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最低賃金の引き上げは労働問題を解決するか?

今野晴貴NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。

今年度の最低賃金の全国平均額が初めて800円を超えたことが話題となっている。最低賃金は、都道府県ごとに法で定められた最低限の時給で、23日の厚生労働省の公表によると、今年10月以降に適用される最低賃金の改定額が前年度から25円上がり全国平均で823円となったという。

<最低賃金>時給、初の800円台 16年度全国改定

最賃の引き上げに関しては近年、欧米を中心に市民運動が盛り上がりを見せる中で、日本でもデモが行われ、先の参議院選挙では各政党が関連する政策を打ち出すなど、重要な政治的テーマとなっている。

では実際、今回の最賃引き上げ政策が、非正規社員の貧困やブラック企業の過酷労働といった、現代日本の労働問題を解決することになるのだろうか。本記事では最低賃金が低すぎることが原因で引き起こされてきた労働・貧困問題を時系列に確認したうえで、いくつかのパターンを想定して、最賃の引き上げが与える労働側への影響について考えてみたい。

海外の最低賃金との比較

まず、議論の前提として日本と海外の最低賃金の額と比較してみよう。

日本労働政策研究・研修機構が発行する『データブック国際労働比較 2016』によれば、アメリカ合衆国の最低賃金は州内で定める「州別最低賃金」と全国一律の「連邦最低賃金」があり、前者に関しては、もっとも低いワイオミング州が5.15ドル(現在のレートで517円)、もっとも高いコロンビア特別区で10.50ドル(1,054円)となっている。また、後者の全国一律の「連邦最低賃金」は7.25ドル(727円)に定められている。

さらに、イギリスは6.70ポンド(886円)、ドイツは8.5ユーロ(964円)、フランスは9.6ユーロ(1,089円)であり、いずれも全国一律の金額である(尚、ドイツについては今年いっぱい経過措置が設けられている)。

全国一律の最低賃金としては、日本は先進国の中で低い方に入ることが分かるだろう。だが、それもこの10年ほどで急激に引き上げられてきており、2006年には673円であったことを考えれば、これまでの日本の最低賃金がいかに低かったのかが分かる。

日本の最低賃金が低い理由

なぜ日本の最低賃金は低いのか。その背後には、女性労働者の差別賃金の容認がある。いわゆる「主婦パート」と正社員の賃金格差の問題である。

戦後、終身雇用・年功賃金をベースとした「日本型雇用」が確立していた時代においては、家族の労働についてもそれに合わせたモデルが広がっていた。

正社員男性が年功賃金で稼ぎ主となり、女性は「パート」として家計補助的に働くというのが当たり前とされてきたのである。その中で、女性の賃金は「お小遣い」程度でよいと考えられていた。

また、こうした賃金差別を政府だけではなく、企業内の労働組合も積極的に容認していた。日本の労働組合はほとんどが企業内組合であり、それらは男性中心で運営されており、彼らは正社員の賃金の上昇を要求する一方で、非正規労働者の賃金や労働条件についてはほとんど関与していなかった。男性の「家族を支える賃金」を守るためには、「女性=非正規」の賃金は生活できないほど低くても仕方ないというスタンスだったのである。

貧困問題の発生

このような賃金政策の結果、まず生じたのは、シングルマザーの貧困問題である。家計を成り立たせる上で稼ぎ主の男性正社員の存在が前提となっている以上、その前提がなく最賃ギリギリの非正規労働で家計を成り立たせるしかなかったシングルマザーの経済状況は厳しいものであった。よく日本型雇用が「機能していた」と言われる高度経済成長期やその後の70〜80年代においても、実はシングルマザーの貧困問題は存在していた。

その後、2000年代には、派遣労働者や契約社員などの非正規労働者の割合が社会全体で増えていった。総務省のデータによると、全労働者における非正規雇用の割合は、1990年には20.2%であったが、2000年には26.1%、2015年には37.5%となっており 、急激に上昇している。

