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渋沢栄一が関わった日本最古の銀行はどうして創立されたのか

久保田博幸金融アナリスト
(提供:MeijiShowa/アフロ)

 2024年から1万円札の顔となる渋沢栄一は数多くの企業の設立に関わり、「日本の資本主義の父」と呼ばれている。約500の企業を育てたが、その創設したもののひとつに銀行があった。

 銀行の設立は明治政府にとり大きな課題となっていた、政府は大蔵少輔伊藤博文の建議に基づいて、米国のナショナル・バンク制度にならった発券銀行制度を導入することなった。

 米国での南北戦争の時代、北部政府はグリーンバックの増発によるインフレ抑制のため、1863年に国立銀行(national bank、国法銀行)を設立、国立銀行による銀行券発行について規定する全国通貨法が制定された。

 これによって南北戦争以前の複数通貨がグリーンバックと銀行券が流通する単一通貨の制度となった。この国立銀行制度を取り入れたのが日本から渡米し、現地視察を行った伊藤博文であった。

 この伊藤案に対して、イングランド銀行をモデルにした中央銀行制度を導入すべし、とした吉田清成との間で銀行論争が闘わされた。結局、井上馨の裁断によって、伊藤案が採用された。この伊藤案を起案した人の中に渋沢栄一がいた。

 1872年(明治5年)11月、国立銀行条例を制定。そして、国立銀行4行が設立され、銀行券発行が始まる。銀行券の発行条件が厳しかったことなどから、当初設立されたのは4行だけだったが、条例の改正などにより全国的に銀行設立ブームが起こり、153行もの国立銀行が誕生した。

 国立銀行という名称は、第一国立銀行の設立者であり、初代頭取となった渋沢栄一によりナショナル・バンク(連邦法に準拠して設立された銀行)の訳語として作られた。文字通りの国立の銀行ではなく、政府とは資本関係のない民間の銀行であった。

 1877年2月に西郷隆盛たちと政府が戦った西南戦争が勃発。明治政府はこの戦費を調達するため、大量の不換政府紙幣、不換国立銀行紙幣を発行。これにより貨幣の価値が急落し、激しいインフレーションが発生したのである。

 当時の大蔵卿(現在の財務大臣)は大隈重信。大隈は積極財政を主張したが、これに対し次官にあたる大蔵大輔の松方正義は、明治維新以来の政府による財政の膨張がインフレの根本原因であるとし、不換紙幣を回収することがインフレに対しての唯一の解決策であると主張した。

 松方の主張は大隈の財政政策を根幹から否定するものであり2人は対立。いったんは松方を内務卿にすることで財務部門から切り離した。しかし、1881年の「明治14年の政変」によって大隈が政府から追放されると、松方が大蔵卿に任命され、インフレ対策のために中央銀行制度が取り入れられたのである。

金融アナリスト

フリーの金融アナリスト。1996年に債券市場のホームページの草分けとなった「債券ディーリングルーム」を開設。幸田真音さんのベストセラー小説『日本国債』の登場人物のモデルともなった。日本国債や日銀の金融政策の動向分析などが専門。主な著書として「日本国債先物入門」パンローリング 、「債券の基本とカラクリがよーくわかる本」秀和システム、「債券と国債のしくみがわかる本」技術評論社など多数。

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