「9000円賃上げ」はどうなった?

 岸田政権発足直後、「新しい資本主義」の目玉として早々に決定した介護・保育労働者の「9000円賃上げ」。国が事業者に補助金を出すことによって、職員一人当たり月9000円分にあたる賃上げを実現させるという政策であり、金額やその算定方法などをめぐって、大きな注目を集めた。

参考:保育・介護の「9000円賃上げ」は看板倒れ? 「払われない人」が続出する理由

 この政策が想定している補助金の対象期間は、今年2月からとなっている。3月の1週目も終わろうとしている今、先月から無事に賃上げされたという労働者が続出していても良い頃だ。ところが、労働組合「介護・保育ユニオン」には、特に保育園で働く労働者たちから、この賃上げが行われておらず、今後の賃上げの予定も聞かないという不安の労働相談が相次いでいるという。

 一体なぜ、賃上げがされていないのだろうか。

 また、この制度では、今年3月までに労働者に賃上げ分が支払われなければ、4月以降にその分を遡って支払うことはできないという期限が設けられている。賃上げがまだ実施されていない職場では、今月中に声をあげて、この制度による賃上げを経営者に要求する必要があるようだ。

 本記事では、はじめに待遇改善が実施されていない職場の実例や制度の概要を紹介したうえで、賃上げを促す方法や、経営者が補助金を申請しようとしない理由を考えていきたい。

2月中に賃金は変わらず 「うちでは申請しない」という保育園も

 介護・保育ユニオンに寄せられた労働相談には、次のようなものがある。

関東圏の認可保育園で正社員として働く保育士のAさんは、今年2月から9000円の賃上げがされるというニュースが昨年末に報道されていたことをずっと覚えていた。そして、本当に実現するのか不安を抱きながらも、2月末の給料日を心待ちにしていた。ところが、給与明細を見ると不安は的中し、給与額は全く変わっていなかった。理事長からも、なんの知らせもないままだ。

関東圏の別の認可保育園で働く保育士のBさんは、他園で働く知り合いの保育士から賃上げについて園内で連絡があったと聞き、自分の園でどうなるのか気になり始めた。そこで、社長に思い切って「政府の言ってた賃上げはどうなるんですか?」と尋ねた。ところが社長は、「うちではやらない」とつれない返事だった。

 このような相談が頻繁に寄せられるのには、どのような理由があるのだろうか。

全員が9000円賃上げされる制度ではない

 まずは、今回の「9000円賃上げ」の政策の概要を、簡略化して説明しておこう。保育労働者の賃上げについては、「保育士・幼稚園教諭等処遇改善臨時特例事業」という制度として実施される。

 この補助金は、行政から労働者に直接支給されるというものではない。今年2月から職員の賃上げを行った経営者に対して、その経営者が市町村に申請を行った場合に、行政から一人当たり「月額9000円」分に当たる補助金が支給され、その補助金を労働者の賃上げに使えるという内容だ。対象となる期間は、今年2月から9月分までとなっている。

 対象は保育士に限られない。調理員や栄養士、事務職員など、法人役員を兼務する園長以外であれば、原則的に保育園のどの労働者でも対象とすることができる。非常勤職員でも良いし、派遣元さえ賃上げを認めれば、派遣職員を対象とすることもできる。

 では、経営者が保育園の全職員の9000円の賃上げを行い、その賃上げ分を支給するように市町村に申請できるのだろうか。残念ながら、そういう仕組みにはなってはいない。

 経営者が誰を対象に、どれだけ賃上げしようとも、それと直接関係なく、園に支給される補助金は、あくまで公定価格の配置基準に基づいて計算される。つまり、園児数に応じて決められた最低限の保育士などの職員数の配置基準分しか、国からの補助金は最初から支給されない。

 このため、保育に余裕を持つために配置基準よりも職員数を多めに配置している「優良」な園では、全職員に一人9000円上がるという改善策は、はじめから不可能だということになる。

