終戦の8月に100年前の開戦を考える

伊東忠太「全欧修羅の巷となる」『阿修羅帖 第一巻』

ポツダム宣言を受諾した8月10日

「終戦」の記憶に染められるのが、8月の日本です。

1945(昭和20)年の8月6日に広島に原子爆弾が投下されます。9日未明にはソビエト連邦が日本に侵攻を開始します。同じ日に長崎に2つ目の原子爆弾が落とされます。

そして迎えた69年前の8月10日は、第二次世界大戦の終結に大きな意味を持つ日となりました。9日に開かれた午前の最高戦争指導会議でも、午後の閣議でも、アメリカとイギリスと中国が日本に無条件降伏を迫った7月26日の「ポツダム宣言」の受け入れをめぐって意見が鋭く対立します。

首相の鈴木貫太郎は天皇臨席の最高戦争指導会議、すなわち御前会議を急遽設定。最後に天皇に発言を求めました。昭和天皇は、実質的な立憲君主制を旨とした戦前にあっては極めて例外的に戦争終結の意思を力強く表わし、国体護持の条件を付したポツダム宣言受諾が決まります。日付は変わり、午前2時半になっていました。

宣言の受諾はすぐに連合国側に伝えられ、条件をめぐるやり取りが再度あったものの方針は動きませんでした。8月10日の決定が、第二次世界大戦の終結をもたらしたのです。

第一次世界大戦と化した8月10日

それに対して、実質的に第一次世界大戦が始まったのが、100年前の8月でした。

1914(大正3)年7月30日にロシアが総動員を発令しました。これを受けて、7月31日にドイツはロシアに最後通牒を発し、8月1日に宣戦布告。7月28日に開始されたセルビアとオーストリアとの戦争は、こうしてヨーロッパの大国を巻き込んだ「大戦」と化したのです。

そんな100年前の夏を、建築家の伊東忠太は「全欧修羅の巷となる」というタイトルで描いています。

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出典 :『写真集成 近代日本の建築 第8巻 伊東忠太建築資料集 阿修羅帖 第一巻』ゆまに書房、2013(使用許諾済)

第一次世界大戦を描いた漫画集『阿修羅帖』の2枚目となります。前回の7月28日の絵と見比べると・・・動いていますね。

前の絵で、画面右端から右手を振り下ろして向かってきたドイツが、ここでは中央の主役に躍り出ています。フランス、イギリス、ロシアが左右で3人がかりで対抗していますが、勢いは止められそうにありません。

左端で、ドイツの同盟国であるはずのイタリアは様子見をしています。これは8月3日にイタリアが中立を宣言したことに対応します。

前回は画面の中央にいた「塞」(セルビア)と「墺」(オーストリア)は、どこかに行ってしまっています。この両国間の戦闘は、すでにヨーロッパ中に高まっていたガスの濃度に点火した火花に過ぎなかったという概要が、一目で伝わってきます。

登場人物の肌の色を変えて、前とのつながりも直感的に分かります。さすが建築家! プレゼン上手です。

「シュリーフェン・プラン」の早わかり

ドイツが右手と右足を上げていることにも、意味があります。

第一次世界大戦を語る時には「シュリーフェン・プラン」という用語が、必ずと言っていいほど登場します。開戦前にドイツ軍が策定していた戦略です。その内容は、仮想敵国であるロシアとフランスに両側を挟まれたドイツが、この2つの大国を相手にしなければならなくなった場合、まず西部戦線の右翼に兵力を投入して、パリへと反時計回りに兵を進め、短期間でフランスを撃破した後に、東部戦線に戦力を移動させてロシア軍を打ち破るというものでした。ドイツ陸軍参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェン(在任1891‐1905)の名をとって、こう呼ばれます。

これに従ったとされる第一次世界大戦の動きと、シュリーフェン・プランとの異同は何か、シュリーフェンがこれを策定したと見て良いのかどうか、その功罪は・・など軍事史の関係者なら、これだけでご飯がいっぱい食べられるような論点です。

しかし、それが大体どんなものかというと「ひとまずは西方で右側から攻めて、東方は防御で済ましておく」であることが、絵の中の青い男(ドイツ)の姿勢から一目瞭然です。

毅然として戦うベルギー

かわいそうなのはベルギーです。

シュリーフェン・プランに基づいて、ドイツがフランスに軍を進めるとなると、間のベルギーを通らねばなりません。8月2日にドイツはベルギー政府に最後通牒を突きつけ、12時間以内の回答を要求しました。ドイツ軍のベルギー領内への通行を了承しろ、拒否する場合には敵国とみなして武力行使も辞さないという脅しでした。

ベルギーからドイツ大使に届いた答えは、断固拒否。1839年の条約によって独立と中立が承認されたベルギーは、あらゆる主権侵害に対して戦うと書かれていました。

8月3日にフランスに宣戦布告していたドイツ軍は、8月4日からベルギー領内に軍隊を進め、ベルギーは戦場となります。先日、ベルギー東部のリエージュで、イギリス、アイルランド、ドイツ、オーストリア、ブルガリア、マルタといった欧州各国の首脳が出席して行われた追悼式典は、この日を振り返ったものですね。

第1次世界大戦から100年、ベルギーで追悼式典

ベルギーの永世中立を保証した1839年の条約は、イギリスとドイツを含む5か国間で結ばれていたので、イギリスは条約違犯の対応という大義名分を得てドイツに宣戦布告します。こうしてイギリスも、絵の中の取っ組み合いに加わることになりました。

相撲とベルギーへの共感

そんな中、伊東忠太は大好きだった相撲の技を使って、小国ベルギーに対する共感を示しています。「白」と書かれた絵の中のベルギー(白耳義)は、お前みたいな小国など一蹴だと蹴ったドイツの片足を、両腕で抱えています。相撲の決まり手でいう「足取り」です。小さいながらも、相手の力を利用して、なんとかひっくり返そうと奮闘しているのです。

これは当時の日本人一般の感情でもありました。圧倒的な軍事力の差の下で、ベルギーはたちまちドイツ軍に国土を蹂躙されます。しかし、国王アルベール1世は国民を鼓舞し、ベルギー軍と市民は各地で果敢に戦い続けます。ベルギーは最後まで降伏しませんでした。連合国側とも一定の距離を保ち、第一次世界大戦後に独立を回復します(そして、第二次世界大戦で再びドイツに侵攻されます)。

1914年と1945年、2014年

当時の日本のベルギーへの共感は、自国と重ね合わせた部分があるのですが、その重ね合わせ方は一つではありませんでした。十分な軍備を持たないとかえって戦争に巻き込まれる危険が増すという証拠なのか、軍備よりも本土決戦も辞さない愛国心が大事というお手本なのか、大国化よりも高度な政治的バランスが重要という教えなのか・・・。

1945年と1914年の差は31年。思い立って今から31年前の1983年を調べてみると、東京ディズニーランド開園、ファミコン登場、テレビドラマの「おしん」ブーム。近いような遠いような距離です。

最近のニュースと第一次世界大戦の開戦を短絡させるのでも、1945年の「終戦」とだけ向き合うのでもなく、この1914年8月のベルギーの事態を色々な立場の日本人が受け取って1945年8月の状況もあった。それをどう考えるかというのが、歴史に学ぶ姿勢だと、教条主義的でもない伊東忠太の戦争漫画から思うのです。あ、でも教条主義になる瞬間もあって、それはそれで面白い。それについては、いつかお話しましょう。