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jshrm中島豊会長に聞く「人事の役割変化」~「働く」はLaborからFavorへ~第1回

倉重公太朗弁護士(KKM法律事務所代表)

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これからの時代の新しい働き方にどう対応していくべきかということは、現在の人事パーソンの非常に大きな課題となっています。しかし、対応策の模範解答はまだまだ誰にも示せない混沌とした状況です。そこで今回は、企業人事の団体、日本人材マネジメント協会(jshrm)の会長、中島豊さんをゲストにお招きしました。名だたるグローバル企業の変革期に人事制度を設計してきた中島さんとの対話を通して、これからの働き方や人事の在り方を考えます。

<ポイント>

・青天のへきれきで始まった人事キャリア

・朝4時に起きて、博士論文を書く生活

・チャンスは常に目の前にしかない

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■まったく希望していなかった人事に配属される

倉重:今日は、人事パーソンの団体である日本人材マネジメント協会(jshrm)会長の中島さんに、人事にまつわる最近のトピックスを、中島さんがどのように捉えているかという観点で伺っていきます。まずはじめに、中島さん自身のキャリアについて、お話しいただけますでしょうか。

中島:私は人事のキャリアが38年間あって、ずっと実務家をしてきました。今年が還暦で、「思えば遠くに来たものだ」という感じがします。私が日本人材マネジメント協会(以下、「jshrm」)に入ったのが20年前で、この会ができて間もない頃でした。その頃役員をやっておられた重鎮の方々は60前後ぐらいでしょうか。「ずいぶんご年配の方で大先輩だ」と思っていましたら、いつの間にか自分もその年になってしまいました。

倉重:最初は、どのようなきっかけで入られたのですか。

中島:今もお付き合いのある人事の分野で活躍されておられる方にお誘いいただきました。実は、私は最初から人事の仕事がやりたかった訳では無いのです。生立ちをお話ししますと、私は広島県の呉市で生まれました。海に近い町で、きれいなところです。もともと海軍の軍港の街でした。今すっかり造船業が寂れていますが、観光資源は旧海軍の歴史遺産が有名です。戦艦大和の故郷で、今でも自衛隊の施設が沢山ありますよ。そういうところで生まれて、18歳までここにいました。高校を卒業して、東京大学で法学を学びました。労働法も勉強しました。実は、労働法の泰斗である菅野先生が教授になられた最初の年に授業を受けました。

倉重:労働法の大家である菅野和夫教授に直接教わっていたのですか。それはぜいたくですね。

中島:はい、なかなかキレキレの授業で面白かったです。「労働法を勉強しようか」と思っているうちに、ゼミの抽選に外れて、国際私法のゼミに入り国際商取引などの勉強をしました。そして、大学を卒業して、1984年に富士通に入社したのです。1980年代までの富士通は、グローバルカンパニーになる前でC&Eという標語を掲げていました。今でいうインターネットなどが出てくる直前ぐらいです。

もともとこの会社は、富士電機の子会社でした。スライドに「限りなき発展」と書いてありますよね。岡田完二郎さんという、戦時中まで宇部興産の社長を務められた方が中興の祖と言われています。彼が富士通に来られて、コンピューターに分野を絞って事業を展開することでめきめき大きくなりました。

その当時流行った製品ではパソコンのFM-77がありました。

倉重:これは相当時代を感じますね。

中島:もともと私は人事をやろうとはまったく思っていませんでした。当時、富士通がどんどん大きくなってきて、日本ではIBMを抜いて1位になったのです。次は世界を目指すのだ、と会社がどんどん大きくなっていくこのときに、「ぜひ海外とのビジネスに携わってみたい」と思って志望しました。

当時はやはり就職というよりも「就社」です。就活中に仲間の1人が言ったのは、「いい会社に入りたいよな」と言うことでした。「いい会社とはどのような会社か」と聞いたら、「それは決まっている。つぶれない会社だ」と答えました。多くの同級生が行ったのが銀行です。「つぶれない会社がいい」と言った友達は、東京電力に行きました。その中で私は富士通を選んだのです。

入社後の新人教育の最中に、配属面接というのを受けたら、当時の人事部長が出てきました。3対1ぐらいで面談をして、「第1希望が海外営業、第2希望がSE、システムエンジニアになりたい」と話しました。私は多少コンピューターのプログラミングをかじっていたので、エンジニアもやってみたいと思っていたのです。そうすると、人事部長から、「中島君、君は人事に興味はないかね」と言われました。

