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保育・介護の「9000円賃上げ」は看板倒れ? 「払われない人」が続出する理由

今野晴貴NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。
(写真:イメージマート)

「1人9000円」は実現するのか?

 岸田政権は11月19日の閣議決定において、「新しい資本主義」の政策の一環として、「保育士等・幼稚園教諭、介護・障害福祉職員」を対象に、「収入を3%程度(月額9000円)引き上げるための措置」を来年2月から実施することを決めている。

 この政策の詳細は徐々に明らかになってきているものの、特に保育についてはまだ不明瞭なところが多い。それでも、現時点においてさまざまな観点から批判が寄せられている。

 第一の批判として、提示されている金額自体の少なさが挙げられよう。2020年の介護職員の平均月収は23万9800円、保育士は24万5800円。全産業平均の30万7700円を大きく下回っている。

 仮に、保育や介護の労働者一人あたりの給与が月9000円上がったとしても、非常に少ない賃金にとどまると言わざるを得ない。しかし、さらに深刻な問題として、実はそもそも9000円すら払われない可能性が非常に高い

 「分配」を重視するという岸田政権において、その「分配」さえ十分に機能しない理由は何なのだろうか。そして、今回の「分配」の議論によって生じるのは、どのような事態なのだろうか。

介護職以外の介護労働者は賃上げ対象ではない?

 介護については、12月8日に開かれた社会保障審議会の介護給付費分科会において、検討中の概要が明らかにされている。

 事業所が一定の取得要件を満たした場合に都道府県に申請すると、その事業所に対して、常勤の介護職員一人平均9000円程度に換算される補助金が支払われるという仕組みである。この時点で、同じ介護事業所で働いていても、ケアマネージャーや生活相談員、看護師などの他職種は、もともと計上されていないということがわかる。

 ただし、この概要によれば、事業所に支給された金額について、事業者が他職種の処遇改善に用いることについて、「柔軟な運用を認める」とされている。

 多職種に分配することが前提となるわけだから、「介護業界の労働者一人あたり9000円の賃上げ」が、この時点で難しいことは明らかである。補助金を介護職以外の賃上げに振り分けようとすれば、介護職員の賃上げ分から差し引くしかない。

 「9000円」すらも、「誇大」だということである。補助金額を換算する時点で、介護職以外のすべての職員を包括したものにすべきであったといえよう。

介護経営者の「裁量」が大きい処遇改善加算

 上記の仕組みのポイントは、申請の要件を満たす職種の狭さに加えて、要件を満たす職員にそのまま金額が支給されるのではなく、経営者が支給され、経営者に処遇改善分の補助金の配分の裁量が与えられているということにある。この特徴は、介護報酬における従来の処遇改善の仕組みから備わっていたものだ。

 現在、介護の処遇改善には、介護報酬において「処遇改善加算」と「特定処遇改善加算」の二つが当てられるようになっている。それぞれ一定の要件を満たした事業所が申請すると、介護報酬に組み込まれて事業所に支給される仕組みだ。ただ問題として、いずれも人件費の改善に用途は決められているのだが、直接的に支給されるのはあくまで事業所であり、その先の職員に対する配分は、経営者側に大幅な裁量がある。

 処遇改善加算は、介護職員を対象としているのだが、どの介護職員にいくら配分するかは、経営者の判断に委ねられている。均等に支払う必要も、全員に支払う必要もない。一部の職員のみに多く配分しても問題ない。

 2019年から導入された特定処遇改善加算は、「経験・技能のある」介護職員に、他の介護職員より多く支給することをうたっている(介護職員の半分以下の金額であれば、他の職種に支給してもよいとされている)。その誰に「経験・技能」があるかという判断も、介護福祉士の資格を持つ職員であるという条件さえあれば、あとはかなり「柔軟に」決めることができ、現実的にはほとんど事業者の「好み」で、誰にどの程度支払うかを左右できることになる。

 客観的な専門性という条件を満たす職員に、客観的な基準で平等に賃金が支給されるのではなく、誰に、いくら払うのかも経営者の裁量に大幅に「丸投げ」されてしまう。これまでの処遇改善費にも、今回の賃上げについても同様だ。このような「処遇改善」では、9000円どころか、1円も増えない職員も各地で相次ぐことだろう。実際に、過去の加算に際しては、「自分が加算の対象のはずなのに、自分には一切加算分が払われていない」という労働相談が相次いだ。

