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横浜生まれ、横浜育ちの長谷川耕造さんは、子供のころから海を眺めては、遠い世界に思いをはせていたそうです。「いつか大きくなったら必ず外国を見てやろう」と思い、中学に入ってからは英語の勉強にも励みました。日本ペンフレンド協会を通じて、イギリス人とスウェーデン人のペンパルと文通もしていたと言います。大学生になった彼がいよいよ北欧に旅立ったとき、ドラマのような運命的な出会いが待っていました。

<ポイント>

・グローバルダイニングの店づくりの感性は、湘南高校時代に築かれた

・運命的な出会い、そして19歳と21歳で駆け落ち

・時給500円のバイトで、半年で100万円ためる

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■親友からカルチャーを教わった高校時代

倉重:湘南高校に入学して、仲間からカルチャーを教えてもらったことが、今のグローバルダイニングの店づくりにも影響しているのですよね。

長谷川:それはすごくあります。基本的に周囲の連中が全員秀才で、その中に入ったら、やはりレベルが違いました。記憶力や切り替えのスピードが全然違います。「世の中はこれだけ能力に差がある人がいるんだ」と感じて、彼らから教わることを吸収しようと思いました。

最初のクラスで偶然いっしょになった二人の男と友達になったんですけど、その一人が鹿島茂です。エッセイストでも有名で、僕の『タフ&クール』を書いてくれて今も印税を分け合っています。映画と文学についてはハンパじゃない知識を持っていました。

もう一人の学友は大野真二です。彼は芸術肌でジャズが大好きでした。彼らからジャズと映画、読書を教わって、すごく勉強になりました。一生分のいろいろな栄養素を高校時代の強制収容時代で学んだかなと思います。

倉重:グローバルダイニングのお店に行ってもジャズが流れていたり、調度品がすてきだったりします。この頃の影響を受けているかもしれないですね。

長谷川:それはあると思います。グローバルダイニングの店づくりに表現されている僕自身の感性の基礎は、この湘南高校時代に築かれたものです。特に映画なんて、映像でお客さまを獲得するわけです。高校に入ると世界中のいい映画、やはりヨーロッパが中心でしたが、フェリーニの『8 1/2』や、『La dolce vita』『甘い生活』などを見ました。バックグラウンドの建物やインテリアなども、登場人物が常に目立つようにしてあり、大変勉強になりました。

倉重:お店のインテリアや雰囲気づくりには、このとき養われたセンスが役立っているのですね。高校時代の成績はどうでしたか?

長谷川:湘南でも勉強はしたのですが、レベルが違いました。僕は高校に入って2年遊んで、3年から受験勉強を始めたのです。いい学校で、「勉強をしろ」という先生は1人もいませんでした。勉強しない人間はそのまま見捨てていましたけれども。

倉重:自由放任なのですよね。

長谷川:本当にできる子は授業に出なくても、自習で3年まで勉強が終わっているというという感じでした。

倉重:本にもありましたけれども、当然のように東大を目指したのですよね。

長谷川:東大一本でした。なぜなら一番難しい大学が東大だからです。大学そのものには価値を感じていませんででした。「滑り止めは受けないのか」と聞かれても「いや、俺は東大しか行かないですから」と言っていたのです。結果は言うまでもなく、浪人をすることになりました。

倉重:浪人生活では1日13時間も勉強したと。

長谷川:13時間半でした。東大に行った学友の鹿島から電話がかかってきて、「頑張っているか?」と聞かれたのです。「やっているよ、13時間半」と言ったら、「じゃあ駄目だな、俺は15時間半やってた」と言うんです。

倉重:1日5時間しか寝ないでやっていたと。

長谷川:4時間か5時間です。5時間だったらすごく寝たほうです。この人は全然勉強しているふりはしていないのです。嫌なやつですよね。こちらが浪人しているときにそれを言うんですから。僕は頭の切り替えがうまくできないタイプです。毎日3科目勉強する計画をたてましたが、苦手な数学のノルマが終わらず、1科目で一晩が終わるようなことがありました。するとフラストレーションがたまって、ベニヤの壁にどこどこと穴を開けました。

