高裁は袴田事件の歴史的な再審開始決定を覆すのか 注目される判断と改めて振り返るこれまでの経過

味噌工場(イメージ)(ペイレスイメージズ/アフロ)

 静岡県で一家4人が殺害、放火され、死刑判決が確定した袴田事件。静岡地裁の歴史的な再審開始決定を経て、いよいよ6月11日、高裁の判断が示される。再審の扉は開かれるのか。これまでの経過を振り返ってみたい。

【崩壊した「検察ストーリー」】

 1966年6月未明、当時の静岡県清水市にある味噌会社専務方が放火され、焼け跡から専務(当時41)、妻(同38)、次女(同17)及び長男(同14)がメッタ刺しにされた状態で発見された。

 事件当日は給料日だったため、専務方には多額の現金が置かれており、約20万円入りの集金袋1袋が行方不明となった。

 現場には焼け焦げた「くり小刀」の刃体と焼けずに落ちていた小刀用の鞘(さや)、黒色の雨合羽があった。

 そのため、内部事情に詳しい者がこの雨合羽を着て専務方に忍び込み、「くり小刀」を使って金目当てに犯行に及んだのではないかと考えられた。

 警察は、犯行現場向かいにある味噌工場内の寮で寝泊まりをしていた従業員のうち、元プロボクサーで、アリバイがなく、左手中指に真新しい切り傷があり、居室から微量の血液と油の付着したパジャマが発見された袴田巌氏(当時30、現在82)を犯人だと見立てた。

 1966年8月の逮捕後、袴田氏は事件への関与を全面的に否認していたが、1日平均12時間、最高16時間に及ぶ過酷な取調べの結果、勾留期限3日前である9月6日、警察の自白調書にサインするに至った。

 また、起訴当日の9日には検察の自白調書にサインし、起訴後に行われた取調べでも自白調書へのサインを維持し続けた。

 そうした中の13日には、差出人名の記載や切手の貼付がなく、紙幣18枚、合計5万700円と便せん1通が入れられた清水警察署あての封筒が清水郵便局で発見された。

 紙幣はいずれも左上と右下の番号部分だけが焼失していて出どころ不明であったが、千円札2枚には「イワオ」と、便せんには「ミソコウバノボクノカバンノナカニシラズニアッタツミトウナ」と手書きされていた上、百円札1枚には血痕が付着していた。

 警察は、筆跡鑑定の結果などから袴田氏の知人女性の文字であり、現金はこの女性が事件後に袴田氏から受け取っていたものの、怖くなって警察に送ろうとしたものだとした。

 女性からその旨の供述こそ得られなかったものの、紙幣などが発見される前に作成されていた袴田氏の自白調書の内容に沿ったものであり、真犯人しか知り得ない「秘密の暴露」に当たると評価できるからだ。

 こうした証拠を踏まえ、検察が描いた事件のストーリーは、袴田氏が真犯人であり、先ほどのパジャマを着て犯行に及んだものの、白色で目立つため、工場から現場に向かう際に黒い雨合羽を上に着ており、現場で脱いだ、というものだった。

 自白調書の内容も、このストーリーを前提としたものとなっていた。

 袴田氏は1966年11月の第1回公判から再び全面否認に転じ、検察による立証が粛々と続けられていたが、行き詰まりを見せる中の1967年8月、突如、工場の味噌貯蔵タンク内から南京袋に入れられた血染めのシャツやズボンなど衣類5点が発見されるに至った。

 しかも、血液型は被害者や袴田氏と同型のものだった。

 警察は、その12日後には袴田氏の実家から早々と布地の切れ端を発見、押収し、これを先ほどのズボンの一部、すなわち裾上げしたときに裁断された布切れだと見立てた。

 その結果、犯行時の着衣は自白調書に出てくるパジャマではなく、血染めのシャツやズボンだった可能性が高まった。

 ここにおいて検察のストーリーは崩壊し、自白の信用性や捜査の見立ても根底から揺らぐこととなった。

 それでも検察は“引き返す勇気”を持たず、犯行時の着衣をパジャマから先ほどの衣類5点に変更して大幅にストーリーを書き変え、それらの衣類が袴田氏のものであるという点に重きを置いた立証を続けた。

【裁判所が検察を救済】

 地裁は、自白調書45通のうち、起訴前に作成された警察の自白調書については長時間の取調べによるもので任意性がなく、かつ、被告人の立場となった起訴後の自白調書も任意の取調べによる結果とは言えないとして全て排除した。

 それでも、起訴当日に作成された検事による自白調書1通だけは任意になされた自白によるものと認め、証拠として採用した。

 その上で、先ほどのズボンは鑑定結果から袴田氏の実家で発見された切れ端と生地が同一であり、袴田氏の着衣に間違いないと断定し、衣類5点全てを袴田氏の犯行時の着衣と認め、1968年に死刑判決を言い渡した。