 さらに、公定価格の配置基準に応じて行政から支給される月9000円分の原資を用いて、誰をいくら賃上げするかは経営者の裁量次第だ(ただし、総額としては国から園に支給される補助金以上の賃上げをしなければならない)。つまり、経営者が賃上げ計画を立て、その賃上げ対象に選ばれなければ、9000円はおろか、1円たりとも賃上げされないというわけだ。

3月中の賃上げ分の支払いが鉄則

 このように、経営者が賃上げの計画を立てて申請し、実際に賃上げを行わなければ、園に補助金は支給されないということになる。

 では、2月中に何の改善もされなかったAさんやBさんのような保育園では、もう手遅れなのだろうか。じつは、今回の事業の規定によれば、「賃金規程等の改定に一定の時間を要することを考慮し、3月に、2月分及び3月分をまとめて一時金により支給することも可能」とされている。つまり3月中に2ヶ月分の賃上げ分としてまとめて支払うのなら、2月に間に合わなくても良いということだ。

 しかし、4月以降に、2月、3月の賃上げ分を遡及して支払う場合には補助の対象外となってしまう(なお、2月分の賃金を3月に、3月分の賃金を4月に支給している保育園については、4月支給分も補助金の対象となっている)。職員に3月分の賃金を支払う月までに、賃上げ策を提出して申請を行わないといけないのである。3月いっぱいが期限ということである。

経営者が補助金を申請しない3つの理由

 保育園経営者は、4月以降の賃上げ計画が間に合わなくても、まずは2〜3月分の一時金をまとめて3月までに支払うなどして実質的に賃上げを行い、補助金を申請するだけでよい。しかし、それすら行わない経営者がいるのはなぜだろうか。

 第一に、経営者があえて申請をしない理由は、「自分たちの利益」にならないからだと考えられる。この補助金は、人件費以外に流用するという意味での「中抜き」が原則としてできないのである。

 この20年間、保育は規制緩和によって、「利益を求める」事業者が多数新規参入した。また、それ以前から保育園を運営していた社会福祉法人などの事業者でも、規制緩和を受けて利益追求に路線を変更したところは多い。彼らは、行政からの補助金を役員報酬に当てたり、別事業に流用したりするかに心血を注いでいる。

 実際に、ジャーナリストの小林美希氏の調査によれば、保育園の運営のために行政から支給される委託費の約8割が人件費として計上されているが、5〜6割のみしか人件費に当てていない保育園も多い。2〜3割しか人件費に用いていない園も少なくない。

 具体的には、保育職員の人件費を最低限に抑え、備品の購入をしぶるといった、現場のコストカットが「利益の源泉」となっている。こうしたビジネスが最優先の目的である保育園経営者にとっては、わざわざ手間をかけてまで、用途の限定された補助金を申請して、職員の賃上げをするモチベーションがわかないのだろう。

 第二に、賃上げ後の「原資」の問題だ。今回の補助金事業の実施期間は、あくまで今年2月から9月分までだ。とは言っても、補助金がなくなったからと言って、10月から賃金を下げるというわけにはいかない。

 就業規則を改定し、賃金をあげれば、補助金がきれたことを理由として、一方的に賃金の引き下げを行うことはできないのだ。経営側としては、賃上げで将来の「コスト」を増やしたくないという意図が働いているだろう。

 とはいえ、一応、厚労省は「事業実施期間終了後の令和4年10月以降についても、公定価格を見直す等により、引き続き同様の措置を行うこととしています」としている。だが、まだその内容は不透明だ。本当に賃上げした分の原資が維持されるのか不安であるため、賃上げを躊躇する経営者も多いと思われる。

 ここで、さらに第三の問題が生じる。10月以降は申請した場合の補助金支給ではなく、「公定価格の見直し」になるのだとすれば、今回賃上げをしていなくとも、行政から園に支給される人件費分の原資の金額が上がる可能性がある。

