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有罪獲得に向けて揺らぐ検察の主張と立証 栃木女児殺害事件の控訴審

前田恒彦元特捜部主任検事
東京高等裁判所(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

 2016年4月に一審の宇都宮地裁で無期懲役判決が下された全面否認の栃木女児殺害事件。2017年10月から東京高裁で始まった控訴審では、検察の主張や立証が揺らいでいる。

【犯行日時と場所】

 事件の最重要事項と言えるのが、いつ、どこで事件があったのか、すなわち犯行の日時と場所だ。

 ところが、検察側は、当初の主張を維持しつつも、これが認められなかった場合に備え、次のとおり、新たにより幅の広い主張を追加した。

 高裁から示唆があったからだ。

(1) 当初の主張

日時:2005年12月2日午前4時ころ

場所:(遺体発見現場に近い)茨城県常陸大宮市の林道

(2) 追加した主張

日時:(生前の被害者が最後に確認された時間を起点として)2005年12月1日午後2時38分ころから2日午前4時ころまでの間

場所:栃木県か茨城県内とその周辺

 (1)を裏付ける主たる証拠は、被告人の捜査段階における自白調書しかない。

 一審は、この証拠を重く見て、被告人の無罪主張を退け、(1)のとおり認定した。

 しかし、もし控訴審で(1)が認定されなかった場合、被告人が真犯人か否かにかかわりなく、必然的に無罪判決が導かれることとなる。

 審理の対象は、犯行の日時や場所を含め、立証責任を負う検察側が主張している事実に限定される、というのがわが国の刑事裁判の大原則だからだ。

 そうすると、憲法に「一事不再理(いちじふさいり)」と呼ばれる次のような規定があることから、たとえ後になって新たな証拠が発見されたとしても、二度と被告人を罪に問うことなどできなくなる。

「何人も…既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない」(39条)

 そこで、検察は、高裁からの働きかけを踏まえ、一審が認定した(1)の主張をなお維持しつつも、他方で“保険”をかけ、予備として(2)の主張を追加したというわけだ。

 3月29日、高裁もこうした主張の追加を許可した。

 なお、メディアの中には、このケースを「訴因の変更」と表現して報じるものもあるが、厳密に言うと(1)を撤回した上で(2)のみを新たに主張する場合が「訴因の変更」であり、(1)を維持しつつも(2)をも主張するということだと「(予備的)訴因の追加」ということになる。

 この手続は必ずしも一審に限られず、控訴審でも可能だというのが判例の立場だ。

【主張の追加が持つ意味】

 もちろん、一審で有罪となった事件について、検察が控訴審段階でその根本的な主張を新たに付け加えたり変えたりするのはまれだ。

 それでも、全くゼロというわけではない。

 また、検察がある程度の幅をもたせた犯行日時や場所を主張することも、全面否認のケースだとよく見られる。

 例えば、覚せい剤使用事件の場合、尿の鑑定結果といった客観証拠だけだと具体的な使用日時や場所が特定できない。

 そこで、容疑を否認し、犯行日時や場所に関する自白がない場合には、採尿日からさかのぼって10日くらいまでを使用期間とし、かつ、居住地の都道府県やその周辺を使用場所と特定して起訴している。

 しかし、今回のケースの場合、検察側にとって、やや危うい事態に至っていると見ることもできる。

 というのも、少なくとも高裁は一審のように(1)で犯行が行われたという心証には至っていないと見られるからだ。

 もし高裁が(1)で問題ないと考えているのであれば、わざわざ検察側に主張の追加を示唆するようなことなどしないはずだ。

【自白調書の問題】

 そもそも、この事件は、捜査段階の自白調書以外に決め手となる証拠がない。

 検察側は、禁断の「Nシステム」まで証拠として使わざるを得ないほどだった。

 有罪判決を導いた一審判決ですら、次のように明確に述べている。

「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明できない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれているとまではいえず、客観的事実のみから被告人の犯人性を認定することはできないというべきである」