 そればかりか、微量の血液や油が付着したパジャマとの矛盾を解消するため、専務らを殺害した際は5点の衣類を着ていたものの、殺害後にいったん工場に戻って奪った現金を隠し、パジャマに着替え、工場から混合油を持ち出し、パジャマ姿で再び現場に戻って放火をしたといった、新たなストーリーを構築した。

 1969年から始まった控訴審では、袴田氏が先ほどのズボンを履くことができるか否かが3度にわたって実験されたが、いずれも小さすぎて履けなかった。

 しかし、東京高裁は、まず、そのズボンに付けられた寸法札の「B」という表記について、B体(肥満体用)を意味するものであると認定した。

 そして、小売店における販売時に当初のサイズから腰まわりを3センチほどつめ、その後は1年以上にわたって味噌貯蔵タンクに浸けられ、乾燥を経たことで一層縮んだもので、勾留後に袴田氏の体重が増えていることをも考慮すると、たとえ控訴審段階で履けなかったとしても、犯行時には十分に履けたはずだと認定した。

 先ほどの紙幣や便せんの筆跡を再鑑定したところ、袴田氏の知人女性のものであることを疑わせる結果が出たものの、なおも高裁は女性の関与を認定した。

 1980年に最高裁が上告を棄却し、袴田氏に対する死刑判決が確定するに至った。

【再審開始の決め手はDNA型鑑定と証拠開示】

 1981年に第一次再審請求が提起され、静岡地裁による請求棄却後の即時抗告審では東京高裁が衣類5点に対するDNA型鑑定の実施を決定したものの、当時の技術では鑑定不能とされた。

 そこで東京高裁も再審請求を棄却し、舞台は最高裁に移された。

 この過程で一審の死刑判決に関与した元裁判官が公の場に現れ、「実は無罪の心証を持ちながらも他の裁判官を説得し切れず、意に反して死刑判決を作った」などと告白した。

 こうした行動は評議の内容を公にしてはならないという守秘義務に反するもので、インパクトはあっても裁判所の受けは悪い上、単なる一裁判官の心証の問題にすぎず、無罪を導く新たな証拠ともいえなかった。

 結局、最高裁も2008年3月に弁護側の特別抗告を棄却し、最後まで再審という「開かずの扉」が開かれることはなかった。

 流れが大きく変わったのは、その年の4月から静岡地裁で始まった第二次の再審請求審だ。

 鑑定技術の進歩により、5点の衣類のDNA型鑑定が可能となった。

 その上、裁判員裁判開始を見すえて2005年の刑事訴訟法改正で検察に一定の証拠開示義務が課された結果、裁判所が検察に対して手持ち証拠の積極的な開示を促すケースも増え、この事件でも同様の対応がなされたからだ。

 この点、DNA型鑑定によると、死刑判決で袴田氏が専務と格闘した際に負傷出血したものと認定された半袖シャツ右肩部分の血液について、袴田氏のDNA型と一致しないとか、完全に一致するものはないといった結論が出されたほか、5点の衣類には袴田氏や被害者以外の血液が付着している可能性もあるとされた。

 また、検察が新たに開示した証拠は約600点にも上ったが、検察にとってマイナスに傾き、他方で袴田氏にとってプラスに傾く次のような重要な証拠の存在が明らかとなった。

● ズボンの「B」という表記はサイズではなく布地の色を示すもので、もともとY体(細身用)のズボンだから、袴田氏には履けないものだった。

● 衣類5点が発見された際、味噌貯蔵タンクには80キロほどしか味噌が入っておらず、高さにして2センチに満たなかった。真犯人が証拠を隠す場所としては、あまりにも不自然。

● 警察は問題のズボンと同じ生地サンプルをズボンの製造元から2度にわたって入手しているが、そのうち1枚が行方不明。

● 袴田氏は、事件直後、パジャマ姿のまま、味噌工場の関係者らと寮から現場まで駆け付け、消火活動に加わっており、この時に負傷した可能性がある。

 このほか、検察から新たに開示された衣類5点のカラー写真では、それらの衣類があまり味噌の色に染まっておらず、血痕も赤々とした鮮明なものだったが、弁護側の実験結果では、同様の衣類を1年超も味噌貯蔵タンクに浸けていると味噌の色に濃く染まり、血痕の赤みも失われてしまう、といった事実が明らかとなった。

 こうした証拠を踏まえ、静岡地裁は、2014年3月、再審の開始や袴田氏の即時釈放を決定するに至った。

 最重要証拠であった衣類5点について、袴田氏のものでも真犯人の着衣でもなく、袴田氏の実家から押収された布地の切れ端を含め、全て警察によって後日ねつ造されたものであるとの疑いを抱き、かつ、先ほどの紙幣や便せんも同様の疑いを抱いたからだった。

