場跡の建物を利用した仮校舎に、3校ある小学校は伊達郡川俣町につくられたプレハブ校舎に避難し、授業が続けられた。除染がすすみ避難指示は解除された現在も、仮校舎での授業が行われている。学校の帰村は1年後の来年4月に予定されているからで、村にある中学の敷地と建物を改修・新築して、こども園から中学までがそろう集合施設の建設が約60億円の費用を投じて進られている。

(参考記事:原発事故・避難指示解除に揺れる飯舘村が学習塾とめざす「留学生も呼べる学校」)

中学校の敷地を中心に、幼児から中学生までが学ぶ施設整備が始まっている。
中学校の敷地を中心に、幼児から中学生までが学ぶ施設整備が始まっている。

子どもたちに飯舘村の学校に帰ってきてもらうために、施設だけでなく、村は教育そのものの充実をはかろうともしている。そのひとつが、学習塾「花まる学習会」との提携だ。花まる学習会は佐賀県武雄市や長野県北相木村など公立学校との提携経験をもち、点数だけでなく、子どもたちの生きる意欲と力を引き出す独自のプログラムで定評がある。とはいえ、原発事故被害を受けた学校との提携は初めてのことである。それだけに常駐者としての会田には、飯舘村と花まる学習会の両方からの期待がかけられている。

飯舘村と花まる学習会の提携は、小学校では「花まるタイム」が中心に行われる。これは同じ計算問題に何度も挑戦しながら自分自身の成長を子ども自身が実感して自信につなげていく「サボテン」や、大きな声をだすことで積極性や集中力を養うための音読など、花まる学習会独自のプログラムを実践する時間である。1学期は花まる学習会の講師から教員が研修をうける期間とし、9月からは教員が中心となって展開していくことになっている。

そして中学で予定されているのは、受験対策のための「放課後塾」である。こちらは、会田が担当する。有名進学校の高校で数学を教えてきた実績をもつ彼は、主に小学生を対象にしてきた花まる学習会にあって、中学生を相手に受験指導のできる貴重な存在なのだ。それが、飯舘村常駐に選ばれた大きな理由でもある。

子どもたちと教員との関係を近づけるため、会田は正規の授業にも積極的にかかわる。
子どもたちと教員との関係を近づけるため、会田は正規の授業にも積極的にかかわる。

放課後塾が本格的に動きだすのは、3年生の部活が終わる7月以降と予定されている。それでも会田は、すでに中学で講師として授業を担当したり、補助として授業を助けたりもしている。

「子どもたちの顔と実力を知り、放課後塾が始まったら少しでも中身の濃い内容にしたいからです。ただ、先生方に押しつけがましいと受け取られないように注意しています。

外部からくると、早く結果をだそうとして、押しつけがましいところがでてきます。私も教員をやっていたからわかるんですが、そうなると反発しかない。だから、地道な一歩を積み重ねていく気持ちを忘れないようにしています」

と、会田は言った。ちょっと授業を覗いただけの感想でしかないが、子どもたちとも教員とも良い関係が築かれつつある印象を受けた。

学校の教員経験のある会田は、教員の気持ちもわかる、という。
学校の教員経験のある会田は、教員の気持ちもわかる、という。

花まる学習会は全国の学校との提携を積極的に進めようとしている。しかし飯舘村といえば、放射線が低くなってきていることや村人の複雑な思いなどより、「まだ高い放射線」というところばかりに世の中の関心は集中しがちだ。そういう地域で活動するにあたっては、かなりの覚悟が必要だったはずである。提携を決めた理由を、花まる学習会の代表である高濱正伸は次のように語った。

「原発を容認してきた責任は日本国民全員にある、というのが私の持論なんです。だから現在も続いている被災地の状況を見ないふりするとか、終わったことにするのは違うなと、ずっと思っていました。

放射線量の高いことへの危惧もありますが、それだけで済ましてはいけないと思う自分もいる。だから、帰村して復興でがんばろうとしている人たちがいる以上、そこに協力しない理由はない。外から批判だけする立場ではなく、内にはいって一緒に苦しんでみよう、と考えたんです」