倉重:いきなり言われたのですか。

中島:そうです。「人事に興味はないかね」と言われて、私は即座に「いいえ、ありません」と答えました。生意気盛りですから、「海外営業がやりたいです」と言ったのです。そこから1週間ぐらいで配属の発表があって、言い渡された先が人事だったのです。

倉重:もう決まっていたのですね。

中島:はい。それが私の人事を歩み出したキャリアです。

倉重:最初は「げげっ!」という感じですか。

中島:最初は嫌で嫌でしょうがなかったです。何で人事だと。そもそも学生は人事がどのようなところは知らないですから。散々悩んだのを覚えています。

倉重:青天のへきれきで始まった人事キャリアですね。

中島:最初は川崎にある工場にいて、その後、蒲田にある経営研修所で仕事をしました。当時の富士通は45歳になった管理職や非管理職の全員を集めて、3カ月間閉じ込めて研修をしていました。経営研修所では、「45歳研修」と併せて、新任管理職の研修や中堅管理職の研修などのマネジメント研修もしていました。当時珍しかったのは、そこの研修所は慶應のビジネススクールとタイアップをして、ケーススタディーでのビジネス教育をしていたことです。

倉重:すごく今どきな教育ですね。

中島:はい。当時はまだそういうところは少なかったです。ほとんどは生産性本部や能率協会、産業能率大学などに研修プログラムをお願いしていました。富士通経営研修所では、経営大学院でするような授業を大学の先生方にお願いしていました。蒲田の事務所には慶応の先生が毎日何人もおいでになって、ケースディスカションをしていていたのです。

倉重:ぜいたくな環境ですね。

中島:はい。私たちは担当だったので、教室に入って後ろから様子を見ていました。今で思えば非常に恵まれた環境で、「経営の教育とはこういうものなのか」ということを学びました。

倉重:今こそ、そういう教育を各社でするべきですね。

中島:そうですね。後日談になりますが、その教育を富士通はバブルの頃にやめてしまいました。「忙しくて3カ月も研修しているわけにいかない」ということで、やめてしまった経緯があります。そこで私はビジネススクールに興味を持ちまして、「何とか行ってみたいものだ」と思いました。その後、私が大学院の博士課程に行ったときに指導していただいた先生が、たまたまその研修所に来られたのです。その先生から非常に強く勧められて、「中島君、アメリカに行って勉強してきたらいい」とすすめられました。「経営の勉強は大事だよ」と言われて「何を勉強したらいいですか」と聞いたら、「それは君、人事だよ」と言われたのです。

倉重:なぜでしょうか。

中島:その先生はイギリスで博士号を取られていたと思います。国際ビジネス感覚の非常に強い方で、やはり「日本の人事と海外の人事は違う」と言っていました。「いずれ日本の人事はアメリカ型のような人事になっていく。それを知っている人はこの国の中にほとんどいないのだから、君、ぜひ行って勉強したまえ」ということを言われました。

倉重:非常にいいアドバイスですね。

中島:それまで、私は海外旅行にすら行った事もなく、英語を使う事などほとんどない環境にいたので、海外MBAに合格するのは大変でした。そして、行ったのはミシガン州のアナーバー市にあるミシガン大学です。

非常に大きな大学で、学問的にもノーベル賞の学者も結構いたり、街中にノーベル経済学賞を受賞した先生が歩いていたりしました。もう一方で、アメリカンフットボールなどのスポーツも大変強いところでした。美しい町なのですが、夏は灼熱の暑さで、冬はマイナス20度になるというところで2年間過ごして帰ってきたのです。戻った後は富士通で仕事をしていたのですが、2年くらいいした時にヘッドハンターから声が掛かりました。

倉重:だいたい留学に行くと、辞めてしまいますよね。

中島:そうですね。でも、勉強する機会を与えてもらったのは大変感謝していますし、それを貢献したいという意欲満々で戻ってきたのですが、上司にとっては、自分の知らないものは、やはり認めないというのがあったのかもしれません。

倉重:なるほど。海外留学に行った社員を持て余してしまうのは、どのような企業でも課題ですね。

中島:はい。そういうときにリーバイスから声が掛かりまして、「人事のマネジャーを募集しているけれども来ないか」ということでした。この頃のリーバイスは非常に面白い経営をしていて、もともと公開会社だったのですが、経営陣が株を買い取って非公開にしていました。その創業一族が非常に強い価値観を持って経営しているのが特徴でした。

