コロナ禍で実施された児童のパラリンピック観戦は、学校での「いのちの教育」を後退させただけでなく、またしても、「リスク・マネジメントは重要ではない」というメッセージを人々に刷り込んでしまった。

しかし、リスク・マネジメントなくして「いのちの教育」はあり得ない。リスク(危険)とクライシス(危機)の区別ができなければ、「命の大切さ」を守れない。

コロナと犯罪、シンクロする対策

新型コロナウイルス感染症の対策を見ていると、奇妙な感覚に襲われる。どこか犯罪対策のようである。といっても、対策の内容ではなく、対策から抽出した「思考フレーム」に、コロナ対策と犯罪対策の共通性があるように見えるのだ。もちろん、筆者は感染症の専門家ではないので、ここで明らかにしたいのは、あくまでも危機管理の基礎にある「思考フレーム」である。

ここでいう「思考フレーム」とは、難しく言えば、「バラバラな情報を意味的に一つのまとまりのあるものとしてグループ化するための認知装置」であり、やさしく言えば、「無意識に繰り返される発言パターン」である。

結論を先取りするなら、筆者の主張はこうなる。

日本では、リスクとクライシスの区別ができていないので、コロナ対策や犯罪対策がクライシス・マネジメントに大きく偏っている。言い換えれば、リスク・マネジメントという「思考フレーム」で対策を考えることがほとんどない。そのため、救える命も救えていない

Prepare for the Worst(最悪の事態に備える)

「危機管理」と呼ばれるものには、危機が起こる前(平時)の「リスク・マネジメント」と、危機が起こった後(有事)の「クライシス・マネジメント」の2種類がある。両者は安全確保における車の両輪だが、その決定的な違いは、リスク・マネジメントは被害をゼロにできるが、クライシス・マネジメントは被害をゼロには戻せない、ということだ。

中国最古の医学書にも、「名医は既病を治すのではなく未病を治す」と書かれているという。今どきの言葉を使えば、「予防に勝る治療なし」だ。

リスク・マネジメントの基本は、「最善を望み、最悪に備えよ」である。分かりやすく言えば、「悲観的に準備し、楽観的に行動せよ」だ。映画の黒澤明監督は、「悪魔のように細心に、天使のように大胆に」と語っているが、同じスタンスを表す言い回しである。

ところが、こうした発想は、そう簡単ではない。信じたい情報ばかり探してしまう「確証バイアス」や、「たいしたことはない」と思い込む「正常性バイアス」が作用するのが普通だからだ。

前例踏襲の仕事にどっぷりつかっている人も、こうした発想は苦手だ。リスク・マネジメントでは、想定外を想定する必要があるからだ。

物理学者アインシュタインが「常識とは、18歳までに心にたまった先入観の堆積物にすぎない」と言っているように、常識も時には邪魔になる。

言葉に表れる危機意識

リスク・マネジメントの発想に慣れるため、まずは、政治家の発言を見極めることから始めてみてはどうだろう。

例えば、次の発言は、リスク・マネジメントか、それともクライシス・マネジメントか。

「医療体制が逼迫しているので、○○する」

「感染者が急増しているので、○○する」

「緊急事態宣言が出たので、○○する」

これらはすべて、クライシス・マネジメントである。

リスク・マネジメントの「思考フレーム」なら、

「医療体制が逼迫しないように、○○する」

「感染者が急増しないように、○○する」

「緊急事態宣言が出ないように、○○する」

という発言になる。

写真:ロイター/アフロ

いつも後手後手の対策

新型コロナウイルス感染症のアウトブレイクを思い出してみよう。

コロナ感染が日本で初めて確認されたのが2020年1月15日であり、ウイルスの発生地である中国武漢市が封鎖されたのが1月23日だった。しかし、日本が対策本部を設置したのは1月30日である。

一方、台湾では、感染が初めて確認されたのは1月21日だが、対策本部を設置したのは1月20日だった。

つまり、日本は自国内感染と武漢封鎖の「後に」動き始めたのに対し、台湾は自国内感染と武漢封鎖の「前に」すでに動き始めていたのである。これが、リスク・マネジメントとクライシス・マネジメントの違いだ。

今思い返せば、2月27日に全国一斉の小中高校の臨時休校が要請されたが、これが日本での唯一のリスク・マネジメントだった。なぜなら、緊急事態宣言が初めて発出されたのが4月7日だからだ。

