Yahoo!ニュース

明日のNBAを目指す選手たちへ。八村塁が取り組んだ周到な準備とメッセージ

小永吉陽子Basketball Writer
「準備と経験によって今がある」と語る八村塁(写真/小永吉陽子)

NBAを夢見た中学時代。本気で目指そうと「変わった」高校時代

「NBAに行く準備ができたと思い、アーリーエントリーを決意しました」

NBAドラフト前日の会見。どのような心境でアーリーエントリーを発表したのかと聞いたとき、八村塁は「準備」という言葉を使い、次のステージへ向かう決意を語った。大学3年が終わってのアーリーエントリーに関しては公言をしていなかっただけで、本人としては「NCAAトーナメントで敗れて大学3年間が終わった悲しさはあったが、シーズンが始まる前から決めていた」ことも同時に明かした。大学2年時からドラフト候補に名が挙がっていたことを考えれば、当然の決断であるから驚くことではないし、実際には誰もがアーリーエントリーすると思っていた。だが、改めて決意を聞くことで、八村がバスケを始めた中学1年生からの9年間で、語学や技術の習得を含め、様々な経験を積み上げて決意したことなのだと実感する。

八村塁はバスケを始めた奥田中時代、坂本穣治コーチに「塁はNBA選手になれる!」との言葉をもらい、バスケに熱中した。そして本気でNBAを目指すための取り組みを始めたのが明成高校時代だ。八村には高校時代に2つの大きな転機があった。

ひとつは取り組む姿勢が変わったことだ。八村は明成高校入学当初から期待されていた選手だったが、1年夏のインターハイの頃はまだ体力がなかった。センセーショナルな活躍を見せたのは12月のウインターカップだ。今も八村の代名詞となっているポストムーブの多彩さと、しなやかさにどよめきの声が上がった。だがそこに至るまでには、選手としての根本にある姿勢を変えることから始まっている。

1年次の八村は練習で「手を抜く」ことがあり、そうした姿勢をもっとも嫌う明成高の佐藤久夫コーチは、八村の取り組む姿勢を変えた。これは2年生の終わり頃に発言した本人のコメントだ。

「僕、明成に入学してから変わったと思います。実際のところはサボリ癖あったので、久夫先生からすごく怒られていました。でもしつこいくらいに僕の悪いところを指摘してくれたことで直せました」

叱られて当然だった。「本気でアメリカに行きたいというなら、口だけではなく練習から示せ」と叱責した佐藤コーチの指摘はもっともだ。ただ、一方で八村には誰にも負けない向上心があった。いつの日からか、八村は新しい技を吸収することが楽しくなっていく。たとえば、八村を象徴するポストシールのうまさは、相手と身体をぶつけ合い、タイミングを見計らう駆け引きが必要だが、しつこさがなければできない。その粘りを練習で身につけていくことで上達していったのだ。

八村が粘りを発揮した有名なシーンは、2年生チームで優勝したウインターカップ、福岡大附大濠高との決勝だろう。残り44秒で同点のシーン。八村は福岡大附大濠高の牧隼利(筑波大4年)のシュートを豪快にブロック。そのこぼれ球をみずから取りに行ってマイボールにしたあと、チームメイトが攻撃して外れたボールを今度はオフェンスリバウンドに跳び込み、そのままタップして逆転シュートを決めた。渾身のブロックとルーズボール、そして誰よりも高いリバウンドで優勝を呼び込んだシーンは、ウインターカップ史の名場面でもある。

「今までの自分だったら、ブロックのあとのルーズボールは取りに行けなかったと思います。ボールを取りに行く練習を何度も何度もしてきたので、気がついたら習慣になっていました。久夫先生がいいクセをつけてくれたんです」と語る八村は、2年次には苦しい時こそ仲間を助ける大エースになっていた。

2つ目の転機は高校2年次の夏に出場したU17ワールドカップだ。順位は16位中14位だったが、大会得点王になったことで、NCAAディビジョン1の強豪数校からオファーが舞い込んだ。

