インドネシアで一番有名な日本人に聞く、「世界で戦う人材育成」【【小尾 吉弘×倉重公太朗】第2回

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あまり日本では馴染みのないインドネシアの労働法。2000年に労働組合法が成立し、1企業の中に組合をいくつでも作れるようになってから、組合が爆発的に増加し、労働運動も活発になりました。小尾 吉弘さんの運営する工業団地「MM2100」に入る道路も、住民に封鎖されるというデモが起きたそうです。その原因の一つは、工業団地のそばの住民であるにも関わらず、雇用機会に恵まれていないということでした。その問題を小尾さんはどう解決したのでしょうか?

<ポイント>

・インドネシア人のメンタルは日本人に似ている

・小尾さんがイスラム教に飛び込んだ理由とは?

・メッカを巡礼するのは、順番待ちが必要

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■インドネシアの労働紛争

小尾:組合が終わった96年からはフィリピンに移り、新しい工業団地を立ち上げました。

倉重:もう工業団地のプロですね。

小尾:長く任せていただきました。

倉重:インドネシアでも日本の企業がよく知らずに社員を解雇したりすると、村人総出で襲ってくることもあると聞きましたが。

小尾:ですから本当にやり方次第だと思います。いかにお互いに納得できるような形のコミュニケーションをするか。もちろんインドネシアなので、英語も、日本語も通じません。インドネシア語でいかに相手のハートをつかむように話をするのか。きちんと話せば、相手も理解してくれるのです。インドネシアのいいところはそこで、メンタル的には日本人と似ているところがあります。

倉重:ちゃんと腹を割って話すということですね。

小尾:ええ、話せば理解してくれる風土があると思います。

倉重:そのようにできる日本人はなかなか少ないのではないですか?

小尾:おかげさまで、工業団地には、日系の企業にどんどん進出していただきました。それぞれの企業において、小さいものから大きいものまで労使紛争というのは起こります。紛争までいかなくても、労使で意見の食い違いは絶対に出てきます。わたしもいろいろな紛争を見てきましたし、その中に入って調整もさせていただきました。その中で、組合委員長の経験が大きく活かされたと思います。

倉重:インドネシアの労働組合は高速道路を選挙してデモをしたり火炎瓶を投げたりして強いのですよね。

小尾:わたしは2003年からMM2100の社長をしました。2010年ぐらいから、デモ隊がオートバイでガンガン工場の中に入って来て機械を壊したり、高速道路の入口を全部封鎖して通れなくされたりと、大変な目にあいました。

倉重:逆に小尾さんも政治家の労働大臣と話して、仲裁するようなこともあったのですよね。

小尾:そうです。究極は2012年初頭でした。高速道路が占拠されて全部通れなくなってしまったのです。裏道からジャカルタの調整大臣のところに行って話をつけ、組合と労働大臣の交渉の席にも呼んでいただきました。

倉重:そこに入れる日本人というのもすごいです。

小尾:たまたま工業団地の社長をしていたからです。政府と組合のやり取りも見てきました。

倉重:今は現地の社長になられて、それ一本でされていると思いますが、サラリーマン当時は違う仕事もされたりしていたわけですよね。

小尾:サラリーマン時代も実は丸紅に籍を置きながら、関連の事業会社の社長をしていました。事業会社の経営、つまり工業団地の開発と維持管理がわたしのメインの仕事だったのです。

倉重:会社にいながらかなり好きなことをされていたわけですね。

小尾:本当に丸紅はいい会社です。本社にいてトレーディングをしていたら、多分輸入出や物の売買をしていたと思いますが、ラッキーなことに不動産の仕事につきました。不動産というのはやはりその地に根付いた仕事なので、インドネシアのパートナーと一緒に合弁会社を作って、事業を行っていたのです。そういう事業に携わることができたというのが非常にラッキーだったと思います。

倉重:先日、慶應大学でも教えておられる小杉俊哉先生と対談したときに、「企業の中で起業家のように働く」というお話がありました。今の働き方は雇用される、起業するというだけではなくて、「企業の中で起業家のように振る舞うこともできる」という話でしたが、小尾さんもそのような感じですね。

小尾:わたしが思うに、90年ぐらいの総合商社は全部同じだと思いますが、本体ではやらない仕事を、事業会社を作ってどんどん任せていったのです。本体はあくまでも投資会社的な経営をしていく流れが25年ぐらい前から始まっていて、わたしはそのはしりをさせていただいたと思います。アップダウンはあるにしても、事業というものを任されたというのは大きな経験でした。

倉重:会社にいながら事業会社の社長をされていて、2012年ごろに丸紅を辞めたのには、何か理由があったのですか?

