ADHDを公表してみたら、こうなった~普通って、一体なんだろね?

「普通」だって色々だ(写真:アフロ)

 今年7月、40歳を過ぎてから発達障害の一つであるADHD(注意欠如多動症)と診断されたことをウェブのエッセイで公表しました。公表後には様々な反響があり、中にはそんな発想があるのか!と考えさせられる意見もありました。発達障害と向き合うと「ここからは障害です、なんてハッキリした線引きはできないよなあ。みんなそれぞれに凸凹はあるし・・・そもそも普通ってなんだろう?」という疑問が湧いてきます。やがて、自分なりの答えが見えてきました。

部屋の中にもカメラが入って

 先月放送されたNHK「発達障害って何だろうスペシャル」軽度のADHD(注意欠如多動症)を持つ当事者として出演しました(12月28日に再放送予定)。今年7月にwebのエッセイでも書いたのですが、私の場合は多くの困りごとは頭の中で起きています。

 

番組では、部屋にカメラを設置して撮影した映像や、家族が撮影した普段の様子も流れましたが、気が散りやすい様子や、何かに没頭すると他のことが見えなくなる様子は映っているものの、部屋が散らかり放題なわけでも、生活が破綻しているわけでもなく、見た人は「これのどこが障害?」と思ったかもしれません。

 画面には映らない困りごとを言葉で書くと、こんな感じです。

脳みそが頭の中でずっと喋っているのでうるさくてならず、次々といろいろなことを思いつくため、うっかりするとすぐに大事なことを忘れてしまう・・・かと思うと逆に何かに集中するあまり時間を忘れ、遅刻してしまう・・・頭の中の声をそのまま口に出してしまいがちなので、何を喋り何を喋らずにいるべきかを常に意識していなければならず、とても疲れる・・・同時にたくさんのことをやらねばならない状況になると、頭の中が10車線とか20車線になって、どの車から先に走らせればいいのかわからなくなってしまう・・・でもそれがすごくいい形で発揮されると、独創的な表現や斬新な発想に繋がって、仕事に生かせることもある・・・。

もっと他にも困りごとはあるのですが、きりがないのでちょっとだけ。(発達障害がどのようなものであるかについては、先ほどのNHKのサイトに詳しく載っているので、そちらをお読み下さい。)

 放送後には、同じような経験があるので励まされたとか、よく知らなかったけど身近に感じたなどの温かい反応を頂きました。「何か困っていれば言ってくださいね」と言ってくれた仕事仲間もいます。自分にもそういう傾向はあるのかもしれないと思った、という人もいました。発達障害と診断されなくても、その傾向を持つ人は少なくないそうですから、思い当たることがあっても不思議ではありません。もし発達障害と似たような特徴があっても、困っていることがないなら文字通り自分の特徴として付き合っていけばいいと思います。

 

でも困りごとがあってしんどいなら、自己診断せずに専門家に相談して下さい。生きづらさの理由を「発達障害だからだ」と思い込むと、本当は違うことが原因なのに見落としてしまうかもしれないし、かえって障害に対する誤解を広めたり、偏見を助長してしまうことがあるからです。

 

 最近は、発達障害を障害ではなく、ニューロダイバーシティ(神経多様性、脳の多様性)として捉えて、それぞれの特性を生かしてその人らしく生きられるような社会にしようという考え方もあります。

 残念ながら、発達障害を持つ人はそうでない人よりも劣っているという偏見を持つ人もいます。でも、そもそも脳は一人一人異なります。規格品みたいに同じ脳なんてないですよね。自分の脳みそは100パーセント「普通」だ!と言っているのも、世界に一つしかない脳みそなのです。

 

アナウンサーがADHDなんてあり得ない?