「この頃から塁は変わりました。それまでは口先だけで『アメリカに行きたい』と言っていましたが、世界大会に出たことで夢が目標になり、目標を実現しようと目的に突き進むようになりました。外の世界を体験したことで、困難をクリアしていく楽しさを覚えたのです」と佐藤コーチが言うように、この頃になるとサボリ癖はなくなり、チームのリーダーへと成長していった。

ここで八村と佐藤コーチは「残りの高校生活を将来に向けた“準備”にしよう」と約束を交わす。これまでも練習してきたが、より一層、幅広いプレーを身につけながらも勝利を目指すことと、NCAAの入学基準に達するために、「今までやってこなかった」(八村)という勉強をするようになったのだ。特に英語に関しては休み時間や部活のあとに、マンツーマンで指導を受ける日々だった。

八村はこの頃から「準備」や「経験」という言葉をよく使うようになった。先を見据えていなければ出てこない言葉を高校生が頻繁に使っていたことには驚きもあったが、こうした過程が将来のNBA入りへとつながったのだ。

「NBA選手になれば行動も服装も全部見られる。子供たちの手本になりたい」と八村(写真/小永吉陽子)
「NBA選手になれば行動も服装も全部見られる。子供たちの手本になりたい」と八村(写真/小永吉陽子)

「準備」と「経験」こそが八村を飛躍させた

「準備」と「経験」を着実に実行していたのが大学時代だ。1年次は言葉が理解できないために、学業と環境に慣れることを優先してレッドシャツ(練習はできるが試合登録を1年見送ること)にすることも考えられたが、たとえ試合に出られなくとも、ベンチ入りを望んだのは自分の意志だった。

「今でさえ、高3のウインターカップから約1年公式戦に出ていない。レッドシャツになってしまったら、2年も試合感覚がなくなってしまう。ベンチに入って試合に臨む気持ちを忘れたくなかった」との思いから、準備の年と割り切って1年次を過ごす決断をした。結果的にはこの判断は正しかった。1年次は授業との両立が相当苦しくプレータイムも短かったが、NCAAファイナル4のコートに立つメンバーの一員となった。

1年次にベンチ入りした経験は徐々に成果となって表れていく。2年次からは主力の一人としてローテーション入りを果たし、大学3年では全米を代表する選手へと飛躍するが、その中で大きな収穫を得ているのが大学2年次に日本代表として出場したU19ワールドカップだ。アンダーカテゴリーで過去最高の10位になり、平均得点大会2位、リバウンドでは3位の記録を残す。八村は手応えをこう語った。

「この大会で感じたのは『NBA選手ってすごいな』ということ。こういう国際大会のようなレベルが高く、体力的にきついゲームを半年以上続け、しかも移動時間が長い中で試合をしている。国際大会では体調管理や食事に気を遣うことが大切だと、NBAに行くための勉強になった大会でした」

U16代表から始まり、U17、U19、そして高校時代から日本代表候補に選出され、大学時代にはワールドカップ予選でエースの働きをした。国際大会に参戦したことや、ゴンザガ大でのすべての試合が八村にとっては経験の道のりだった。八村は自身がNBA選手になれた理由、そしてこれからの日本のバスケットボール界へこうしたメッセージを伝えている。

「僕が良かったのはU16アジア選手権とか、U17ワールドカップに出たり、ジョーダン・ブランド・クラシックとか、NBAのキャンプとか、いろんな海外のキャンプに呼ばれたりしたことです。日本でも学びましたがそれだけではなく、海外でプレーした経験が今につながっています。そういう挑戦を日本人選手もどんどんやっていったり、呼ばれたりしてほしいです。そうすれば、日本のバスケはもっと盛り上がると思います」