小尾:辞めて何をしていたかと言いますと、丸紅と一緒に合弁会社を作ったインドネシアのパートナー企業が、工業団地をどんどん広げていこうとしたのです。仕事的には同じですが、丸紅からパートナーの会社に移籍して、引き続き工業団地の開発と維持管理をすることになりました。20年ぐらい一緒に仕事をしたパートナーさんに、「手伝ってほしい」と言われまして、わたしは頼まれると断れないのでお受けした次第です。

倉重:パートナーの相手側の社長になったということですね。

小尾:そうです。

倉重:そういう意味では丸紅さんとはまだ関わりがあるということですね。

小尾:そうです。丸紅との合弁会社残っていますが、その会社では拡張しなかったので、パートナーの会社にわたしが移って、工業団地をどんどん大きく展開しています。

倉重:最近ですと、吉本興業を辞めた後も吉本と仕事をするキングコングの西野さんがいます。そのような感じだと思いました。それがきっかけで、「インドネシア一本でいこう」と決めたのですか。

小尾:そうです。辞める前の2010~12年に、インドネシアがぐーっと伸びていたので「これから先はインドネシアで仕事をしたほうが面白いだろう」と思ったのです。もう少し丸紅で仕事をして定年まで待ってから辞めてからインドネシアに来ても良かったかもしれませんが、成長性を考えたときに、「今インドネシアに来たほうが面白い」と思って決断しました。それで、日本の会社を辞めて、インドネシアの仕事に集中しようと思ったのです。

倉重:それは何歳のときですか?

小尾:53歳でした。

倉重:53歳でその決断をするのはある意味思い切ったようにも感じますね。昔から海外の仕事はしたいと思っていましたし、実際にやってきたわけですけれども。「これだ!」と決めたのはだいぶ後になってからということですね。

小尾:やはり会社に入っていると、自分のしたいことがすべてできるわけではありません。ただ、30年の丸紅時代を振り返ってみても、それぞれの節目でどういうわけかインドネシアに引き戻されているのです。

倉重:ご縁があるのですね。

小尾:いったん日本に帰ってからも、引き続きインドネシアを担当しましたし、組合から抜けてフィリピンの事業も手掛けたのですが、2003年にまたインドネシアに戻りました。別に希望したわけではないのです。当時「お前はここに必要だからここにいなさい」という命令をいただいたので、インドネシアの仕事が始まりました。日本に帰った後、「今度はインドで不動産事業をやろう」と思ってインドを攻めていたのですが、2年ぐらいでまたインドネシアに戻れと言われました。

倉重:明らかに導かれていますね。

小尾:そういうことが何回かあったので、2012年に「この先わたしはインドネシアのために頑張ろう」と決意したのです。

倉重:今は1年のうち、ほとんどインドネシアにお住まいですよね。

小尾:そうです。

■イスラム教に改宗した理由

倉重:途中でイスラム教に改宗したお話が先ほどありましたが、これはどのようなきっかけでしたか。

小尾:モスクは社会的施設として必ず造らなければならないのですが、先代の社長は一切着手していませんでした。わたしと一緒に仕事をしていたジャワ出身のダイレクターが敬虔なイスラム教徒で、「ぜひやろう」ということだったので、企画を立てて予算づけをし、2006年にモスクを造ったのです。誤解のないように言っておきますが、イスラム教は勧誘してはいけない宗教です。ただ、インドネシアに長くいましたので、モスクの起工式の儀式のときに「イスラムになったらどうか」と誘われ、一度飛び込んでみようかと思いました。

倉重:モスクを造ったのがきっかけなのですね。

小尾:そうです。誘われたら断れない性格というものもあります。

倉重:宗教までそうなのですね。

小尾:もちろんまったく知らなければ行かなかったのでしょうが、それなりに一生懸命いろいろな話を聞いていて、「見たい、聞きたい、知りたい」ということもありました。

倉重:日本ではイスラム教はあまりなじみがありません。もちろんニュースなどでは聞いたりしますが、「原理主義の人は少し怖い」というイメージを持っている人もいますので、実際にはどのような宗教なのか教えていただけますか。