もちろん会社ですから、私の一存だけでやるわけにはいかない。社員に相談したら『やるしかない』という意見が圧倒的に多かったので、決めたわけです」

「勝算があるとかないとかではなく、とにかく取り組むべき事業です」と高濱。
「勝算があるとかないとかではなく、とにかく取り組むべき事業です」と高濱。

<プレハブ校舎でも明るい子どもたち>

原発事故のあと、飯舘村は「放射能に汚染された村」として全国に名が知られることになった。村民にすれば、うれしくないかたちで知名度が上がったことになる。子どもたちは仮設校舎での授業となり、「被害者」のイメージを押しつけられることになった。それは決して心地良いものではないはずだ。

今回の取材は避難指示解除がでて1ヶ月近くが過ぎた4月末だったが、まだまだ子どもたちや教員のあいだには緊張した雰囲気が漂っているのだろう、と想像していた。被災者でもない人間が自分たちの生活にズカズカとはいりこんでくることに対して拒否反応が強いのではないか、と心配していたのである。

しかし、杞憂にすぎなかった。大きなカメラをぶらさげたカメラマンと同行しているにもかかわらず、嫌そうな表情を浮かべる子どもたちは一人もいない。はにかんだ表情で「こんにちは」と挨拶してくる子どもも少なくない。普通の学校の取材でも「子どもたちの顔は写さないでください」と教員たちはピリピリするものなのだが、ここでは「どうぞ。了解はとってありますから」と構えたところのない教員の返事が戻ってきた。

冒頭で、花まる学習会の会田が「明るい」と学校の様子を語ったが、まさに同じことを、わたしも感じた。

プレハブでも子どもたちの表情は明るい。温かみをだすためか、木材が使う工夫が。
プレハブでも子どもたちの表情は明るい。温かみをだすためか、木材が使う工夫が。

ただし、学校の状況は楽観できるものではない。3校ある小学校への今年度の新入生は、たったの2人だった。昨年度は5人だったので激減といえる。全体でも、3校合わせて今年度の在学者数は51人で、昨年度に比べて57人も減ってしまった。

原発事故による避難がなければ、飯舘村の3つの小学校には289人の在学者がいるはずだったという。それが51人になってしまっていることについて、3つの小学校のなかの一つ、飯樋小学校の亀田邦弘教頭は次のように語った。

「避難生活が6年を過ぎて、7年目にはいっています。そのあいだに避難先で仕事の基盤ができたり、避難先に家を新築したところも少なくありません。そうなると、避難指示が解除されても村に帰らない道を選択するしかありません。村に戻る学校には通えなくなるので、タイミングをみて転校することになります。6年という時間は重いんです」

「転校を決めても直前まで黙っていてくれ、という保護者は多い」と亀田教頭。
「転校を決めても直前まで黙っていてくれ、という保護者は多い」と亀田教頭。

さらには、放射線量が高いことへの不安もあるはずだ。幼稚園から中学校までが一カ所に集まる施設が予定されている場所は、「3回も除染作業をやった」(菅野典雄村長)というだけに0.25μSv/h(マイクロシーベルト/時間)ほどになっている。それでも政府が「除染基準」としている0.23μSv/hより若干ながら高い。

避難指示が解除された村のなかをクルマで走っていると、いたるところで放射線量を測るためのモニタリングポストを目にすることができるが、0.7μSv/hに近い数値を示しているところが、あちこちにあった。避難指示解除になったとはいえ、村には長泥地区のように放射線量が高くても除染作業が行われず、現在でも帰還困難区域として住民の帰還が許されていないところもある。

帰還困難区域である長泥地区に続く道は、鍵のかけられたゲートで閉ざされている。
帰還困難区域である長泥地区に続く道は、鍵のかけられたゲートで閉ざされている。

そうした村へ帰ることに躊躇する気持ちも保護者にはあるのではないだろうか。それが帰村しない、村の学校から我が子を転校させる理由にもなっているのではないだろうか。その疑問を、教頭の亀田にぶつけてみた。