八村がNBA入りを目指した準備を本格的に始めたのは高校2年からだ。幸運なことに、U17ワールドカップに出場したことが転機となり、その後は準備したことを着実に経験にして積み上げていったからこそ今がある。そして今は、たった数年前に八村がNCAA入りを決断した時よりさらに情報が溢れてグローバル化し、Bリーグの開幕によって海外のコーチが増え、いろんなルートや人脈が広がりを見せている。自分を売り込む方法はいくらだって見つけられる時代になった。自ら目標に向かう準備こそが大切だと八村の行動が教えてくれた。

明成時代の八村と同じ「背番号8」をつけて奮闘の毎日を送る山崎一渉(写真/小永吉陽子)
明成時代の八村と同じ「背番号8」をつけて奮闘の毎日を送る山崎一渉(写真/小永吉陽子)

「塁さんのようになりたい」と決意した少年、その5年後

八村がNBA入りしたことは、日本のバスケ界に多大な影響を与えるだろう。何より八村の先駆者としての姿に憧れる少年、少女たちには明確な目標ができた。八村の母校・明成高にもそんな少年たちが練習に励んでいる。八村は自身がそうであるように、「ハーフの子供たちのために」とロールモデルになる思いでアメリカに進出したが、明成には八村に憧れて入部するハーフの選手が大勢いる。

その中のひとりが、U16代表候補の新入生、198センチの山崎一渉(イブ)だ。6月23日に終了した東北高校選手権の決勝・能代工戦にて、3ポイント10本含む41点を決めて優勝に貢献し、周囲を驚かせた。「先輩たちが思い切ってやれと言ってくれたので打てました」と語るこのスーパールーキーに、佐藤久夫コーチは八村と同じ背番号『8』を与え「塁のように育てて世界に送り出したい」と丁寧に基礎から指導している。

千葉県の松戸一中出身。バスケは小3から始めた。小5の時に地元の千葉でインターハイが開催されて観戦しにいったところ、当時高2だった八村の活躍を見て「この人みたいになりたい」と憧れを抱いた。当時の明成は八村を中心に2年生チームながら準優勝を果たしている。帰り際に自ら八村に手を差し伸べて握手をしてもらった少年は、「千葉でバスケしているの?頑張ってね」と憧れの選手から声をかけてもらったことがうれしくて、「高校は明成に行きたい」と両親に伝えたという。山崎の父はギニア人、母は日本人。アフリカにルーツを持つという意味でもベナン人の父を持つ八村への憧れは強い。

不思議な縁だが、このとき、八村はチームを決勝まで導いた後、U17ワールドカップ参戦のためにチームを離れている。八村とチームメイトの納見悠仁(青山学院大4年)がインターハイ決勝に出られなかったことで、明成は準優勝に終わるのだが、この夏に小5の一渉少年は「塁さんのようになりたい」と誓い、八村は世界を知ってNBA入りを目指す。あれから5年経った今、お互いに夢をかなえる一歩を踏み出した。

ドラフト前日、八村は自身の歩みを「ここまで僕のバスケ人生はステップ、ステップ、ステップ。これからもきっとそうです」と語った。アフリカの血筋を受け継ぐハーフあることで、身体能力の高さを前面にして語られがちな八村だが、目標実現には準備と経験を積み上げてきた道のりがあることを、明日の八村塁を目指す少年少女たちには知ってほしい。そしてワシントン・ウィザーズ入りを果たしてこう言った。

「どれだけ自分のことや、夢を信じられるかだと思います。そして僕をここまで支えてくれた人たちに感謝します」

「NBAに入ってからが大事」と次なるステップに向けて前を向く八村(写真/小永吉陽子)
「NBAに入ってからが大事」と次なるステップに向けて前を向く八村(写真/小永吉陽子)

【この記事は、Yahoo!ニュース 個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています】

Basketball Writer

「月刊バスケットボール」「HOOP」のバスケ専門誌編集部を経てフリーのスポーツライターに。ここではバスケの現場で起きていることやバスケに携わる人々を丁寧に綴る場とし、興味を持っているアジアバスケのレポートも発表したい。国内では旧姓で活動、FIBA国際大会ではパスポート名「YOKO TAKEDA」で活動。

小永吉陽子の最近の記事