その結果、「主婦パート」ではない非正規雇用が若者を中心に増大していった。つまり、非正規雇用の中に、家計を補助するのではなく、独立しなければならない「家計自立型非正規雇用」が広がっていったのだ。契約社員や派遣社員は低賃金の非正規雇用であるのに、その賃金で家計を自立させなくてはならならず、その多くが不安定・低賃金のために貧困状態に陥ったのである。

ブラック企業問題と最低賃金の関係

しかし、問題はそれだけではない。最近では正社員の問題であるはずのブラック企業問題においても最低賃金の低さがネックになっている。

ブラック企業では近年「固定残業代」と呼ばれる手法が広がっている。これは月給に数十時間分の残業代を含めるなどして、無限の残業を合法化しようと画策するものである。

有名なのが、「日本海庄や」などを運営する外食大手の株式会社大庄の例である。

大庄では、2007年に入社4か月の男性正社員が月平均112時間の残業の末に過労死したが、この時契約していた内容に長時間労働の原因があったとみられている。

新卒者の最低支給額が19万4500円とされていたが、実際にはこれは80時間の残業をして初めて得られる金額であって、本来の最低支給額は12万3200円。これは時給換算すると770円程度で、当時その地域での最低賃金ギリギリのラインであったのだ。

つまり、大庄は770円という低い最低賃金を利用して、19万円という支給額に、80時間もの残業代を含みこませることができたのだ。

このように、ブラック企業の「使い潰し」労働も、最低賃金が低いためにできるという側面がある。 

(ただし、「固定残業代」の場合、入社前にそうした処遇を聞かされていなかったり、違法な手段を用いている場合がほとんどを占めているため、法的に争えば不払い分は回収できる。末尾の相談窓口もぜひ参考にしてほしい)。

「主婦パート」の変化

一方で、かつては家計補助的で、低賃金である代わりに業務上の責任も小さかった「主婦パート」においても変化が現れている。最近では男性の収入の減少が続く中で、「主婦パート」も家計に占める重要性が増しており、そこにつけ込んだ事業主がシフトを強要する問題などが頻発しているのだ。これは「ブラックバイト」ならぬ「ブラックパート」とも呼ばれている。

かつて女性の年齢別の就業率の変化は「M字型」と呼ばれていた。これは女性が新卒で入社後、結婚や出産を機に一度離職を余儀なくされ、子育てがひと段落したのちに「主婦パート」としてまた働き始めるという状況を表している。

現在、このグラフが「台形」に近くなっているという。

しかしこれは必ずしも女性が結婚や出産を理由にそれ以前の仕事を辞めなくても良くなったということではない。最近でも「マタハラ」という言葉が出てきたように、そうした問題が解決されたとは思えない。

つまり、この変化は、「主婦パート」に従事する女性が、出産の直後も仕事を手放すことができず、低賃金にも関わらず働き続けているという実情を示しているのであり、それだけ主婦パートの賃金が切実なものとなっていることを示している。

最低賃金の引き上げは、貧困問題を解決するのか?

こうした現状を踏まえると、今回のような「最低賃金の引き上げ」が日本の貧困問題にとってどのような意味を持つのかが見えてくる。

ここでは2つのポイントを示したい。

(1)最低賃金の値上げだけでは不十分

まず、非正規雇用の貧困問題はどうだろうか。結論から書くと、これに関しては必ずしも最低賃金が上がったからといって解決しないだろう。

現在でも、契約社員や派遣社員の時給は1000円前後であり、最低賃金が800円か900円ほどになったとしてももらえる時給としてはまずあまり変わらない。

また、仮に時給1000円だとしても、一般的な月のフルタイム労働時間である173時間をかけたところで、月給は17万3000円にしかならない。これでは税金、社会保険料が引かれた後には15万円も手元に残らず、とても生活が維持できる水準ではない。

さらに、ここで注意しなければならないことは、日本は世界的に見て学費や住居にかかる費用が高い国だということだ。

OECDの調査 によると、高等教育段階での教育費における私費負担の割合が日本だと67.8%となっており、イギリスの35.1%やフランスの16.3%はじめOECD平均の27.4%と比べて非常に高くなっている。