 また、経営者による不明瞭な判断で支給対象・支給金額を決定できるということは、労働者たちがその処遇改善費の使い道が適切かどうかを把握することが難しいということだ。どのように支給するかは職員に周知しなければならないことになっているが、支払われ方を周知されたところで、その算出の根拠は不透明にできてしまう。経営者が人件費の改善以外に流用する不正(これは違法だが)が、しやすくなっている部分も否定できないだろう。

保育園の配置基準、保育士以外の保育労働者

 保育労働者の賃上げについては、まだ、12月17日時点では、概要も公表されてはいない。ただ、これまでの政府発表などをみる限り、保育園の運営費を算出するための公定価格に上乗せする方向である可能性が高そうである。その前提で推測した場合、9000円が保育労働者一人ずつに行き渡る園は、やはりほとんどないと思われる。

 まず、配置基準の問題がある。厚労省は学年ごとの園児数に対応して職員数の配置基準を定めており、その配置基準の職員数分に応じて、公定価格の人件費分が決定されている。しかし、この配置基準の人数は、園児たちに安全な保育を行う上では少なすぎるとの指摘が、以前から相次いでいる。

 園が独自に配置基準以上の職員数を雇用するケースもあるが、だからと言って公定価格に人件費が追加支給されるわけではないため、園が備品や一人あたりの人件費を低く抑えたり、経営者の報酬を削減したりなどして対応することになる。そのように普段から配置基準以上に職員数を増やしている園であれば、一人9000円の実現は最初から無理になってしまう。

 また、介護職の場合と同様に、保育業界で勤務する看護師や調理員、保育資格を持たない子育て支援員など保育士以外の職種は、処遇改善の対象になるような議論はされていないようである。

保育経営者の「裁量」が大きい、委託費と処遇改善加算

 そして、介護同様に、保育でも事業者の裁量の問題が発生してくる。筆者はこれまでに何度もこの問題を議論してきた。ジャーナリストの小林美希氏や介護・保育ユニオンによる内閣府からの聞き取りによれば、保育園を運営するために行政が事業者に支給する委託費は、その8割が人件費分としてあらかじめ計上されている。

 しかし、事業者の新規参入を目的として、その用途については2000年から弾力運用が認められている。このため、人件費分が5割程度という保育園も全く珍しくなく、3割程度しか使わないという保育園すらあり、経営者の利益に充当しても制度上は問題ない。厳しく言えば、「ピンハネ」が合法化されている状態だ

 委託費だけでなく、保育士の処遇改善加算も、やはり事業者の裁量が大きい。例えば保育士を対象とした「処遇改善加算Ⅱ」は、「技能・経験」を積んで、園内で役職についている保育士を対象として事業所に支給されるはずの制度である。しかし、この支給された金額も、一定の条件さえ満たせば、職員のうち誰にどれくらい支給するかは事業者の裁量に任されるという仕組みになっている。

 こうした中で、保育のケースでも、「処遇改善加算分が自分に払われているのかがわからない」「どうやら処遇改善費は払われているようだが、自分より同僚が高く、なぜなのかわからない」という相談が、労働組合の介護・保育ユニオンには相次いでいるという。このように計算根拠を事実上不透明にできてしまう中で、処遇改善費の不正も横行しているという。介護同様に職員に直接ではなく、事業者に支給されることの限界でもある。

 また、これは介護でも保育でも起きていることだが、処遇改善加算などの補助金について、申請自体を経営者が忌避しているケースもある。特に、自治体が独自に補助金の制度をつくり、支給対象者と人件費の改善としての用途を明確に決めている場合は、経営者が人件費以外に流用したときの「法的リスク」が発生しやすいため、経営者が使う「メリット」が少なくなる。このため、「経営者が申請してくれない」という労働相談も寄せられている。

保育の待遇改善には、どのような政策が必要なのか?

