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月7万円で「生活保護廃止」 竹中平蔵氏が提唱するベーシックインカムは何が問題か?

今野晴貴NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。
画像はイメージです。(写真:アフロ)

 東洋大学教授・パソナグループ取締役会長である竹中平蔵氏のベーシックインカム(以下、BI)をめぐる発言が波紋を呼んでいる。

 注目を集めているのは9月23日に放送されたBS-TBSの「報道1930」での同氏による提案だ。竹中氏はこの番組の中で、「毎月7万円のベーシックインカム」を導入することで「生活保護が不要になり、年金もいらなくなる。それらを財源に」と大胆な提案を行った。これをきっかけに、BIをめぐる論争が再燃している。

 あまり深く考えなければ、無条件に毎月7万円の給付が得られることは、喜ばしいことに感じられるかもしれない。しかし、この魅力のなかには、「BIの罠」とでも呼ぶべき誤解が潜んでいる。BIは、文脈によっては、より不安定で過酷な労働に人びとを駆り立てる可能性もあるのだ。

 本記事で、BIについての基本的な解説をしたうえで、竹中氏が提案するBIが、働く人びとにとってどのような意味をもつのかを検討していこう。

ベーシックインカムの「メリット」

 一定額の現金を給付するというBIは、原理的には「労働と所得を切り離す」ことを目的に提唱されてきた。給付に際しての条件をなくし、すべての人に無条件で(労働を条件としないで)一定額の現金を給付することで、これが実現する。

 「労働と所得を切り離す」とどんな効果があるのだろうか?

 現在の日本では、失業者は雇用保険が切れると派遣やアルバイトなど、低処遇の仕事でも働くしかない。日本の雇用保険の要件は厳しく、失業者の受給率は2割程度という極めて低水準である。そのため、常に失業者の8割の人が、厳しい就労圧力にさらされている。

 同時に、この厳しい就労圧力は、とんでもない過酷労働を強いる「ブラック企業」で働くことや、過労死しそうでも辞めることができないという状況にもつながっている。

 この状況に対し、BIによって労働者の基礎的な収入を確保されれば、労働者は嫌な仕事に従事する必要はなくなる。そのため、劣悪なブラック企業や非正規雇用が減少していくことが期待できるのだ。

 また、現状では、生活保護を受けようとすれば、「甘えている」とバッシングされてしまう。しかし、BIの場合には、労働と切り離された審査不要の現金給付であるために、そのようなスティグマ(烙印)を発生させることもない。

 さらに、労働を条件としない所得保障であるBIは、社会保障給付の手続きを簡素化し、給付対象を選別するなどの無駄な行政コストを削減することにもつながる。

 これらの「メリット」があるからこそ、BIは生活保護に代わる政策として、注目を集めてきた。

罠(1) ベーシックサービスとの対立

 では、「BIの罠」はどこにあるのか。第一の罠は、BIを実現しようとする際に、他の社会保障政策と予算の都合上対立してしまうという点だ。

 人間には、医療や介護、教育、保育、住宅など、生きるために必要不可欠の、いわば「ベーシックニーズ」が存在する。それらのニーズを保障する政策は、現金給付であるBIに対し、「ベーシックサービス(BS)」と呼ばれる。

 医療や学校を無償とするBSが実現すれば、生活にかかる経費は非常に少なくなり、過酷労働に無理矢理従事する人や、生活保護を受給する必要がある人は、かなり絞られてくるだろう。

 また、ベーシックサービスを全員に保障すれば、必要な人が誰でも給付を受けることができるため、やはり選別などの行政コストは削減し得る(ただし、無償となる分給付が多くなる点や、効率的なサービス給付主体に関する課題も指摘されている)。そのため、スティグマを削減する点でBSはBIと同じような効果を持つ。

 ここで問題なのは、先に述べたように、このBSとBIは「対立する関係にある」ということだ。現実の予算が限られている中でBIを実現しようとすれば、ほぼ必然的にBSを削減しようという話になるからだ。