それは大学の学費にも表れており、日本だと国立でも授業料だけで53万円、私立だと85万円以上するといわれている一方で、ヨーロッパ各国では学費は無料か数万円程度に抑えられている。アメリカは大学によっては学費は日本と同等かそれ以上の大学もあるものの、日本にはほとんど無い給付型の奨学金が一定程度は整備されている。

実際に現時点で、日本の大卒者の半数以上が貸与型の奨学金を借りており、数百万円単位の借金の返済に追われている。しかも、これから子供を育てるためにも、数千万円単位で教育費がかかるのである。

また、住居費の問題もある。日本だと最近、数千万円する一戸建てを購入できないのはもちろん、賃貸住宅に住もうとしても家賃が払えず、実家に留まらざるをえない若者が増えている。貧困対策に取り組んでいるビッグイシュー基金は、2014年に、首都圏・関西圏に住む年収200万円未満の若者に対してアンケート調査を行った 。その中で、親と同居している割合は77.4%に及び、理由については「住居費を負担できない」が53.7%と高く、「住居費の負担の軽減のため」という理由も9.3%を占めていた。

比較的安価な公的住宅が量的に充実しているヨーロッパの福祉国家と違い、日本では住宅においても「私費負担」が原則となっており、非正規雇用の労働者にとっては住居費が大きな負担となっているのだ。

人々の暮らしの根幹を担う住居費や学費がこうした状態である以上、たとえ最低賃金だけが諸外国並みに引き上げられたとしても、限界は明らかだろう。

(2)「ブラックパート」「ブラック企業」にはある程度の効果

一方で、主婦のパートに対してはどうか。

現在でも最低賃金に近い時給で働かされている「主婦パート」に対しては、最低賃金の引き上げは即時給のアップにつながり、ある程度の効果が見込まれると思われる。

また、最賃引き上げによって、わずかとはいえ、会社からすると「安くこき使う」ことがこれまでよりもしにくくなる。そのことは、安い賃金で、パートが職場に縛り付けられざるをえないからこそ起こっていた、ブラックパートの処遇の改善にも役立つだろう。

同時に、ブラック企業に関しても、最低賃金の引き上げは「月給」の誇大表示をこれまでよりも難しくする、という意味で効果があるだろう。一時間あたりを最低賃金で計算しても、たくさんの残業時間を含めて、ある程度の月給に収めることができなくなるからだ。

先の大庄の事例では、低い最低賃金によって、19万円足らずの給与に80時間もの残業代を含みこませることが可能になっていたが、最低賃金が例えば1000円になれば、最低賃金で働かせたとしても、19万円の給与に合法的に含ませられる残業時間は11時間ほどになる。

最低賃金の制度の課題

最低賃金が上がったことが、労働問題の解決にとって、プラスになっているのは間違いない。そして、当面最も効果が期待できるのは、主婦パートとブラック企業だろう。

だが、現状では引き上げた水準がまだまだ国際的に見ても低く、また家計自立型非正規雇用の実情からしてもこれだけではやはり不十分と言わざるをえない。

重要なのは、最低賃金がそれ単体で議論されるのではなく、その他の福祉政策の課題と併せて考えなければならないという点である。

政府内外問わず、今後はそうした方向での議論が深まっていくことも期待したい。

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NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。

NPO法人「POSSE」代表。年間5000件以上の労働・生活相談に関わり、労働・福祉政策について研究・提言している。近著に『賃労働の系譜学 フォーディズムからデジタル封建制へ』(青土社)。その他に『ストライキ2.0』(集英社新書)、『ブラック企業』(文春新書)、『ブラックバイト』(岩波新書)、『生活保護』(ちくま新書)など多数。流行語大賞トップ10(「ブラック企業」)、大佛次郎論壇賞、日本労働社会学会奨励賞などを受賞。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。専門社会調査士。

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