 公的に人件費の金額が制度上うたわれているにもかかわらず、支給額や支給対象者がそもそも少ないこと、さらに賃金の決定において経営者の裁量が大幅に認められていることによって、「ピンハネ」や差別的な待遇格差を受け、賃金がほとんど上がらない介護・保育労働者は現在でも多い。これは労働者間において「分断」を生んでおり、今回の待遇改善を受けても同様のことが起きるだろう。

 一体、この経営者の恣意的な賃金の決め方に対して、どのように歯止めをかければ良いのだろうか。労働組合の介護・保育ユニオンは、保育労働者の労働条件改善のために、公開の要求を出している。そこでは、(1)委託費のルールづくり、(2)配置基準の引き上げ、(3)それらを前提とした公定価格の引き上げが挙げられている。弾力運用でほとんど自由化されている委託費に、職種別最低賃金のようなルールをつくることは重要な取り組みである。(2)(3)は、本記事でも述べてきた通りだ。

 しかし、今回の「9000円」の賃上げにおいて、政府内では(1)〜(3)のような提案が出てくる気配は今のところない。そこで介護・保育ユニオンでは、国や自治体、事業者に対して上記の要求を求め、保育労働者に正当な評価を求めるためのデモも予定しているという(末尾参照)。

 政府が見かけ倒しの「分配」しか行わない現状に対して、労働運動を通じて、保育労働者が待遇改善のための政策制度要求を行うことは非常に重要な取り組みである。

賃上げを実現するためには、労使交渉が必要

 介護や保育労働の正当な評価を求める上で、政策制度要求と同時に重要なのが、労働組合による団体交渉である。岸田政権は、本記事の冒頭で引用した閣議決定で、「民間部門における春闘に向けた賃上げの議論に先んじて」、今回の介護・保育職員の賃上げを政府が行うと述べている。しかし、これらの業界において、制度上の改善をしっかり経営者に反映させ、労働条件の改善を確かにするためにこそ、労使交渉は不可欠だ。

 実際、介護・保育ユニオンでは今年度、株式会社が全国規模で運営する認可保育園において、正社員保育士に関してのみだが、一律月2万円の賃上げを勝ち取っている。重要な一歩ではあるが、それでも賃金水準は高いとはいえない。やはり、委託費そのものを引き上げる必要もある。要するに、委託費の引き上げと労使交渉は、賃金を実効的に引き上げるための両輪なのである

 また、労働組合が実現できるのは「賃上げ」だけではない。現在、利益目的の経営者が増加する中、介護や保育の虐待や事故の報道が相次いでいる。そうした職場では「低コスト」でより多くの利用者を管理できる方法に「ケア」が成り下がっていることが多い。介護労働者、保育労働者が利用者の安全を第一にケアを行える職場環境をつくることも、労働組合の重要な役割である。

 とは言っても、当事者たちが経営者に対して立ち上がるのには、さまざまなサポートが不可欠である。前述の介護・保育ユニオンの母体である労働組合・総合サポートユニオンでは、学生や社会人によるインターンも募集している。福祉職場を志している学生や子育て中の労働者らが、上記のデモや団体交渉を支援しているという。自身がケアワーカーでない方でも、声を上げるケアワーカーの運動に参加・支援することは、重要な後押しになるはずだ。

 このままでは、岸田政権の「分配」がもたらすのは、経営者による「不正」な利益追求の促進や、経営者による給与の差別化による労働者間の「分断」になってしまうのではないだろうか。そうではなく、労働者の団結による、労働条件、そしてケアの質の改善をぜひ目指してみてほしい。

※参考「保育士一斉退職」の前に 辞めずに保育園を改善させる方法とは

*参考:「保育は“9000円”じゃ良くならない!デモ 〜保育に正当な評価を!〜」

日時:12月19日(日) 14:00集合

場所:新宿中央公園 水の広場

主催:介護・保育ユニオン

無料労働相談窓口

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*関東、仙台圏の保育士、介護職員たちが作っている労働組合です。

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*筆者が代表を務めるNPO法人。訓練を受けたスタッフが法律や専門機関の「使い方」をサポートします。

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03-6804-7650

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ブラック企業対策仙台弁護団

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NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。

NPO法人「POSSE」代表。年間5000件以上の労働・生活相談に関わり、労働・福祉政策について研究・提言している。近著に『賃労働の系譜学 フォーディズムからデジタル封建制へ』(青土社)。その他に『ストライキ2.0』(集英社新書)、『ブラック企業』(文春新書)、『ブラックバイト』(岩波新書)、『生活保護』(ちくま新書)など多数。流行語大賞トップ10(「ブラック企業」)、大佛次郎論壇賞、日本労働社会学会奨励賞などを受賞。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。専門社会調査士。

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