倉重:これも非常に今どきですね。

中島:面白そうだなと思って入りました。みなさんにも参考にお伝えしたいのですが、最初の転職は、やはりいろいろな人からアドバイスをもらってから行ったほうがいいと思います。実際に行ってみると、何か話が違うという感覚がありました。リーバイスえも、そもそも上司は人事の人ではなくて、ファイナンスの人でした。自分としては日本の会社と同じ環境の中で人事を勉強するよりも、MBAで人事を勉強したし、海外企業の人事を勉強したいという思いがあったのです。「少しここは違う」と思いました。

これはたまたまだったのですが、リーバイスが、ちょうど恵比寿ガーデンプレイスができた頃に移転したのです。そこにGMも入っていました。

倉重:同じビルにですか。

中島:同じビルです。オフィスを見学に行ったのがきっかけで、GMから「採用しようと思うけれども、どうか」というような話がありまして。

倉重:なんと!どれだけ優秀なのですかという感じですね。

中島:ミシガン大学出身というのが、やはり大きかったです。GMはミシガン州の会社ですから。

倉重:見学に行ったらスカウトされるとは、すごいですね。

中島:GMでは大変面白い仕事をさせてもらいました。当時、GMで対日戦略車と呼ばれた「サターン」の日本展開をしました。上司になった人はアメリカのGMから派遣されてきた人でした。当時、GMにはトレーリング・スパウスという制度がありました。社内結婚している人の配偶者が海外に行ったときに、そのパートナーの仕事もつくって、就業を途絶えさせないようにするという制度です。

倉重:一緒に行っていいよということですね。

中島:夫の日本本赴任で帯同してきた彼女に対して会社は北アジアのHRという仕事をつくったようです。中国と日本を監督するディレクターに、わたしは初めてアメリカの人事の基礎を厳しくたたき込まれました。

倉重:タイミング的にポジションもあって、ちょうど良かったですね。

中島:はい。非常にいいポジションでしたし、あとは指導者が良かったです。ジョブディスクリプションの作り方や、職務給はどうやって考えるのかという基本的なことをみっちりとたたき込まれた覚えがあります。

倉重:それはまた上司に恵まれましたね。

中島:はい。厳しい人でしたが。しょっちゅう怒られていて、何かのときに他の人から、「よくあんなに怒られて平気だよね」などと言われました。

倉重:食らいついていったわけですね。

中島:そうです。しばらくすると、自動車部門と部品部門が分かれるなどGMの中も大きな変化がありました。キャリアアップを考えているときにGAPから声が掛かったのです。当時、まだ日本に10店舗もないぐらいの、できて間もない会社でした。

倉重:本当に小さかったときですね。

中島:小さかったときです。確か日本店ができて3年目ぐらいでしたか。

倉重:では、もう立ち上げに近いですね。

中島:はい。私はその3年間の間で、実は7代目の人事部長でした。

倉重:入れ替えが激しかったのですね。

中島:ここの社長だった人が非常に天才肌のマーチャンダイザーで、その人の思うような組織をつくっていくのがなかなか大変でした。けんかをしながら一生懸命人事をつくっていって、気が付いたら日本全国100店舗ぐらいまで成長していたのです。

倉重:事業のフェーズが変わるときの人事は、役割が大変ではないですか。

中島:そうですね。フェーズが変わるときだからこそ人が求められるのだと思うのですが、ゼロからつくらなくてはいけないので大変です。GAPにいたときに作ったのが、非正規社員の管理制度でした。

倉重:その当時は、そんなに非正規社員はいなかったわけですね。

中島:そうです。当時日本のパートやアルバイトは、「高島屋の売り場で水曜と金曜日の5時から9時まで働きます」というような、非常に固定的な使い方をしていたのです。GAPは社員の9割がパート、アルバイトです。店舗にいるのはほとんど非正規社員でした。たとえば木曜日は7時間、金曜日は3時間のようにしてシフトを組むのですが、天候の状況やお客さんの大きな入りなどに応じて、直前でもできるだけフレキシブルに変えていき、人件費を無駄にしないように動かしていく仕組みを作りました。

倉重:最適配置をしたということですね。

中島:はい。その仕組みと日本の労働法上は、どうしたら適合できるのかを一生懸命、渉外弁護士事務の先生方と議論しました。

倉重:できる人事の方は、弁護士に「教えてください」ではなくて、ディスカッションする感じになりますね。

中島:私も「こういうことをやりたいのだ」という方向に向くわけです。例えば1週間の労働時間を20時間以内に収めて、1日の労働時間は必要に応じてフレックスに動かせるような方法はないかと聞いていきました。

