「罰」でしか教育を考えられない知事は知事の器にあらず
川勝知事の乱心は、どこまで続くのか。
全国学力テストで小学6年生の「国語A」の成績が全国最下位だった静岡県で、川勝平太知事が成績下位校100校の校長名を公表すると宣言して騒動になった。
成績について学校名を公表することを、全国学力テストを実施している文部科学省(文科省)は禁じている。学校はダメでも校長名ならいいだろう、というのが川勝知事の言い分だ。
詭弁である。校長名を明かせば学校名は簡単にわかり、学校名を公表するのと同じことだ。もちろん、川勝知事も承知のうえなのはまちがいない。
川勝知事が校長名(学校名)の公表にこだわるのは、成績が悪かったのは教職員の問題だから責任をとってもらう、というものだ。つまり、「罰」なのだ。
この川勝知事のやり方には、多くの批判が集まった。静岡県の教育長も校長名公表を控えるように知事に申し入れたが、知事は拒否した。
そして9月20日になって川勝知事が打ち出してきたのが、「上位校の校長名を公表する」という方針である。下位校の校長名公表がダメなら、上位校ならいいだろう、という理屈らしい。
あきれるしかない。上位校の校長名公表ということは、公表されなかった校長の学校は下位校である、と簡単にわかる。成績下位の学校名を公表したのとかわらない。川勝知事は、当初の目論見どおりの「罰」をあたえることに成功する、というわけだ。
ここまで「罰」をあたえることに執着する川勝知事の意図が、まったくわからない。気にくわない子を徹底していじめようとする、いじめっ子そのものとしかおもえない。
そもそも「罰」をあたえることに、何の正当性もない。「罰」をかざして、教職員に子どもたちの成績を上げさせようとしているのなら、それは教育とは馴染まない。
そういうやり方を知事が率先して示すということは、「罰」をかざして子どもたちに成績を上げさせる教育を奨励することになる。川勝知事は静岡県の学校で、「罰」がまかりとおる教育をやろうとしているとしかおもえない。
そんなやり方で全国学力テストの成績ランキングが上がったとしても、そこには何の意味もない。教育をねじ曲げることにしかならない。
「罰」でしか教育を考えられない川勝知事は、まったく教育というものを理解していないとしかいいようがない。そういう人物に知事というポストを握られている静岡県民の現実は、悲劇そのものだ。