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労働基準監督署の民営化は「切り札」か?

今野晴貴NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。

3月28日、「働き方改革」の実行計画が決定された。その柱の一つが長時間労働規制である。この実効性を担保するための強制力として期待されているのが、労働基準監督官だ。しかし、その期待の一方で、監督官は人員不足に陥っており、会社の調査や指導に支障をきたすという実態があった。

そんな折、内閣府の規制改革推進会議において、監督官不足に対する驚くべき「解決策」を検討する専門会議がスタートした。3月16日に第一回が開催された「労働基準監督業務の民間活用タスクフォース」である。会議名からわかるように、労基署による会社への立ち入り業務を、民間に、より具体的には社会保険労務士に委託するというのである。

過労死やブラック企業対策を社労士に委託して、果たしてうまく機能するのだろうか。現場の監督官からは、その効果を危ぶむ指摘が相次いでいる。

すでに「失敗」している民間委託

それというのも、実は、すでに多くの労基署では「民間委託」が一部業務で実施されているのだ。窓口の相談業務には、現在も社労士や民間企業の人事担当のOBが配置されていることが多い。

また、事業単位で民間委託されている業務の先例として、「労働条件相談ほっとライン」がある。監督署が閉庁している夜間や休日に電話相談を受け付けるもので、2014年から厚労省の事業として社労士団体など、民間事業者に委託して行われている。

労働基準法違反のおそれがあり、相談者が監督署による対応を求める場合には、所轄の監督署に情報提供されるルールとなっているという。つまり、民間団体が「最初の窓口」となり、その後、本業の権限を持った監督官に「引き継がれる」仕組みだというわけだ。

この相談件数は29124件(2015年度)、22951件(2016年度、12月まで)と、相当な数に上る。しかし、大都市の労働基準監督署に勤務している、ある現役労基署監督官は次のように語る。

「(労働条件相談ほっとラインは)開始されて2年ほどになりますが、私自身は、ほっとラインから情報提供された事例を1件も見たことがありません。1件も、です」

この地域においては、労基法違反について監督官の対応を求められる労働相談がなかったのだろうか。同監督官は背景を推測する。

「たまたまそういう相談がなかったとも考えられますが、おそらく別の理由があります。利益を上げなければならない民間事業者からすれば、監督署に情報提供することは手間が増えるだけで何のメリットもなく、実際には相談者の希望があっても情報提供されていないケースが多くあるのでは」

後でも述べるように、現在政府が検討している「民間事業者が監督した上で、悪質な事業所のみ監督官が再度監督する」という案も、現実的ではないとこの監督官は見ている。

監督官は微増でも、労基署職員は6年で81名が削減

では、「民営化」以外に本当に手はないのだろうか?

まずは、労働基準監督署の監督署の人数の実態を見てみよう。現在、労働基準監督官は全国に約3200人が配置されている。さらに実際に現場で監督業務に従事するのはその半分の1500人程度(管理職や、後述する労災補償と災害防止の業務担当などを除いた数)しかおらず、監督指導対象となる事業所数が全国で約400万、労働者数は約5000万人であることからすれば、企業に対する監督は非常に手薄となっている。

こうした人員不足の実態が問題視され、ここ数年は監督官の採用が微増している。全国の労働基準監督署に勤務する監督官は、3169人(2011年度)から3241人(2016年度)に増員された。それでも、監督署の人員不足は拡大するばかりだ。そこに問題の本質が隠されている。

あまり知られていないのだが、労働基準監督署にいる専門職員は監督官だけではない。労働基準監督署では監督官のほかに、主に労災補償を担当する事務官と、主に安全衛生を担当する技官という専門官が働いている。ところが2008年10月以降、この事務官と技官は新規採用が廃止され、定年退職で人員が大幅に減少している。その結果、監督官以外の労基署の職員数は1781人(2011年度)から1628人(2016年度)に大幅に減少した。