しかし、臨時休校に対しては、「事前の相談もなく」「独断専行」といった批判が相次いだ。これも、リスクとクライシスの区別ができていない証しである。

緊急事態宣言は、「緊急」の文字が示す通り、クライシス・マネジメントである。しかし、長期にわたる緊急事態宣言は、もはや「緊急」ではなく、クライシス・マネジメントの意味さえ失ってしまう。

「孫子の兵法」にも、「拙速(短期決戦)の成功例は聞くが、巧遅(長期戦)の成功例を見たことはない」と書かれている。

名ばかりの防犯対策

こうしたリスクとクライシスの未分化は、犯罪対策に一層顕著に表れている。

例えば、子どもの安全のために親や教師の頭にまず浮かぶのは、防犯ブザーや「大声で助けを呼べ」「走って逃げろ」といった護身術だが、これらはクライシス・マネジメントの手法である。なぜなら、すべて襲われた後に使うものであり、犯罪はすでに始まっているからだ。つまり、正確には防犯(予防)とは呼べない手法なのである。

同じ「思考フレーム」を火災対策に当てはめるなら、「バケツで水をかければ火は消えるから消火器は買わない」ということになってしまう。

同様に、この「思考フレーム」を交通安全対策に当てはめるなら、「車にぶつかったときは柔道の受け身をとれ」ということになってしまう。

交通事故死者数の人口比が世界最小のアイスランドでは、衝突事故車を利用して、シートベルト着用の注意喚起を行っている(下の写真)。リスク・マネジメントの意識の高さがうかがえる。

アイスランドの幹線道路沿いの警戒標識(筆者撮影)
アイスランドの幹線道路沿いの警戒標識(筆者撮影)

恐怖は思考よりも先に起きる

襲われたらどうするかというクライシス・マネジメントには大きな限界がある。突然襲われたときに子どもが防犯ブザーを鳴らせるか、はなはだ疑問である。

ニューヨーク大学のジョゼフ・ルドゥー教授によると、恐怖は思考よりも早く条件反射的に起こるという。とすれば、防犯ブザーの効果を知っていても、それを鳴らそうと思う前に、恐怖で体が硬直してしまう可能性が高い。文字通り、思わずすくんでしまうということだ。

千葉県松戸市の路上で下校途中の女児が刃物で切りつけられた事件(2011年)でも、前から歩いてきた男が刃物を持っていたので逃げようとしたが、転んだので刺されてしまった。体が固まって足がもつれたのであろう。やはり、恐怖を感じる場面では、走って逃げることも、防犯ブザーを鳴らすこともできないと思った方がいい。

写真:yamasan/イメージマート

だまされないための教育

クライシス・マネジメントは、子どもの誘拐事件の実態にもそぐわない。というのは、警察庁が発表した「子どもを対象とする略取誘拐事案の発生状況の概要」(2003年)が、「甘言・詐言を用いて」犯行に及んだ被疑者は全体の55%と報告しているからだ。この調査の対象には中学生と高校生も含まれているので、小学生以下に限って推計すれば、被害児童の8割程度が、だまされて自分からついていったことになる。

実際に50回、「ハムスターを見せてあげる」「カブトムシがいるよ」などと声をかけて、女児を団地の階段に誘い込んでは、「虫歯を見てあげる」と言って口を開けさせ、舌をなめていた事件があった。こうした事件は、防犯ブザーや護身術では防げない。

このように、絶体絶命の場面で登場するクライシス・マネジメントには大きな限界がある。そのため、そうした局面に追い込まれないためにはどうすればいいかというリスク・マネジメントに取り組むのが得策だ。その手法が、「犯罪機会論」に基づく「地域安全マップづくり」である。それは、景色を解読することによって、危険を予測して回避できるようにする教育プログラムである。しかし現実は、作り方を間違えた偽マップばかりで、本当に正しいマップづくりは進んでいない。

後悔しない対策を

新型コロナしろ、犯罪にしろ、それが遺族に与える喪失体験は計り知れない。なぜなら、いずれも不条理な死別だからだ。たとえ感染者数が減っても、犯罪件数が減っても、それで悲しみが癒やされるわけではない。

「不条理の作家」と呼ばれるアルベール・カミュは、小説『ペスト』の主人公の医師に「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さ」と語らせた。

対策を考えるに当たっては、こうしたことを心に刻んで、「防げる感染は確実に防ぐ」「防げる犯罪は確実に防ぐ」という姿勢、つまりリスク・マネジメントにプライオリティを置くことが求められる。それはまた、クライシス・マネジメントとは異なり、「持続可能な感染症対策」「持続可能な犯罪対策」にもつながるはずである。