 ところで、自白は、(a)任意になされたものか否か、(b)内容が信用できるものか否か、という2段階の問題をクリアする必要がある。

 検察側は、(a)について、一審で担当検事らの証言や被告人が母親にあてた謝罪の手紙、取調べの状況を録音録画した映像によって立証を図ろうとした。

 全ての取調べが録音録画されていたわけではないものの、やはり映像のもつインパクトは強く、その立証に成功した。

 しかし、問題は(b)だ。

 被害女児の遺体を解剖した医師や遺留品を鑑定した学者らは、裁判で次のような重要な証言をしている。

・自白調書によれば、被告人は被害女児と様々な形で接触したはずなのに、被告人のDNA型が遺体や遺留品のどこからも検出されていない

・遺体に付着した粘着テープから、被告人や被害女児、警察官、鑑定人のものではない第三者のDNA型が検出されている

・出血量など、遺体や現場の状況が自白調書の内容と矛盾する。

・遺体の傷は自白調書で述べられているスタンガンによるものではない可能性が高い。

・遺体に付着した獣毛は、被告人が飼っていた猫に由来しない可能性が高い。

・遺体には、自白調書に記載されているような性的暴行の痕跡がない。

 検察側証人である別の鑑定人や警察官らはこれに反論しているが、それでも第三者のDNA型が検出されているといった問題は、いまだ完全にはクリアされていない状況だ。

 検察側が主張の追加に及んだのは、捜査段階の自白のうち、少なくとも犯行日時と場所に関する部分については高裁から信用性に疑いを抱かれており、他の証拠で特定することもできないと考えたからにほかならない。

 そうすると、高裁は自白調書の他の記載部分についても信用性に疑いを抱いているかもしれない。

【逆転無罪の可能性?】

 次回6月8日の公判で結審する見込みだ。

 ただ、それでも、逆転無罪の可能性がやや高まった、としか言えないのがわが国の刑事裁判の状況だ。

 高裁が遺体や遺留物、様々な鑑定結果、自白調書の内容などと矛盾しないような形で新たな事件像を描くことも大いにあり得るからだ。

 裁判官3名のうち2名が有罪の心証を持てば、一審の有罪判決が維持される。

 もし高裁が完全に「シロ」だと考えているのであれば、被告人の勾留をすぐにでもストップし、拘置所から釈放させていることだろう。

 むしろ、高裁がわざわざ検察側に訴因の追加を働きかけていることからすると、検察側に不利となり、弁護側に有利となるような判断を下すとは考えにくい。

 弁護側から異議が出るそうした面倒な手続を経ずとも、端的に一審判決を破棄し、無罪判決を言い渡せば済む話だからだ。(了)

(参考)

拙稿「なぜ栃木女児殺害事件の裁判で「Nシステム」を証拠として使うことが異例中の異例の事態なのか

元特捜部主任検事

1996年の検事任官後、約15年間の現職中、大阪・東京地検特捜部に合計約9年間在籍。ハンナン事件や福島県知事事件、朝鮮総聯ビル詐欺事件、防衛汚職事件、陸山会事件などで主要な被疑者の取調べを担当したほか、西村眞悟弁護士法違反事件、NOVA積立金横領事件、小室哲哉詐欺事件、厚労省虚偽証明書事件などで主任検事を務める。刑事司法に関する解説や主張を独自の視点で発信中。

元特捜部主任検事の被疑者ノート

税込1,100円/月初月無料投稿頻度:月3回程度(不定期)

15年間の現職中、特捜部に所属すること9年。重要供述を引き出す「割り屋」として数々の著名事件で関係者の取調べを担当し、捜査を取りまとめる主任検事を務めた。のみならず、逆に自ら取調べを受け、訴追され、服役し、証人として証言するといった特異な経験もした。証拠改ざん事件による電撃逮捕から5年。当時連日記載していた日誌に基づき、捜査や刑事裁判、拘置所や刑務所の裏の裏を独自の視点でリアルに示す。

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