 少し詳しく考えていこう。現在、単身世帯の生活保護支給額の水準は月額12万円程度である(後述するように、竹中氏のいう「7万円」は生活保護水準よりもずっと低い)。財政学者の井手英策氏によれば、これを全国民に給付する場合、173 兆円の予符が必要になる。

 これを純増税で賄うとすれば、消費税1%で2.8 兆円の税収のところ、税率を現在よりも62%上げなければならない。したがって、既存の社会保障を廃止し、これをBIとして給付することにならざるを得ない。

 井手氏によれば、現在の社会保障給付費は121 兆円であるため、医療も含めて全廃するとしても、さらに23%の消牧税の引き上げが必要になるという。

 参考:『ベーシックインカムを問い直す』所収「財政とベーシックインカム」

 このように、現在の税制の下でBIを実現しようとすれば、既存の社会保障政策の縮減は不可避である実行されることになり、それは「個々人の生活ニーズ」を保障するBSの縮減を意味するのである。

 なお、仮に消費税の大増税によってBIを実現しようとすれば、結局可処分所得が大幅に減少するため、12万円よりもさらにBIの額を増加させなければ生活水準を維持できなくなる。

罠(2) 生存が保障されない

 

 BSとBIの対立は、さらなる「罠」をも引き起こす。「生存が保障されない」ということが、第二のベーシックインカムの罠である。

 仮に、BSの削減に加え、何らかの税制措置によって、月額12万円の現金給付が実現したとしよう。そうした場合には、今度は「12万円では必ずしもBSをまかなえない」という問題に直面することになる。

 医療や教育など、人々の生活上のニーズは異なっているため、12万円だけでは生活できない場合も多い。例えば、突然親が要介護になってしまえば、その負担は現役世代が負わなければならないし、必要な医療の程度は予測できるものではない。

 BIの最大の問題は、実際には最低限の生活を保障しないと言うことなのだ。そして、将来の不安が大きければ、貯金のためにより多くを稼ぐ必要もでてくる。見通しが立たない分、その必要額は、際限なく膨らんでしまうだろう。

 その結果、BIの効用だとされる「労働と賃金の切り離し」は実現することがない。

 ベーシックニーズが十分に保障されない社会では、生活に必要なモノを確保するためには、やはり労働が必要とされるからだ。

 このように、ベーシックニーズを満たすための社会保障制度が削減される前提で、BIが進んでしまう場合には、今よりも家計は圧迫され、かえって過酷な労働へと人びとを駆り立てる危険性をも孕んでいる。

竹中氏が提案するベーシックインカム

 次に、竹中氏によるBIの提案を具体的に検証してみよう。番組で提案された議論は、同氏の著書『ポストコロナの「日本改造計画」』(PHP研究所)のなかでも展開されている。

 同書でも、番組と同様、「1人に毎月7万円を給付する案は、年金や生活保護などの社会保障の廃止とバーターの話でもあります。国民全員に毎月7万円を給付するなら、高齢者への年金や、生活保護者への費用をなくすことができます」と述べている。

 さらに、同書によると、本来は「労働と所得を切り離す」ことに目的があるはずのBIだが、竹中氏にとってはそうではないようだ。

 「毎月20万円もらえるとなれば、働かない人も増えるでしょう。これが月に7万円なら、不足分を働いて補おうとなります。このようにして、極めて公平な社会保険制度を、新たに作り上げていくべきです。」(前掲書)

 竹中氏にとっては、働かなくても十分な金額を保障することははじめから想定されていない。そもそも、労働と所得の切り離しを目的としない点に、竹中氏が提案するBIの核心があると見て良いだろう。