倉重:いいですね。ここから大学院に行こうと思うわけですか。

中島:そうです。MBAで大学院の雰囲気を経験して、さらに続けて見たくなりました。GMで新しい人事を見たり、GAPに入ってアメリカの変動費型の人件費という考え方に触れたりしたことで、「人事はいろいろ違っていて面白い」という部分をまとめてみたいと思いました。そのとき、富士通の研修所で声を掛けていただいた先生から、「中央大学で新しく博士課程を作ったので、そこに来ないか」とお誘いを受けたのです。

倉重:かなり誘われて人生が動いていますね。

中島:はい。こういうのをプランド・ハップンスタンス(計画的偶発性)というのですが、外のネットワークが動いて、面白そうだったので「ちょっとやってみようか」と入りました。

倉重:そこでフットワークが軽いのも大事ですね。

中島:そうですね。これは祖母に教えられたことですが、「チャンスというのは常に目の前にしかないのだから、とにかくいったん掴んでみろ」ということを、子どもの頃に結構言われました。

倉重:いい教育を受けてきましたね。

中島:はい。今にして思えば、ありがたかったです。どちらかというと、ちゅうちょする前に飛び付くので、ちょっと危なっかしいのですが。

倉重:素晴らしいですね。今の時代に合っています。

中島:そうですか。一応3年間で博士号を取れると言われたのですが、やってみたらなかなか大変で、最終的には7年かけて博士号を取りました。

倉重:7年ですか。かなり大変ですね。

中島:そうですね。学位論文そっちのけで、いろいろな本の翻訳や執筆をしたりしていたら、先生から「来年で定年退官だから、もう終わらせてくれないとチャンスがないよ」と言われました。最後は慌てて終えたという記憶があります。

倉重:普通の企業人事をしていたら、なかなか本を出すところまではいかないですよ。これができているのがすごいですね。本は土日などに書いていたのですか。

中島:土日と、あと朝は4時ぐらいに起きて書いていました。やはり体力が大事ですよね。

倉重:働きながら論文を読んで、自分の研究を書いていくわけですから、それは疲れると思います。誰かに命じられているのではなく、自分でやりたいと思っているからこそですね。

(つづく)

対談協力:中島 豊(なかじま ゆたか)、日本人材マネジメント協会(jshrm)会長

東京大学法学部卒業、ミシガン大学経営大学院修了(MBA)

中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程修了(博士)

大学卒業後、富士通にて人事・労務管理業務に従事。米国ミシガン大学のビジネススクールに留学し、欧米企業のHuman Resource Management(人的資源管理)の理論を学ぶ。帰国後、リーバイ・ストラウスジャパンと日本ゼネラルモーターズの人事部門で勤務し、外資系企業における人事管理の実務を経験した。傍ら、中央大学大学院の博士後期課程に入学し、バブル崩壊後の日本における新たな人事管理の変革について研究し、博士(総合政策)を取得。1999年からは、進出して間もない米国アパレル流通業のGAPの日本法人で人事部長の職務に就き、非正規人材を活用する米国型のビジネスモデルを展開に取り組んだことから、日本における働き方や雇用の在り方についての意見発信を行なった。さらに、CitiグループやPrudentialグループでM&Aに携わったことで、日本企業の人事をグローバル化に統合する経験も積む。現在も、企業の人事実務に携わる傍らで、グローバルな競争環境において、経営に資するための人材の育成や管理の在り方について研究や発信を行っている。2021年1月より、日本人材マネジメント協会会長に就任。

著書

『非正規社員を活かす人材マネジメント』 (2003年日本経団連出版),『人事の仕組みとルール』(2005年 日本経団連出版)、『社会人の常識―仕事のハンドブック』、(2010年 日本経団連出版)

弁護士(KKM法律事務所代表)

慶應義塾大学経済学部卒業後司法試験合格、オリック東京法律事務所、安西法律事務所を経てKKM法律事務所 第一東京弁護士会労働法制委員会外国法部会副部会長、日本人材マネジメント協会(JSHRM)理事 経営者側労働法を得意とし、週刊東洋経済「法務部員が選ぶ弁護士ランキング」 人事労務部門第1位 労働審判等労働紛争案件対応、団体交渉、労災対応を得意分野とし、働き方改革のコンサルティング、役員・管理職研修、人事担当者向けセミナー等を多数開催。代表著作は「企業労働法実務入門」シリーズ(日本リーダーズ協会)。 YouTubeも配信中:https://www.youtube.com/@KKMLawOffice

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