意外な無罪判決で検察に衝撃 ディオバン事件の経過と今後

(写真:ロイター/アフロ)

厚生労働省の刑事告発を受け、東京地検特捜部が旧薬事法の誇大広告罪で立件したディオバン事件。3月16日に下された東京地裁の無罪判決は、検察にとっても意外な結果だった。これまでの経過や今後の見通しについて触れてみたい。

【法規制の不備】

今回の事案は、2000年に製薬会社ノバルティスファーマ社が降圧剤ディオバンの販売に乗り出した後、2004年にかけ、京都府立医科大学や東京慈恵会医科大学などで行われた医師主導の臨床研究に関するものだ。

わが国でまだ医薬品として認められていない医薬品候補(治験薬)を被験者に投与し、その有効性や安全性などを検討する「治験」と呼ばれる臨床試験に関する事案ではない、という点に注意を要する。

すなわち、新薬承認後の臨床研究は、その副次効果などを明らかにし、処方薬の選択権を有する医師へのPR材料とすることを主な目的として、製薬会社が大学などに研究資金を提供して実施されるものが多い。

現にノバ社は、今回の臨床研究を始めた2002年以降、実施校である京都府立医科大学など5大学に対して総額11億円余りの奨学寄付金を提供しており、中でも府立医大は最多の3億8170万円に上った。

そうしたところ、今回の臨床研究の結果をまとめた府立医大や慈恵医大の論文では、ディオバンは他の降圧剤よりも脳卒中や狭心症を予防する効果があるとされた。

そこでノバ社は、ディオバンが同業他社の降圧剤よりも優れている根拠としてこれらの論文の結果を用い、雑誌やパンフレットなどで広告宣伝を行った。

ディオバンの売上高は年間1千億円を超え、同社の国内売上高の約3分の1を占めるドル箱の主力商品となったが、2013年に府立医大などの内部調査でデータの改ざんが次々と明るみに出た。

そればかりか、ノバ社の男性社員(問題発覚後の2013年5月に退職)が大阪市立大学非常勤講師の肩書でデータ解析などに関与していたといった利益相反の事実まで発覚した。

この点、新薬承認前の「治験」は薬事法(2014年11月改正で名称を「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」に変更)に基づいて実施が義務づけられており、こうした法令で何重もの厳しい規制が施されていた。

他方、今回のような新薬承認後の臨床研究は、薬事法の規制対象外であり、追試のためのデータ保存なども求められておらず、厚労省のチェックすら行われていなかった。

今回の事案は、まさしくこうした法規制の不備を突いたものにほかならなかった。

【厚労省の刑事告発】

その後、厚労省は、ノバ社などから資料を入手し、関係者から聞き取り調査を行ったが、強制権限がない中、データ改ざんへの関与を全面的に否認され、完全に手詰まりとなった。

しかし、マスコミで大きく問題視されているばかりか、官邸も強い関心を寄せており、そのまま放置するわけにもいかなかった。

そこで厚労省は、薬事法の次のような規定に目をつけ、異例の措置としてこれを使うこととした。

「何人も、医薬品…の名称、製造方法、効能、効果又は性能に関して、明示的であると暗示的であるとを問わず、虚偽又は誇大な記事を広告し、記述し、又は流布してはならない」(66条1項)

違反に対する罰則もあり、法人の従業員らがその業務に関して誇大広告に及べば、法人にも罰金を科すことが可能だ。

もっとも、データ解析などに関与していた先ほどの元社員を含め、ノバ社関係者は全面否認のままであり、「誰が誇大広告の実行行為者なのか」といった事案の核心部分ですら、全く特定することができなかった。

そこで、「氏名不詳の行為者」を法人である同社とともに刑事告発するという形で検察に問題を丸投げし、その後始末を委ねるに至った。

【国策捜査の様相】

2014年2月、東京地検特捜部は、ノバ社や府立医大など関係先の捜索に着手した。

早速、官房長官が会見で「さまざまな施策の前提となる臨床研究結果の信頼性を揺るがすゆゆしき問題。事実関係をうやむやにせず、実態解明に向けて徹底調査が必要。その結果に応じて厳正な対処をすべきだ」と述べるなど、官邸の関心度の高さを示した。

その後、特捜部は年度をまたいで押収品の分析や関係者の取調べを進め、2014年6月、先ほどの元社員を逮捕した。

そもそも、今回の事案における問題点の本質は、法規制の網をかいくぐった臨床研究の杜撰さに加え、「医療と製薬業界との癒着」にあった。

捜索や証拠物の検討、関係者の供述などにより、表に現れにくい汚職を新たに掘り起こすことを本分とする特捜検事にとって、医療と製薬業界との間の贈収賄事件こそ、最大の関心事と言えた。

ただ、ノバ社は臨床研究の実施校に総額11億円余りの奨学寄付金を提供しているものの、教授ら個人に対するものではなく、大学あてのものだったから、賄賂性が認められなかった。

また、私立大学であれば、担当教授らは公務員に当たらず、贈収賄罪の適用はない。

そこで、国公立大学、中でもその論文が誇大広告に利用されている府立医大に重点を置き、ノバ社関係者の同大学関係者に対する資金提供や接待などを掘り起こし、問題の本質に踏み込んだ徹底捜査によって、事案の全容解明がなされることが期待された。

逮捕された元社員が事件のカギを握るキーマンにほかならず、特捜部がこの元社員を落とせるか否かがポイントだった。

【使い勝手が悪い誇大広告罪】

しかし、元社員は、逮捕容疑の前提となるデータ改ざんへの関与そのものを一貫して全面的に否認し、取調べでも黙秘を貫いたため、話が全く前に進まなかった。

そればかりか、そもそも誇大広告罪の適用そのものが、簡単そうに見えてなかなか難しいものだった。

というのも、誇大広告罪が対象としているのは、あくまで医薬品の効能などに関して誇大広告に及んだという行為そのものであり、前提となるデータ改ざん行為ではなかったからだ。

その意味で、データの解析に関与していた元社員が改ざんに関わっていたとしても、社内で一連の広告業務を担当していない以上、ノバ社ともども罪に問うことができなかった。

また、広告業務担当者を特定できたとしても、誇大広告罪は故意犯だから、自社の社員が臨床研究に関与していると知っているだけでは足らず、データが改ざんされていることまで認識していなければ、これまたノバ社ともども罪に問うことができなかった。

元社員と広告業務担当者とを統括する立場にあった上位の幹部や役員についても同様だった。

結局、特捜部は、“苦肉の策”として、逮捕された元社員の改ざんデータが直接使われた医師による論文作成と学術雑誌への掲載に焦点を当て、これであれば元社員の関与も固いと見て、医師を利用した誇大広告に該当すると判断し、元社員とノバ社を薬事法違反で起訴するに至った。

【「広告」とは何か】

公判では、元社員もノバ社も起訴事実を全面的に否認し、元社員がデータ改ざんに関与していたのか否かが最大の争点となった。

元社員側の主張は、多額の奨学寄付金を目論む医師らがノバ社に有利なように自らデータ改ざんに及んだ、などというものだった。

そのため、一連の臨床研究に関与した医師らが次々と証人出廷し、お互いに責任をなすりつけ合う泥仕合の様相を呈した。

ただ、データ改ざんの実行行為者が誰かという問題以外にも、若干の懸念材料は残されていた。

1998年に旧厚生省の医薬安全局が出した監視指導課長通知によれば、薬事法に規定されている「広告」とは、次の要件を充たす必要があったからだ。

(1) 顧客を誘引する(顧客の購入意欲を昂進させる)意図が明確であること

(2) 特定医薬品等の商品名が明らかにされていること

(3) 一般人が認知できる状態であること

【データ改ざんへの関与は認定、しかし】

とは言え、論文を読んでディオバンを処方する医師も出てくるわけだから、学術雑誌への論文掲載は「顧客を誘引」するものにほかならず、データ改ざんへの元社員の関与さえ認められれば、誇大広告罪で有罪になるはずだ、というのが検察の見立てだった。

そのため、検察の立証は特にその点に重点が置かれており、実際に立証は成功していた。

悪質な事案ではあるものの、元社員は組織の歯車であり、データ改ざんも会社の利益のためにすぎず、執行猶予が付いて終わるだろう、という楽観視した見方もあった。

しかし、3月16日、東京地裁は、元社員とノバ社に無罪判決を言い渡した。

それも、元社員のデータ改ざんへの関与を認定した上でのものだった。

すなわち、旧薬事法の誇大広告罪について、そもそも医薬品の購入意欲を高めるような行為を規制しようとしたものにほかならず、医師向けの学術雑誌への論文掲載は、一般読者の購入意欲を呼び起こすような「広告」には当たらないと判断した。

誇大広告罪は広告主が広告料を負担して掲載するような雑誌やパンフレットを使った一般の広告を前提としているもので、掲載料を必要とせず、第三者による事前審査を経て掲載される学術論文の投稿については、その規制の対象外だ、というわけだ。

しかもこの判断は、たとえノバ社側が販売促進の際にそうした論文を使おうと意図しており、臨床研究に関与した医師らに寄付金が提供され、元社員がデータ改ざんに関与していたとしても、何ら変わりがないとした。

この点、医薬品の誇大広告によって深刻な薬害が発生し、国民の生命身体が脅かされるおそれを考慮すると、むしろ誇大広告罪の「広告」を広く解釈し、規制の網を広げておくべきだ、という考え方もありうるだろう。

もともと旧薬事法の目的は、次のようなものだからだ。

「この法律は、医薬品…の品質、有効性及び安全性の確保のために必要な規制を行うとともに…医療上特にその必要性が高い医薬品…の研究開発の促進のために必要な措置を講ずることにより、保健衛生の向上を図ることを目的とする」(1条)

しかし、東京地裁は、逆に「広告」の意義を狭く捉えたわけで、規制の網の目を上手くすり抜けたのが、まさしく今回の事案だったというわけだ。

【予想される今後】

元社員の関与が完全に否定された上での無罪判決であれば、検察としてもその結果を受け止めることができただろう。

しかし、最大の争点について検察の主張どおり認定された上で、無罪が言い渡されており、完全に肩透かしを食らった形となった。

判決に対する東京地検次席検事の公式コメントは「主張が認められず遺憾。判決内容を検討し適切に対処する」といった定型のパターンだったが、次のような報道も見受けられる。

「検察内では『不可思議としか言いようがない』『地検、高検、最高検の誰もが驚いている』と戸惑う声が相次いだ」

「『データが意図的に改竄されていても、学術論文の形態を取っていれば、それで良いというのか』。検察幹部の一人はこう憤る」

出典:産経新聞

漏れ聞く限り、確かに検察幹部らの本音はこうしたものの模様だ。

問題が発覚した2012年から13年の過熱報道からもうかがえる事案の重大性や、ノバ社が得た利益の莫大さを考慮すると、検察としてもこのまま放置しておくわけにはいかないだろう。

奇しくも無罪判決翌日の3月17日、衆議院厚生労働委員会で臨床研究法案が可決され、今国会中に成立する見込みとなった。

ディオバン事件を受け、政府が昨年の国会に提出し、継続審議となっていたもので、製薬会社に医師側への資金提供に関する情報公開や第三者によるデータ監視を義務付けることなどにより、臨床研究の不正を防ごうというものだ。

それでも、旧薬事法を引き継いだ医薬品医療機器法における誇大広告罪の規定内容は、旧薬事法当時と全く変わりがない。

今回の判決は、製薬会社に規制の「抜け道」を与えたに等しい。

薬事行政の所管庁である厚労省の告発を端緒としている上、東京地検特捜部が一種の国策捜査として強制捜査や起訴に至った事案であることからすると、検察による控訴が見込まれる。

翻ってみると、問題点の本質である「医療と製薬業界との癒着」にメスを入れられなかった時点で、検察の捜査は失敗だったと言える。

ただ、少なくとも裁判所が元社員のデータ改ざんを認定しており、虚偽広告罪の「広告」に当たるか否かという法律解釈で無罪を導いたにすぎないことや、先ほど挙げた旧薬事法の目的をも考慮すると、控訴によって東京高裁の判断を仰ぐに値する事件と言えるのではなかろうか。(了)

(3月29日追記)

3月16日の無罪判決後、東京地検は控訴の要否を検討・審議し、高検や最高検の指揮も仰いでいたが、積極意見が大勢を占めた結果、期限前日である29日に控訴した。控訴審では、高裁が「広告」の定義についてどのような解釈を示すのか、注目される。

1996年の検事任官後、約15年間の現職中、大阪・東京地検特捜部に合計約9年間在籍。ハンナン事件や福島県知事事件、朝鮮総聯ビル詐欺事件、防衛汚職事件、陸山会事件などで主要な被疑者の取調べを担当したほか、西村眞悟弁護士法違反事件、NOVA積立金横領事件、小室哲哉詐欺事件、厚労省虚偽証明書事件などで主任検事を務める。刑事司法に関する解説や主張を独自の視点で発信。唎酒師、日本酒品質鑑定士でもある。

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15年間の現職中、特捜部に所属すること9年。重要供述を引き出す「割り屋」として数々の著名事件で関係者の取調べを担当し、捜査を取りまとめる主任検事を務めた。のみならず、逆に自ら取調べを受け、訴追され、服役し、証人として証言するといった特異な経験もした。証拠改ざん事件による電撃逮捕から5年。当時連日記載していた日誌に基づき、捜査や刑事裁判、拘置所や刑務所の裏の裏を独自の視点でリアルに示す。