その削減された事務官や技官の穴埋めを行っているのが、監督官だ。事務官・技官の新規採用の廃止とともに、監督官の業務には労災補償と災害防止が追加された。これらの担当に配属されれば、その監督官は数年間、監督業務に従事できなくなる。

つまり、「監督官の不足」は自然現象のように語られているが、本当は政策的・意図的に進められているのだ。それを「不足しているから民営化するしかない」というのは、おかしな議論だろう。しかも、この事務官・技官の不足は、監督能力そのものにも悪影響を及ぼしているという。

あるベテラン監督官は、近年就任した監督官が監督業務に継続して従事することができないため、監督業務に必要な知識を十分に身につけられないことを懸念していた。監督官が他業務を代替することで、監督官の経験不足や専門性が低下しているというのだ。

また逆に、監督官が兼務している労災補償や災害防止の業務の専門性も高まりづらいため、東京オリンピック前の建設ラッシュでの労災防止も適切に遂行できないことが、危ぶまれているという。

このように、「現場の声」を聞くと、民営化を叫ぶ前にやるべきことが、まったく見過ごされていることがわかる。

監督官と同じ権限を社労士に?

さらに、監督官でさえ実行能力の不足が問題となっている中で、本当に「素人」が効果的な業務遂行ができるのかという問題もある。

民営化を検討している政府の規制改革推進会議では、社会保険労務士やその法人に委託することを念頭に議論が進められている。

そして、16日に行われた同タスクフォースの第1回会合では、この部会の主査である八代尚宏氏が、警察庁や法務省などでも10年前から、駐車違反の取り締まりや刑務所行政で民間事業者の活用が推進されていることを引き合いに出し、労働基準監督行政でも同様にできると述べている。

八代氏のイメージでは、定期監督を、社会保険労務士等を雇用する民間事業者に委託することで、監督官をより重大な違反の可能性の大きな申告監督に重点的に配置できるとしている。また、最初に民間事業者が監督し、悪質な事業所のみ監督官が再度監督するという提案もしている。

定期監督とは、毎年定める年度計画にもとづいて実施される調査であり、申告監督は労働者の申告を受けて行われる調査を指す。しかし、労基法違反率(2015年度)は定期監督で69.1%、申告監督で70.7%と大差はなく、どちらが重大な違反が大きいという分け方はできない。

もし、この定期監督を冒頭のように、下請けの「やっつけ仕事」でこなされてしまうと、現在は取り締まられている多くの事件が、闇に葬られることになってしまうのだ。

また、そもそも、権限の不安定な民間事業者の調査に対して、会社がどれくらい協力するかは疑問だ。権限のあるはずの監督官の調査にすら、「根拠はあるのか」と非協力的な大企業は多い。民間事業者の調査をごまかした後に、証拠を隠蔽することなども想定される。私の元には、「労基署が指導に来たが、会社の弁護士に追い返されてしまった」という相談も度々寄せられている。

八代氏はこうした批判を想定してか、第一回タスクフォースにて、

*  特別法で公務員と同じ権利義務を民間事業者にも義務付け

*  民間事業者の守秘義務、公正な監査

*  民間事業者による監査への妨害行為には業務執行妨害の適用

などを提案し、社会保険労務士に、監督官と同様の権限と義務を与えるべきだと主張している。しかし、監督官は事業所に許可なく立ち入ったり、尋問や資料の閲覧をするなど、駐車違反の取締り職員よりはるかに重大な権限が必要なのだが、それを社労士に与えられるはずがない。警備員に警察の家宅捜索を任せることができないのと同じことだ。

繰り返しになるが、現状でも、事務官や技官が不足し、監督官の「専門能力の確保」さえ難しくなっている。社労士に権限を無理やり与えるよりも、本体の立て直しの方がずっと急務なのではないだろうか?