「それは、あると思います」

返事に戸惑うのではないかと思ったのだが、それも杞憂にすぎなかった。何のためらいもなく、亀田は認めた。それから、次のようにも続けた。

「高い放射線への危惧は、学校に残っている子どもたちの保護者にもあります。避難指示解除になって社会見学など村での活動も増やしていますが、その際には事前に放射線量を測って保護者に伝えています。帰村後も、学校から外に出ての活動では、放射線量を確認し、保護者に伝えながらやっていく予定です」

生徒数が減少しているため、3つの小学校の同学年の子が同じ教室で学ぶ。
生徒数が減少しているため、3つの小学校の同学年の子が同じ教室で学ぶ。

学校も保護者も、けっして帰村を楽観視しているわけではない。そのなかで帰村を決めている保護者もいる。今回の取材でも、帰村を決めている保護者への取材をお願いしたのだが、実現しなかった。単純には語れない、複雑な思いを保護者も秘めているのだろう。

<「子どもの成長につながるなら」、高い教員の意識>

9月から本格的な取り組みが始まる小学校では、今年4月28日、花まる学習会側と学校側との初めての顔合わせがおこなわれた。そこには教育委員会の武藤賢一郎指導主事、教員代表の8人、花まる学習会からは公教育部から2人が参加した。

小学校の教員と花まる学習会の担当者の最初の顔合わせ。ぎこちなさが目立つ。
小学校の教員と花まる学習会の担当者の最初の顔合わせ。ぎこちなさが目立つ。

ぎこちない雰囲気に見えたのは、初めての顔合わせだったからかもしれない。花まる学習会の一方的な説明が進んだが、ようやく質疑応答の時間になると、教員から次々と手があがった。そのなかで、わたしの印象に残ったのが次の意見だった。

「この会議の前に花まる学習会の資料も見させてもらって、『新しいことはない』というのが最初の印象でした。花まる学習会は自己肯定感を重視されていますが、飯舘村でも『認める、ねぎらう、褒める』という重点目標を掲げて子どもたちの自己肯定感を育てることを大事にしている。理念では共通するので、教員としても花まる学習会のやり方を受け入れやすいと思います」

外部に頼りたくないという教員のプライドと、花まる学習会への期待の両方が感じられる意見だ、と思えたのだ。飯舘村に限らず、民間の学習塾がはいってくることについては学校側の反発は根強い。花まる学習会と学校による提携の成功例といわれる武雄市や北相木村でさえ、当初は抵抗が歴然とあった。その溝は、両者の努力で埋めていくしかないのだ。

空間認識力を遊び感覚で磨く、花まる学習会独自の教材「キューブキューブ」
空間認識力を遊び感覚で磨く、花まる学習会独自の教材「キューブキューブ」

「提携がうまくいくかどうか、やってみなければわかりません。しかし、子どもたちの成長につながるなら、民間とでもタッグを組むべきだと思います」と、亀田教頭も言った。

学校と花まる学習会の信頼感は、これから両者が築いていくものだ。
学校と花まる学習会の信頼感は、これから両者が築いていくものだ。

<働かなくても食べていける、と考える子にはしたくない>

事情は、中学でも同じである。「教育委員会が決めた方針ですからね。それには、まず『イエス(Yes)』しかない」と、飯舘中学の校長を務める和田節子は言った。そして、次のように続ける。

「どういうものかわからないので、まぁ、やってみようか、と。やってみて、ダメなら『バット(But)』をだしていくのが、私のやり方です。

先日は花まる学習会の企画で進学校の先生にきてもらって特別授業をしてもらったんですが、目から鱗が落ちるような新鮮な授業でした。そういう経験から生徒も教員もブラッシュアップしていけばいい。そのためには、民間だろうが何だろうが問いません」

「明るいでしょう」と生徒を自慢する和田校長は、さらに明るくてエネルギッシュ。
「明るいでしょう」と生徒を自慢する和田校長は、さらに明るくてエネルギッシュ。

熱く語りつづける和田は、「私は、子どもたちの自立に力をいれています。これは、花まる学習会の方針と共通することですよね」とも言った。花まる学習会は学習塾だが、点数だけでなく「メシの食える大人を育てる」という目標を掲げている。そのために、子どもたちの自己肯定感、自信、そして自立につながるようなプログラムに力をいれているのだ。和田が続ける。

