プラザ合意と短期金利の高め誘導
1985年9月22日、密かに先進5か国の蔵相・中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルに集結し、米国の財政赤字と貿易赤字という双子の赤字を解消するため、為替をドル安方向に誘導させるとの合意を行った。これがいわゆるプラザ合意である。それから30年が経過した。
5か国が為替相場に協調介入して、基軸通貨であるドルに対して、参加各国の通貨を一律10~12%幅で切り上げる。介入期間は6週間程度、介入規模は180億ドル相等。日本、アメリカ、ヨーロッパが3:3:4の割合で受け持つといわれた。各国は、自国だけでなく、24時間どの国の相場にも介入してもよいといったものであった。
発表前の円相場は1ドル242円であった。最初に開いた23日のニュージーランドでは1ドル234円程度まで円高が進行したが、さらに介入は続けられた。大蔵省と日銀は必死の努力でドルを売り、口先介入なども行ったものの、なかなかドル安は進まない。
そこで日銀が動いた。1985年10月25日に日銀は第二の公定歩合といわれた短期金利の高め誘導を行い、これを受けてスタート直後の債券先物は暴落に近い下げを蒙ったのである。私は債券ディーラーになる前ではあったものの、債券先物に非常に強い関心を持っていただけに、かなりのショックを受けた記憶がある。しかも、それが日銀の「勝手な解釈」であったとされている。
大場智満元財務官は以前にインタビューで、プラザ合意に金融政策は入っていたのか、という質問に対してこう答えていた。
「フレキシビリティー・オブ・マネタリーポリシー(弾力的金融政策)と書き、他の蔵相代理にはこれは金利下げだと説明した。ところがプラザ合意後に日銀国内派が勝手に解釈して市場金利の高め誘導をした。びっくりして私は澄田智日銀総裁に電話したよ」
日銀は当時、国内派が非常に強い力を持っていたとも言われ、大場元財務官も、あえて「日銀国内派」という表現を使った。これが本当に思い違いによるものなのか、それとも別途意図があったものかはわからない。しかし、現実に10月25日に日銀は第二の公定歩合といわれた短期金利の高め誘導を実施した。手形レート2か月物は0.5625%上昇して7.125%となり、コールレートも上昇した。
これを受けて10月19日に東証に上場したばかりの債券先物は急落し、大量の売り注文により2日間値がつかないという大混乱となった。先物はストップ安売り気配で値段が付かなかったが、現物債は値がついており、10月25日に10年国債の68回債は単価で4円14銭も下落したのである。
日銀の高め誘導に対しては、「金利を上げない約束違反だ」とのアメリカから抗議がきたようだが、これは大場元財務官の発言を見ればなるほどと思われる。日銀の短期金利の高め誘導をきっかけとしてに円高は一気に進み1ドル200円近辺をつけてきた。そして12月18日には短期金利の高め誘導はあっさりと解除された。