厚労省事業で労働相談をする社労士さえも「企業側」

そうした権限や技能の問題に加え、さらなる懸念もある。

そもそも、社労士は一般に経営者を顧客とした業務を行っており、その業務と企業への立ち入り業務が矛盾をきたす可能性があるのだ。

自分や所属法人の顧問先がかかわる相談があった場合、社労士は監督業務を積極的に行えないだろう。たとえ守秘義務を課したとしても、大いに疑問符がつく。

また、直接顧問先とバッティングしなくとも、社労士は普段から「経営側の業務」を行っているために、労働者の利益に知らず知らずのうちに反してしまうこともある。

上記の厚労省委託事業の「労働条件相談ほっとライン」を相談員として受託したある社労士団体は、ホームページで就業規則の作成を宣伝するなかで、次のように、「経営側の利益」を代弁している。

「一般的にインターネット上にある就業規則や市販されている就業規則等の雛形は、どちらかといえば「労働者に有利」な規定になっていることが多いように感じます。……就業規則を作成する場合は、「労働者の義務」を定めた規定を中心に、会社の実情に即して定めをしなければ、会社にとって価値ある就業規則にはなりません」

このような主張は「一般的な社労士」としては珍しくないが、厚労省の事業として労働相談を受けていた社労士でさえ、こうしたスタンスであることは大問題だろう。端的に言って、「経営者側」として日々活動している社労士が、突然「労働者側」として行動できるのかといえば、それにはかなりの無理がある。その結果、本来従事すべき「労働者の利益」に反した行動を、無意識にとってしまうのだ。

私は講演会などで、聴衆として訪れた社労士の方とお話する機会も多い。監督署で相談業務を引き受けている社労士と話すと、私たち「労働側」の専門家にとっては、驚くほど低い「解決水準」を提案していることが多々ある。

つまり、本来であれば1年分の給与が保障されてもおかしくないような事案でも、「会社側の主張」に慣れきっている社労士は、最初から「3か月分が妥当です」と労働者に伝えてしまっているケースがあるようなのだ。もちろん、例外はあるだろうが、このような実態は相当に広がっていると思う。私が話す社労士の方々はかなり良心的で、私の講演を聞きに来るくらいに勉強熱心だからだ。

もし本当に社労士などに民間委託するのであれば、最低限、使用者側の顧問はすべて解除する規則を設けるべきだろう。また、法人に関しても、「労働側の業務」に専業する法人に限定すべきではないだろうか。

(尚、末尾に労働相談窓口を挙げておいた。監督署の総合相談窓口などで「争えません」と言われても、実際には争うことができる場合は非常に多い。そのような経験をされた方はぜひせひ「セカンドオピニオン」を聞いてみてほしい)

おわりに

違法労働事件は、強い労使の利害に挟まれている。こと法律問題に関しては、「労働側」と「使用者側」の利益は真っ向から対立し、「中立」や「公正」が成り立つことはあまりない。例えば、給与が発生する「残業」なのか、「勝手に仕事をふやしただけ」なのか。この両者の主張の間に「中立」はあり得ない。

だからこそ、「監督官」という司法警察員が設置され、強力な法的権限の元に活動している。これまで見てきたように、安易な「民営化」をすすめ、労基署本体の人員削減と技能低下を推し進めていけば、「働き方改革」はむしろ衰退し、過重労働は増加していくことになるだろう。

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NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。

NPO法人「POSSE」代表。年間5000件以上の労働・生活相談に関わり、労働・福祉政策について研究・提言している。近著に『賃労働の系譜学 フォーディズムからデジタル封建制へ』(青土社)。その他に『ストライキ2.0』(集英社新書)、『ブラック企業』(文春新書)、『ブラックバイト』(岩波新書)、『生活保護』(ちくま新書)など多数。流行語大賞トップ10(「ブラック企業」)、大佛次郎論壇賞、日本労働社会学会奨励賞などを受賞。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。専門社会調査士。

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