「原発事故で村を離れて、職を失う人も大勢いました。そのまま仕事をしないでいる大人を、子どもたちは目にして育つことになります。そういく大人の姿を見ていて、『仕事をしなくても生きていける』と思ってしまうのはマズいじゃないですか。自分の能力を発揮できるのは、大人になれば仕事ですよね。自分の能力、良さを最大限に発揮する、自分の力でメシの食える大人に育てなければいけない。それが、教育の根幹だと思っています」

そのために飯舘中学では、総合的な学習の時間での「ふるさと学習」に力をいれてきている。高齢者に地域の昔話を聞いたり、避難指示解除になった今年度は飯舘村に足を運んで働く人たちに接して、復興にかける思いを聞いたりする学習を行っている。

飯舘村に戻って働く人に話を聞いた「ふるさと学習」での生徒の感想文
飯舘村に戻って働く人に話を聞いた「ふるさと学習」での生徒の感想文

それだけでは受け身でしかない。そこで和田は、「なんか別のかたちはやれないの」と子どもたちに問いかけてみた。子どもたちからは、昔話をベースにした絵をスクールバスにペイントするとか、仮設住宅に絵を描くといったアイデアが寄せられた。しかし、どれにも和田は納得できなかった。ただ一つだけ、「昔話をカレンダーにして売る」というアイデアには動かされるものがあった。「売る」という言葉に、主体性や自立性を感じたのだ。そして、出来上がったカレンダーを、これまで支援してくれた人に配るとともに、東京や福島駅にある福島県のアンテナショップで子どもたちが販売した。

「反応がすごくて、『来年もつくってくれ』とか『こういう話もあるよ』と、いろいろつながっていったんです。それに、子どもたちも手応えを感じたんじゃないでしょうか」

と、うれしそうに和田は語る。それからは、村歌をつなげてミュージカルにして世界に発信したいとか、今年の夏に完成が予定されている道の駅で特産物の販売をやりたいった提案が、生徒のほうから提案されてくるようになった。

「ふるさと学習」は、自立できる子どもを育てる飯舘村教育の柱である。
「ふるさと学習」は、自立できる子どもを育てる飯舘村教育の柱である。

「教員が提案を強制したわけではないのに、子どもたちが勝手に、自発的に提案してくるんですよ」といって和田は笑う。「そういう意欲を感じたとき、自分たちの教育は間違っていなかったと実感しました」と言う和田の顔には自信が表れていた。さらに、続ける。

「そういう手応えを経験し、外部と連携し、そして触発されることに、子どもたちは抵抗をもたなくなってきたようです。異文化、多種多様な他者と連携することで、おもしろいことができる、違う経験ができると感じているんじゃないでしょうか。

震災後に本校は、『今だから、飯舘中だからこそ、できること』というスローガンを掲げました。被災地だからこそ、支援などを通じて多くの方々と接する機会ができています。被災地だからこそ、それができた。それが新しい経験につながることを、子どもたちは学びました。被災地であることから逃げず、被災地であることと向かい合うことで、貴重な経験ができることを、子どもたちは実感しつつあるんだと思います。それが、自立する力にもつながっていくはずです」

中学校に掲げられたスローガン。
中学校に掲げられたスローガン。

同じことを、小学生も経験している。飯舘村の小学生や中学生、そして教員は、被災地であるという事実と向き合うことで、自己肯定感、自信、自立といったものを自分のものにしつつある。それが、飯舘村の学校を訪問して感じた「明るさ」につながっている。突然やってきた訪問者にも、臆することなく、明るく接することができるのだろう。

ほとんどの子がスクールバスで通う。バスに乗るため、元気に校舎から飛びだしてきた。
ほとんどの子がスクールバスで通う。バスに乗るため、元気に校舎から飛びだしてきた。

外部者である花まる学習会を受け入れようとしているのも、新しい経験、さらなる成長につながるという期待があるからなのかもしれない。提携がスタートしたといっても、まだ準備段階がスタートしたばかりで、どういう経験と成長が積み重ねられていくかは、これからの話である。

飯舘村の子どもたちが、さらに明るくなるために、花まる学習会との提携は大きな力になっていくに違いない。

<文中敬称略>

撮影・片野田斉

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています】