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元祖「二世タレント」長嶋一茂の知られざる苦闘の日々

ラリー遠田作家・お笑い評論家

昨今のテレビ界は空前の「二世タレントブーム」を迎えている。ドラマでもバラエティでも、数え切れないほどの二世タレントが次々に出てくる。ひな壇形式のトークバラエティでは、どんな回にも最低1人は二世タレントが出演しているし、「二世タレント特集」のような企画も頻繁に行われている。

何の引っ掛かりもない新人タレントよりも、有名人の子供の方が初めて見る人にも興味を持ってもらいやすい。また、親である有名人の家庭での素顔について話したり、金持ちの家に育った人間ならではのセレブエピソードを語ることもできる。二世タレントは、テレビ制作者にとって使い勝手のいい「安全牌」なのだ。

長嶋一茂は「二世タレント」の元祖

そんな二世タレントブームが訪れるずっと前から、堂々と二世タレントの王道を突き進んできたのが長嶋一茂だ。言わずと知れた長嶋茂雄の息子である。彼はプロ野球を引退した後、タレントに転身。いかにもお坊ちゃん育ちの二世タレントらしい浮世離れした言動の数々で視聴者を楽しませてきた。現在も『ザワつく!金曜日』『羽鳥慎一モーニングショー』など数々の番組に出演している。

だが、彼の著書『三流』を読むと、その明るくコミカルなイメージとは裏腹に、これまでの人生は苦悩に満ちたものだったことがわかる。

小学生の頃からマスコミに追い回される

1966年、一茂は東京都大田区に生まれた。もともと同世代の子供の中でも飛び抜けて体が大きかった上に、小学生時代には並外れた大食いを続けていたため、体つきはどんどん立派になっていった。少年時代は四六時中、体を動かして遊んでいた。友達とかけっこをしたり、さまざまなスポーツに打ち込んだりした。小4の頃、地元のリトルリーグのチームに入り、野球を始めた。

しかし、ここで初めて彼は「二世」ならではの洗礼を受けた。練習所に向かうと、そこには大勢のマスコミが詰めかけていたのだ。父の茂雄が現役を引退して日本中を騒がせたのはその前年のことだった。マスコミは茂雄の才能を継ぐ者として、まだ小学生だった一茂の一挙手一投足に注目していた。

野球の練習が終わり、友達同士で楽しく話していると、そこにカメラを構えた記者たちが近寄ってくる。それに気付くと、友人たちは一茂のもとからスッと離れていってしまう。思春期の彼にとって、それは途方もなく悲しいことだった。1年ほど経って、そんな生活にうんざりして野球をやめてしまった。

父の監督解任でリベンジを誓う

中3のときに彼の人生を変える事件が起こった。当時、巨人の監督を務めていた長嶋茂雄が成績不振で辞任してしまったのだ。公式発表では「辞任」ということになっていたが、球団側の意向で一方的に解任されたことは誰の目にも明らかだった。

自分を「長嶋茂雄の一番のファン」だと考えていた一茂は、球団の父に対するぞんざいな扱いが許せなかった。あまりにも横暴で理不尽だと感じられたのだ。この怒りが一茂を突き動かした。

「プロ野球選手になって、親父の敵討ちをしよう」

一茂の頭には「復讐」の文字が浮かんでいた。「復讐」を英語の辞書で引くと「リベンジ」と書かれていた。彼は鉛筆、筆箱、カバンなど、身のまわりのすべてのものに「リベンジ」という文字を記した。それだけではなく、部屋の窓枠や廊下の壁にもカッターナイフで文字を刻んだ。

父親を超えるほどの世界一の野球選手になって、巨人にスカウトされて入団して、キャリアの絶頂で自ら引退を宣言してやろう。彼はそんな壮大な復讐の夢を描いていた。

猛練習でレギュラーの座をつかむ

プロになると決意して、高校から再び野球を始めた。しかし、当初は思ったような活躍はできなかった。何しろ中学では一切野球をやっていなかったため、実力が不足していたのだ。

それでも、圧倒的な身体能力と猛練習によって、彼はレギュラーの座をつかんだ。高3のときには甲子園まであと少しというところまで来ていたが、県予選の準決勝で敗れてその夢は潰えてしまった。

父と同じ立教大学に進んだ彼は、そこでも野球を続けた。プロになることしか考えていなかった彼は、大学の野球部でも自分のペースを貫いた。「練習中には水を飲むな」という暗黙のルールに逆らい、こっそり水を飲んだ。野球と関係のないグラウンド整備などの雑用は徹底的にサボりまくった。先輩から尻をバットで叩かれたときには、自ら尻を突き出してバットをへし折ってしまった。

一方で、昼間にどんなに激しく練習した後でも、夜中には自主的にトレーニングを続けていた。当時、監督業から離れていた父に指導されて、自宅にある秘密の地下室でティーバッティングの練習を繰り返したこともあった。一茂の目には「プロで活躍する」という大きな目標しか見えていなかった。

プロの世界で挫折を味わう

大学卒業後、1988年に一茂はドラフト1位でヤクルトスワローズに入団した。プロ入り初ヒットはバックスクリーン直撃の大ホームラン。しかし、一茂本人は全く手応えを感じていなかった。そのホームランはまぐれ当たりでしかないということが自分にはわかっていたからだ。本人の実感の通り、一茂はプロのレベルについていけず、ヤクルト時代には満足のいく成績を残せなかった。

1993年には父が監督を務める巨人に移籍した。シーズン前半は好調だったが、肘の痛みがひどくなり、9月には手術を行った。その後も肘の状態が快復せず、成績は低迷した。1996年には父親から戦力外通告を受け、引退を余儀なくされた。

明石家さんまに救われる

プロ野球選手として活躍するという夢を失った一茂は、極度のストレスから自律神経失調症に悩まされるようになった。たびたび過呼吸に陥り、飛行機に乗るたびにパニック障害を発症していた。

そんな出口の見えない日々の中で、助け船を出してくれたのが明石家さんまだった。現役時代に一緒にゴルフをしたとき、さんまは「野球やめたら、俺がやってる番組全部来いや」と言ってくれた。その言葉通り、さんまの番組から次々にオファーが舞い込み、一茂はタレント活動を始めた。その後、俳優業、スポーツキャスター、映画監督など、一茂は芸能界でどんどん仕事の幅を広げていった。

今でも「真面目なのにどこか隙がある憎めないタレント」として、並ぶ者のいない地位を築いている一茂。偉大なる父に憧れ、大きな挫折を経験し、苦労に苦労を重ねながら芸能界で第二の人生を着実に歩んでいる彼は、世間が思っているほどのん気な「バカ息子」ではない。

作家・お笑い評論家

テレビ番組制作会社勤務を経て作家・お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など、多岐にわたる活動を行っている。主な著書に『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと『めちゃイケ』の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『逆襲する山里亮太』(双葉社)、『なぜ、とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか?』(コア新書)、『この芸人を見よ! 1・2』(サイゾー)、『M-1戦国史』(メディアファクトリー新書)がある。マンガ『イロモンガール』(白泉社)では原作を担当した。

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