倉重:壁パンチをしまくっていたのですね。私の友人でもそういう受験生がいました。

長谷川:本当にフラストレーションの塊でした。ところが、毎日必死の思いで勉強したにも関わらず、大学闘争で東大の入学試験そのものがなくなってしまったのです。国立は一橋大学入試に切り替えましたが、それもあっさり落ちてしまいました。

倉重:それで結局早稲田に入られるわけですね。

長谷川:早稲田で政経学部に受からないと「東大を受けたのはうそだろう」と言われてしまいます。早稲田の政経学部の受験科目は英語と国語、数学か社会科のどちらかを選択します。早稲田では数学を選択する受験者が少ないので、問題が比較的ラクだと言われていました。実際、過去の数学の試験問題では全部満点が取れたのです。しかし、僕が受験した年は、東大がないから問題水準を上げたのか、4問90分のうち、1問だけ解けなかったのです。

倉重:難しい問題が出てきたんですね。実は私も、早稲田の政経学部を数学受験して、数学が出来ずに落ちた経験があります。

長谷川:難しくて全然解けなかったです。私立の慶應や早稲田の合格点は、たぶん95点前後です。75点だったら、絶対に落ちます。「落ちる、落ちる」の90分はつらかったですね。いまだかつて、あんなにつらい思いをしたことはないです。でも、そこから逃げたらまたどつぼにはまると思いました。そんな中、ようやくひっかかったのが早稲田の商学部でした。

倉重:ビジネスを始めてからも、この浪人時代の苦しさを思い出すと書いてありました。

長谷川:ビジネスを始めてから、仕事面でつらいと思ったことはありません。なぜなら好きなことをしているからです。大嫌いなことに集中して努力した浪人のときの1年間は、僕のかけがえのない財産です。

倉重:大学に入学されて、そこに価値を見いだしましたか?

長谷川:理想は、東大に入って入学式の後に退学届を出すことでした。僕は勉強する気もないし、就職する気もなかったので。

倉重:サラリーマンになろうという発想も全くなかったんですね。

長谷川:サラリーマンになりたくないし、実家の家業も継ぎたくなかったです。

倉重:では、どうしようと思っていたのですか。

長谷川:僕の目標は世界を見ることです。早稲田に入ってみたらあまりにも楽しいので、ちょっと遊ばせてもらって2年間はいました。バイトとボクシング部にあけくれていたんです。当時は学生運動の紛争がすごかったので、授業は時々あるぐらいでした。

■世界一美人の集まる都市へ

倉重:そこから2年ぐらいたって、ヨーロッパに行ったのですよね。

長谷川:金をためて、片道切符で700ドルを持ってヨーロッパに行きました。実は僕らの世代で、初めて一般の若者がパスポートを取れるようになったのです。その頃はまだ1ドル360円で高かったんです。

倉重:就労ビザではないですよね。

長谷川:観光ビザで行きました。でも、仕事をしようと思って行ってしまっているので、確信犯です。割とおおらかな時代でしたが、向こうで捕まって強制送還される人もいました。どうやって仕事を探すかというと簡単で、レストランに行って「仕事をしたい、一生懸命働く」と言うのです。僕は最初からスウェーデンが目的地でした。

倉重:何でスウェーデンを目指していたのですか?