年功賃金に依存した日本の社会保障

 では、竹中氏が提案するBIを導入すれば、日本社会はどうなるのか。

 実は、日本では、BIと対の関係にあるベーシックニーズを満たすための社会保障政策(BS)が、そもそも貧弱である。この点を留意して考えていく必要がある。

 戦後の日本社会は、現物給付による社会保障政策ではなく、年齢と共に上昇する年功賃金によって、生活ニーズを充足するように設計されてきた。 

 そのため日本では、ベーシックニーズを保障するための社会保障は、他の先進国に比してきわめて脆弱である。住居や教育の費用の自己負担は大きく、多くの人が「ローン」によってそれらを賄っていることが象徴的だ。

 老後の生活や育児、教育など多くのベーシックニーズは、年功賃金を前提していたり、企業福祉に依存しているのである。

 したがって、年功賃金や企業福祉が適用されない非正規雇用労働者は低賃金であるばかりでなく、ベーシックニーズを満たすことができない「ワーキングプア」の状態に置かれ、まともに世帯形成もできず、社会的にも差別されている。

 毎月7万円のBIが実現したとしても、住居や医療、介護などのベーシックニーズが満たされるわけではないので、非正規労働者の生活は不安定なままだ。

 BIの導入が生活保護や年金の削減とセットで行われ、既存の社会保障制度まで削減・解体していくことになれば、非正規労働者たちは、ますます貧困状態に落とし込まれ、過酷な労働に駆り立てられてしまうことにもつながるだろう。

生存すら保障しない究極の自己責任社会

 竹中氏は生活保護制度の廃止も主張しているが、これもはなはだしく危険な主張である。

 生活保護制度は、収入が、国が定める最低生活費を下回り、処分可能な高額な資産などを持っていない場合に利用できる。また、生活費や家賃だけでなく、必要に応じて医療や介護、教育、出産、生業、葬祭などの費用が保障されている。

 つまり、生存に不可欠の社会的サービスを、最終的に保障している制度こそが、「生活保護」なのである

 毎月7万円のBIと引き換えに、この最低限度の生存保障を廃止するのであれば、「7万円はあげる代わりに生存は保障しない」と言っているのに等しい。これでは生存権の否定である。

 国家は毎月7万円配り、それ以上のことは「自己責任」で行なわれるということになれば、非正規雇用労働者の貧困や差別はよりいっそう強化され、あるいは、高額医療費のかかる病人や要介護者の「生存権」さえも否定されてしまうことになるのだ。

賃金引き下げにBIが利用される

 さらに、日本ではBIの導入が賃下げにつながる可能性も高い。

 欧米の場合、労働条件は、属性や企業規模にかかわりなく「仕事(ジョブ)」で賃金が決定される「同一労働同一賃金」の原則が確立している。

 しかし日本では、企業を超える横断的な賃金規制はほとんど存在せず、評価基準も属人的であり、企業による恣意的な決定が可能となっている。

 そのため、労働条件は、企業の都合によって「柔軟」に変更されるのである。近年の「ブラック企業」問題をみればこのことは明らかだ。

 仮にBIで毎月7万円されたとしよう。月給20万円の労働者につき7万円の給付があったとしても、給与が13万円になってしまえば意味はない。

 単純すぎる図式化であると思われるかもしれないが、これと実質的に変わらない方法は、固定残業代を典型として、諸手当や各種の法制度の適用を操作することで、周到に実施することが可能であるし、実際に広範に行なわれている。

 (ブラック企業の実態については、拙著『ブラック企業 日本を食い潰す妖怪』『ブラック企業2 「虐待型管理」の真相』を参照してほしい)。

 したがって、BIの導入は、それを口実に、企業の人件費の節約につながる可能性が高いのである。実際に、現金給付は賃下げにつながることは、その最初の実験である19世紀イギリスの「スピーナムランド制」以来、つとに指摘されてきた。

 竹中氏も前掲書のなかで、今回のパンデミックにより「生産性の低い人の給料は下がらざるを得ないかもしれません。その分をある程度、ベーシックインカムで保証するのです」と述べており、(社会保障削減とセットになった)BIと賃下げが同時に進むことを示唆している。