 しかも、公定価格で計算された保育園の運営のための委託費は、何にいくら使うかは経営者の裁量次第だ。もし現行の制度のまま10月以降に委託費を引き上げるなら、今回賃上げをしなければ、公定価格の見直しで増額された人件費分をそのまま経営者が自らの役員報酬にしたり、他の事業に流用したり、株の配当に使ったりすることも可能になる。この場合、むしろ今回賃上げを申請しない方が、保育園経営者が儲かるという事態になってしまうのである。

 これらの三つの理由によって、多くの経営者が今回の賃上げを忌避し、補助金を申請しようとしないものと考えられる。

経営者が補助金で「儲ける」ための二つのやり口

 一方で、経営者が補助金を申請しつつ、賃上げ分を自分の手元に残したり、別事業に使ったりするやり口も想定できないわけではない。注意喚起のために、二つ例をあげよう。

 今回の補助金は、全額を賃金改善に用いるよう定められており、その賃金改善の合計額の2/3以上を「基本給または決まって毎月支払われる手当てにより行うこと」(ただし2月分、3月分は一時金でも良い)が必要であるとされている。2/3以上であるのは、「基本給を引き上げた場合には、賞与や超過勤務手当等の金額にも影響を与えることを考慮」したからだという。

 加えて、「本事業により改善を行う賃金項目以外の賃金項目」の水準を低下させていないことが必要である。基本給や毎月の手当を通じて賃上げするが、他の手当を下げることで、補助金を実質的に経営者の懐に収めるという手口を封じているのだ。

 しかし、後者については「業績等に応じて変動するものを除く」という例外がある。つまり、就業規則などでボーナスについて「業績に応じて支払う」と定めていた場合、補助金は基本的に毎月分の賃上げに使うが、「業績が悪かったから」として賃上げ分に対応して逆にボーナスを大幅に減らすことで、補助金分を実質的に別事業に使うことが論理的には可能なのである。

 第二に、抜け道になりうるのが、「役員」兼「職員」という存在だ。前述のように、法人役員を兼務する施設長は、今回の補助金による賃上げの対象外となっている。小さい法人では、経営者が園長を兼任しているケースが多いため、経営者に補助金がわたらないように規制されているわけである。

 ところが、法人役員が施設長以外の職員を兼務している場合は、補助金による賃上げの対象だ。つまり、法人役員を園長以外の何らかの保育園の職務に付けておけば、補助金の賃上げ分の多くを彼らに集中させることも制度上はできてしまうのだ。

 いずれのやり口も、行政が厳しく指導することは期待できないだろう。補助金がどのように使われるのか、賃上げの中身をしっかり労働者が監視することが重要となってくる。

3月中に経営者に賃上げを求め、その中身を確認しよう

 岸田政権の目玉であったはずの保育「9000円賃上げ」。これまで、筆者も含めて、その金額が低すぎる点や、計算の根拠となる職員数の配置基準が少なすぎる点が批判されてきた。

 しかし、それどころか、本記事で解説してきたように、現実には経営者が補助金による賃上げを断るリスクが低くなく、むしろ賃上げをしないほうが利益になってしまう可能性すらある。さらには、補助金を賃上げ以外に流用する抜け道もある。

 本来であれば、国が経営者を介さずに労働者に支給する方法を用いるか、経営者を通じた補助金による支給であっても、その支給の方法や基準について厳格なルールを設けるべきだろう。また、10月以降に公定価格が見直されたときに、現場の保育労働者の人件費に適切に当てられるよう、保育園の委託費の使い道を具体的に規制する政策も必要である。保育業界はすでに利益追求を優先する経営者で溢れているにもかかわらず、行政は経営者の「善意」に期待しすぎである。

 一方で、今回の制度の賃上げの期限は3月までだ。それまでに、経営者が賃上げしないと言っている場合や、賃上げを明言していない場合、さらに賃上げすると言っていても誰にどれくらい払われるのか不透明な場合は、この制度を使って賃上げを行い、その内容を確認し交渉できるように、現場の保育労働者が、経営者に対して要求をするしかない。

 とはいえ、ひとりで経営者と対峙することは難しい。ぜひ個人で入れる労働組合などの専門家に相談し、経営者と交渉することをおすすめしたい。

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