長谷川:経済が強いので給料が一番高いのです。それと世界で一番美人が揃っていて、フリーセックスの国でした。あまりにもリベラルな国だと、男女の違いがありません。1971年の5月にスウェーデンに着いて、国立の公園に行くと、女性がみんなトップレスでひなたぼっこしていたんです。どこを見ていいのか分かりませんでした。

倉重:そこでナンパした人が最初の奥さんでしたっけ。

長谷川:それはストックホルムではありません。一夏仕事してお金を貯めて、旅に出たのです。もう冬でした。「スカンジナビアを北に行こう」ということで北にどんどん上がって、数日でフィンランドに入りました。最初の国境にある町はあまりに小さ過ぎてつまらなくて、ヘルシンキから北に700キロ行ったところにあるオウルという町に行きました。そのオウルで会ったのが最初の女房です。

倉重:本に写真が出ていましたが、モデルさんのようにキレイな方ですね。

長谷川:そうでしょ? 僕は昔、横浜駅西口で女性に声を掛けてナンパしていました。女性を喫茶店に誘ってコーヒーを飲むことをナンパと言っていたのです。ところがスウェーデンに行くと、握手と近い感じ、もしくはハグぐらいの感じでセックスができてしまいます。でも、最初の女房は恋に落ちて2週間たっても、最後の一線を超えるのを拒み続けました。最後の晩はもう、泣きの涙です。だけどやらせてくれない。理由を聞いたら、「あなたの荷物はこれだけでしょう。ここで寝てしまったら、あなたは絶対戻ってこない」と言われました。

倉重:パックパッカーですから。

長谷川:バックパックもありませんでした。荷物のメインはスウェーデンのストックホルムに置いてあったので。彼女は泣きながら「私は深みにはまりたくない。私を抱きたかったら、もう一度この街に戻ってきて」と言ったのです。後ろ髪を引かれましたが、まだ回りたいところはありました。スウェーデンとイギリスにいるペンフレンドにも「会いに行く」と言っているので、行かないわけにはいきません。再びヒッチハイクでストックホルムに戻り、イギリスまで行きました。

倉重:結構時間がかかりますよね。

長谷川:ヒッチハイクでイギリスに向かおうとしているときに、イギリス人の二人組みがデンマークで拾ってくれました。彼らと一緒じゃなかったら、長髪のバックパッカーの僕は、切符も持っていないのでイギリスに入れなかったと思います。ケンブリッジに着くと、彼らは大きなフラットを持っている友人を紹介してくれて、そこを拠点にいろいろなところを旅しました。

ケンブリッジからニューカッスルまでがイギリスですけれども、エディンバラ、スコットランドまで行って1回戻ってきました。ロンドンから西のオックスフォードに行って、オックスフォードからバースというローマン風呂があるところから、ブリストルや、ランズ・エンドという一番岬の西端まで行ったのです。全部ヒッチハイクで2カ月間旅して回った後、クリスマス直前にケンブリッジに戻りました。

倉重:いよいよオウルに向かうのでしょうか?

長谷川:ガトウィック第二空港から安いプロペラ機でヘルシンキに着いたのが、1971年12月23日です。地下街に1泊して、朝の一番で「この時間に着くから」と電報を打ったのです。着いたのはクリスマスイブです。4時頃に着いたら、真っ暗闇の中に雪原や線路だけがありました。その向こうに吹きさらしのホームがあって、彼女が待っていたのです。

倉重:これは完全に映画のワンシーンですよ。電報一本で来てくれるのですね。

長谷川:もしもいなかったら、次の電車で戻る覚悟までしていました。

倉重:3カ月前にちょっと会って口説いたけれども駄目で、戻ってきてどうなるかなんて分からないじゃないですか。

長谷川:すごいリスクでしょう。でも、リスクを取る覚悟はありました。

倉重:会ってくれたのですね。そこでようやく結ばれるわけですね。

長谷川:その足で駅から一番近いホテルに行って、一晩中愛し合いました。北欧はサンタクロースの故郷です。彼らにとって大切なクリスマスイブに外泊させてしまったので、翌日一緒に彼女の実家に行きました。お父さんはスティーブ・マックイーンそっくりのいい男でしたが、すごく怖い顔をして口も利いてくれませんでした。