竹中氏の目指す日本社会像

 竹中氏はBIを「国民のために」と言うが、その内容を見ると、本当に目指しているのは、いっそうの低福祉社会であり、生存ギリギリの状態で人びとが「どんな条件でも」働き続けるような、厳しい底辺労働市場の拡大のように思われる。

 そして、それは「派遣労働市場」の拡大に直接結びついていることも指摘しておかなければならない。

 非正規雇用は90年代中頃から2000年代にかけて急激に増大していった。竹中氏は、小泉政権のもとで経済財政政策担当大臣として、労働者派遣法の規制緩和をはじめ、非正規雇用を拡大する諸政策の旗振り役だった。

 また同氏は、現在、内閣日本経済再生本部産業競争力会議(民間)議員や内閣府国家戦略特別区域諮問会議(有識者)議員も務めており、人材派遣のリーディング企業であるパソナグループの取締役会長という立場でもある。

 竹中氏が、独自のBI論を主張し、非正規雇用の賃下げを自ら容認する姿勢を示している背後には、自分自身に「利益」があるのではないかと批判されても仕方のない構図だろう。

 コロナ危機に乗じて、BIという甘言を用いながら、さらなる雇用の流動化と不安定化を推し進めていこうという意図があると考えざるを得ない。

本当のBIとは

 BIと言っても、そのヴァリエーションはさまざまである。私たちが、本当の意味での自由を実現するためには、竹中氏が提唱するようなBIに飛びついてはいけない。

 医療や介護、教育、住宅などのBSが社会保障制度によって保障されていることが、BIによって自由を実現するための前提条件になるのだ。

 この論点については、筆者も寄稿している『ベーシックインカムを問いなおす』(法律文化社)や拙稿「ベーシックインカムを日本で導入しようというならば」(『世界』2020年9月号)で、より詳細に検討を行ってきたので、ぜひ参照していただきたい。

 同様のことは、BIが議論される際にはつねに警鐘が鳴らされてきた。たとえば、気鋭の若手政治学者であるニック・スルニチェクは、BI推進派の立場から、BIは両義的な政策であるとした上で、既存のサービスを削減して実現する場合には新自由主義政策にしかならないことを指摘している。

 また、日本でも著名な人類学者デイヴィッド・グレーバーは、『ブルシット・ジョブ』のなかで、公的社会サービスのさらなる充実こそがBIが機能する前提であると論じている(残念ながら、グレーバーはつい先日亡くなってしまった)。

 BIは、すべての人に一定額の現金を給付するというそのシンプルさゆえに人びとを惹きつけるが、その「負の側面」にも目を向け、その有効性を議論していかなければならない。

おわりに

 菅新首相は竹中氏と近い関係にあり、今後、竹中氏が新政権の政策をリードするとみられている。

 2000年代に非正規雇用労働者の拡大を推し進めてきた竹中氏が再び表舞台に立ち、国家や企業の利益のために、私たちの生存権が脅かされようとしている。

 竹中氏の主張するBIで、私たちの生活が劇的に改善することはない。むしろ本記事で検討してきたように、竹中氏が提唱するBI論は、生活の不安定化を促進し、人びとをよりいっそう労働に駆り立てていこうとするものである。

 竹中氏が目指す社会像に対抗していくためには、NPOや労働組合などを通じて、生存する権利のために求め声をあげていくことが、何より重要であろう。一方的に「上から」働き方や生活を決められることに従うのでなく、生活可能な賃金や社会保障を自分たちで「下から」求めていくことが、この状況を変えていくために必要だと思う。

NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。

NPO法人「POSSE」代表。年間5000件以上の労働・生活相談に関わり、労働・福祉政策について研究・提言している。近著に『賃労働の系譜学 フォーディズムからデジタル封建制へ』(青土社)。その他に『ストライキ2.0』(集英社新書)、『ブラック企業』(文春新書)、『ブラックバイト』(岩波新書)、『生活保護』(ちくま新書)など多数。流行語大賞トップ10(「ブラック企業」)、大佛次郎論壇賞、日本労働社会学会奨励賞などを受賞。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。専門社会調査士。

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