【即時抗告審の経過】

 袴田事件は検察内でも危ういと見られてきた事案であり、表向きは「予想外」と言いながらも、再審開始決定そのものは検察にとっても想定の範囲内だった。

 それでも、地裁が前例のない即時釈放を認めたばかりか、警察による重要証拠のねつ造にまで踏み込んで言及した点が不興を買い、検察の即時抗告によって舞台は東京高裁に移された。

 ところが、この即時抗告審の過程で、これまで検察が繰り返し「存在しない」と言い続けてきた重要証拠が実際には存在していたことが明らかとなった。

 血染めの衣類5点のネガだ。

 先ほど述べたとおり、静岡地裁がこの衣類を警察によるねつ造だと疑ったのは、DNA型鑑定の不一致に加え、当時撮影されたカラー写真における衣類の色合いなどを重視したからだ。

 そこで検察は、現像した写真の発色は実物と異なるといった主張をするため、現像前のネガが急きょ警察で発見されたと言い出し、その鑑定結果とともに証拠として提出した。

 しかし、1966年の事件発生後、長い裁判や再審請求審の中で「存在しない」とされてきた重要証拠のネガが、再審開始決定を受け、またたく間に警察で発見されるというのは、誰の目から見ても不自然極まりない。

 捜査や証拠の保管などを含め、組織的な対応が求められてきた特異重大事件だからだ。

 むしろ、警察が握ったまま「だんまり」を決め込んでいたのではないかとか、ほかにも隠された重要証拠が多数存在するのではないか、といった疑念が生じた。

 現に、その後、袴田氏に対する取調べを録音した約48時間に上るテープを倉庫に保管したまま、警察が表に出さず、ずっと隠してきた事実まで明らかとなった。

 そこには、自白調書に記載された自白に至る流れと矛盾する状況が記録されていたほか、尿意を訴える袴田氏をトイレに行かせず、なおも自白を迫り、果ては取調べ室に持ち込んだ便器に用便させるといった様子まで録音されていた。

 また、弁護側が録音テープに記録されたやり取りについて心理学の専門家に見解を求めたところ、袴田氏が刑事の強制や誘導に基づいて警察の意に沿った虚偽供述をしているといった分析結果まで出た。

 このほか、地裁の再審開始決定で特に重要視された弁護側のDNA型鑑定に対し、検察側から疑義が示され、鑑定手法に対する検証実験などに長い時間が費やされた。

 「鑑定手法としては不適切」という別の法医学者の意見書が提出されたり、長期間にわたって味噌に漬けられた衣類の血液からDNA型を取り出すのは困難だといった検察側の実験結果が示される一方、弁護側も逐一これらに反論した。

 こうした経過の末に、いよいよ高裁の判断が示される。

 これまで述べてきたところから明らかなとおり、確かにマスコミで大きく取り上げられているDNA型鑑定の問題も重要なテーマの一つだが、袴田事件の場合、それ以外に検察にとってマイナスに傾き、袴田氏にとってプラスに傾く証拠が現に数多く存在している。

 もしそれらの証拠が1968年の一審判決時に全て裁判所に示されていれば、死刑ではなく、無罪判決が下されていたことだろう。

 人が人を裁く難しさや、わずかな数の裁判官の判断によって人の生命が左右されるという刑事裁判の怖さを如実に示している袴田事件。

 「疑わしきは罰せず」という刑事司法の基本原則に立ち返ることができるのか、高裁の判断が注目される。(了)

(参考)

拙稿「再審請求事件の審理に市民参加の制度を導入しても、バラ色とは言い難い現実

1996年の検事任官後、約15年間の現職中、大阪・東京地検特捜部に合計約9年間在籍。ハンナン事件や福島県知事事件、朝鮮総聯ビル詐欺事件、防衛汚職事件、陸山会事件などで主要な被疑者の取調べを担当したほか、西村眞悟弁護士法違反事件、NOVA積立金横領事件、小室哲哉詐欺事件、厚労省虚偽証明書事件などで主任検事を務める。刑事司法に関する解説や主張を独自の視点で発信中。きき酒師、日本酒品質鑑定士でもある。

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15年間の現職中、特捜部に所属すること9年。重要供述を引き出す「割り屋」として数々の著名事件で関係者の取調べを担当し、捜査を取りまとめる主任検事を務めた。のみならず、逆に自ら取調べを受け、訴追され、服役し、証人として証言するといった特異な経験もした。証拠改ざん事件による電撃逮捕から5年。当時連日記載していた日誌に基づき、捜査や刑事裁判、拘置所や刑務所の裏の裏を独自の視点でリアルに示す。

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