倉重:「何だ、この東洋人は」と思っていたのでしょうね。

長谷川:お母さんが説明したんだろうけれども、黙り込んでしまって、身の置き所がありませんでした。このころになると、僕の所持金は尽きかけていたんです。閉まっているユースホステルにお願いして泊めてもらったり、なけなしの金で普通のホテルに2泊ぐらいしたりしていましたが、いよいよ限界がきました。ストックホルムに戻ったらすぐに仕事が見つけられるので、彼女と荷物をまとめて駆け落ちしたのです。21歳と19歳のときでした。

倉重:すごいですね。

長谷川:彼女は「ストックホルムに彼といっしょに行く」という書き置きをして、初めて町から出たわけです。いきなりストックホルムの大都会に行ったから、最初はすごく怯えていました。僕たちは一緒に暮らし始め、まず半年間必死で働いて、100万円貯める計画を立ててたのです。彼女も仕事を探して、僕はレストランで働き始めました。そこでは皿洗いと鍋洗いは別々の仕事ですから、2人雇います。僕はそれを1人でやるので、2人クビを切って僕を雇うと、コストが1/4くらいになるんです。

倉重:皿洗いと鍋洗いは、プロフェッショナルだったわけですね。

長谷川:体力と気力は自信がありました。フェザー級は約57キロなのですが、ボクシングしてる頃はライトウェルター級(62.5k)で、ライト級でも減量が たいへんでしたが、そのときは食べるだけ食べてもフェザー級でした。毎日2回のセックスと皿洗いと鍋洗い、あとレストラン中の掃除を14時間。時給500円で、半年で100万ためました。

倉重:時給500円で100万ためられますか?

長谷川:時給500円で14時間働くと日給7,000円でしょう。給料はキャッシュでくれるので、税金はかかりません。大体30日働くと21万ぐらいです。半年間で11日しか休みませんでした。

倉重:信じられない体力ですね。

長谷川:そのときの総収入が日本円で大体118万。2人で家賃を入れて18万で暮らして、100万ためたのです。

倉重:9割が貯金じゃないですか。

長谷川:計画通り100万円たまったので、ステーションワゴンを買って、彼女の故郷に戻ったのです。実は半年の間に彼女の父親に手紙を3回書いて、彼女と結婚したいと伝えていました。

倉重:今度は歓迎してくれたのですよね。

長谷川:心をこめて手紙を書いた甲斐があって、行ったら大歓迎してくれました。その車でヨーロッパ中を彼女と旅したのです。すばらしい日々でしたが、僕たちの旅も終わりが近づいてきました。車をアムステルダムで売って、ヒッチハイクでストックホルムに帰ってきました。フェリーでヘルシンキへ行き、列車でオウルの彼女の実家に2回目の訪問。そこで彼女を連れて日本に帰りたいと伝え、了承をえたのです。前回は駆け落ちでしたが、今度は彼女の両親に見送られてオウルを発ちました。

僕らはオウルからヘルシンキまでは列車、フェリーでストックホルムに渡り、ストックホルムからデンマークのコペンハーゲンまでは2人でヒッチハイクしました。コペンハーゲンからエジプトエアーでアジアを旅しながら日本を目指したのです。

倉重:金髪の新妻を連れて、ようやく日本に帰ってきたわけですね。

(つづく)

対談協力:長谷川 耕造 (はせがわ こうぞう)

株式会社グローバルダイニング代表取締役社長

1950年 横浜市生まれ。1971年 早稲田大学を中退し、欧州を放浪。1973年に有限会社長谷川実業を設立し、高田馬場に喫茶店「北欧館」をオープン。1976年「六本木ゼスト」を皮切りに、「カフェ ラ・ボエム」「ゼスト キャンティーナ」「モンスーンカフェ」「タブローズ」「ステラート」「権八」と次々に

エンターテインメントレストランを都内中心に出店を拡大。

1991年米国第一号店として、ロサンゼルスに「ラ・ボエム」、1996年にはサンタモニカに「モンスーンカフェ」をオープン。(2016年に「1212(twelve twelve)」にリニューアル)

1997年に商号を株式会社グローバルダイニングへ変更、1999年東証2部上場。2021年8月現在は、国内外に44店舗を展開中。