小尾:キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という三大一神教の宗教の中でも、最後にムハンマドというメッセンジャーが神のお告げを聞いて、広めているというのがイスラム教です。日本の皆さんがよく知っているのは「豚を食べてはいけない」「お酒を飲んではいけない」という決まり事です。そこが非常にフォーカスされています。

わたしがイスラム教になって勉強して分かったことは、非常にロジックがしっかりしているということです。世の中全部を作ったのが神なので、この世界に神はいません。

「人間は神の前では全員平等だ」という考えもわたしは素晴らしいと思っています。垂直と水平の関係性という概念があります。神と人間は垂直につながっていて、人間同士は水平につながっているという考え方です。人間として当たり前かもしれませんが、そこにも惹かれました。

 ただ、今のイスラム教徒がそうなっていないというのは非常に残念です。コーランに「多様性をもっと信じましょう」「多様性を大事にしましょう」と書いてあるように、本来のイスラム教は多様性を認めています。神様は、「人間よ、神はあなたたちを男と女に作りました。いろいろな種族や部族も作りました。これはお互いに知り合うためです」と話しました。それがちゃんとコーランに書いてあるのです。

仮にイスラム教が一番いい宗教であるなら、神は全員をイスラム教にしていたはずなのです。しかし、そうではありません。いろいろな宗教があり、種族があり、男と女がいるという多様なものを作ったのが神なのです。

倉重:異なる宗教の者とも仲良くしなさいと言っているのですね。

小尾:理解し合いなさいと言っています。

倉重:その辺はあまり伝わっていませんね。

小尾:伝っていないと思います。もっと排他的に「全員イスラム教にならなければいけない」と言っている人たちが、イスラム国を作ったわけです。

倉重:原理主義の方たちはそうですよね。

小尾:そこが間違っているような気がします。きちんと勉強していきますとロジックは面白いですし、結構しっくりくる部分もあったので、それ以来いろいろな人に話を聞きに行ったり本を読んだりしてどんどん理解を深めています。

倉重:メッカにも行かれましたよね。メッカが順番待ちというのは小尾さんに聞くまで知りませんでした。

小尾:メッカに行くのは、イスラム教徒の義務の一つで、ハッジ(巡礼)と呼ばれるものなのです。毎年ハッジに行く日にちがイスラム歴で決まっているので、その期間に行かなければいけません。全世界からメッカに集まろうとするとキャパ的に無理がありますので、サウジ政府が各国に人数の割り当てを決めています。ハッジに行けるのは、イスラム人口0.1%ぐらいと言われています。インドネシアは大体2億5,000万の90%がイスラムとしても、2億2,000万いますので、それの0.1%ということは22万~25万人ぐらいなのです。

倉重:それでもすごい人数ですね。

小尾:トータルで考えると2億人いて、そのうちの0.1%しか巡礼に行けないので順番待ちになるわけなのです。

倉重:実際にそこまで入り込む日本人はなかなかいないですけれども、それを自然体でやっているのがすごいと思います。

(つづく)

対談協力:小尾 吉弘(こび よしひろ)

1959年、奈良生まれ。大阪外国語大学イスパニア語科卒。

82年総合商社“丸紅”に入社。30年にわたり、海外不動産開発案件に従事。

83年よりジャカルタに駐在。ジャカルタ中心地でのオフィスビル・商業施設の開発を担当。

89年には、“MM2100工業団地”開発の立ち上げから携わる。

93年より2年間、専従として従業員組合副委員長1年・委員長1年務める。

96年より、フィリピンにて “リマ工業団地”開発を新規に立ち上げ、リマ工業団地開発・運営会社の副社長としてフィリピンに駐在。

2003年インドネシアに移り、MM2100開発・運営会社社長を務める。2012年総合商社退職。

現在も引き続きMM2100開発・運営会社社長として企業誘致、投資環境や労使関係の改善に取り組む一方、病院、高層住宅、商業施設を誘致し、MM2100を工業団地から、複合都市に変貌させた。

2012年、工業団地内に職業専門高校を設立。即戦力となる人材育成にも注力。インドネシアの若者への教育に情熱を傾ける。

2006年イスラム教に入信。MM2100でのモスク建設に関わる。2019年メッカに巡礼(ハッジ)。