 なぜADHDを公表しようと思ったのかとよく聞かれるのですが、もともと周囲の人には話していたこともあり、公表するぞ!という意気込みはありませんでした。ただ、発達障害という言葉が浸透するにつれて、不吉なもののようにいう人や、人との違いを強調するために安易に使う人が増えてきたように感じたので、改めて考える機会を持って欲しいと思いました。

 発達障害は、ある人にとっては深刻な困りごとであり、ある人にとっては大切なアイデンティティ(自分らしさ)でもあります。それに、ちょっと人と違うところがあるとか、生きづらさを感じる原因を、障害だけで説明できるものではありません。人は複雑で、一言で説明できる存在ではないのです。

 公表したことに対する反響の中には「アナウンサーは発達障害とは正反対の仕事だと思っていたので意外だった」という感想もありました。へえ、そういう発想もあるのか!としばし考え込んでしまいました。もしかしたら、アナウンサーは「真面目な優等生」というイメージで、発達障害はその正反対の「型破りの問題児」というイメージなのかもしれません。

 確かにアナウンサーはテレビ画面では真面目な印象だけど、普段接していると、多少風変わりな人でも受け入れられやすいテレビ局でなければ、会社員としてはなかなか大変だったろうなあと思う人も少なくありません(笑)。また、発達障害を持つ人が問題児とも限りません。自分の特徴を知った上で工夫して社会に適応している人もいるし、自分に合った環境を選んでいる人もいます。

 もちろん、ご家族もご本人も大変な思いをされている方もいます。発達障害には色々な種類があり、困りごとも様々なので、必要な支援も異なります。「普通じゃない人」という漠然としたイメージで一括りにせず、「この人は何に困っているのだろう」と個別に考えて接して欲しいです。

放送局のアナウンサーだった頃。コメントの言い間違いや段取りミスはしょっちゅうでしたが、さりげなく辻褄を合わせる能力も鍛えられました。写真:TBS『時事放談』スタッフ撮影
放送局のアナウンサーだった頃。コメントの言い間違いや段取りミスはしょっちゅうでしたが、さりげなく辻褄を合わせる能力も鍛えられました。写真:TBS『時事放談』スタッフ撮影

 でも、「意外だった」という印象を持った人がいるということは、アナウンサーだった私がこのような話をすると、発達障害に対する典型的なイメージがちょっと変わるのかもしれません。

 大事なのは、同じ診断名がついても、同じ障害は一つもないということです。あなたの体が世界に一つであるように、障害を持つ人もそれぞれにひとつきりの体を生きているので、困りごとや受け止め方はひとりひとり違います。私が話せるのは、自分のことだけ。私は「軽度のADHD」の代表ではなく、一サンプルでしかありません。

 エッセイやテレビで私が語ったことを聞いて「わかったようなこと言うな。発達障害はもっと深刻で、もっと辛いものだ」と思う人もいるでしょう。私の困りごとやしんどさが固有のものであるように、その人の実感もその人にしかわからないものです。ですから、どちらが本当かを決めようとしないでください。どちらもあるということを知って欲しいです

痛みの格付けランキング

 政策決定などでは、解決するべき課題や支援するべき人の優先順位を決める必要がありますが、個人が感じているしんどさは格付けできるものではないですよね。例えば1億円の借金を抱えて思いつめている人と、失恋して絶望している人とを比べたら、前者の苦しみの方が客観的にはより深刻に見えるでしょう。でも、それは自分がどちらの立場でもないから言えることで、当人にとっては他人との比較は意味がありません。

 何が辛いと言って、借金や失恋そのものの苦しさに加えて、その痛みには価値があるかどうかを他人に値踏みされることが辛いのです。そのような「他人を納得させるだけの理由がある者しか苦しんではならない」という眼差しは、人を追い詰め、ものを言えなくします。人は苦しむことを禁じられていると、誰かが「痛い、辛い、助けて」と言っても、手を差し伸べるのではなく「みんな我慢しているんだ、そんなことぐらいで弱音を吐くな」と言いたくなるものです。私たちが今暮らしている世の中は、そんな息苦しい場所なのかもしれません。

 私は33歳の時に、産後の職場復帰の不安や生育環境の影響、夫婦関係の悪化などで不安障害を発症しました。カウンセリングで辛い気持ちを訴えながら、こんな些細なことで辛がってしまう自分がいけないのだと繰り返す私に、臨床心理士の先生は「慶子さん、あなたは苦しんでいいのですよ」と言ってくれました。これが回復への第一歩でした。

 自分に苦しむことを許し、怒りを吐き出したら、やがてなぜ自分が怒っているのか、自分を傷つけた相手はなぜそんなことをしたのかを考えられるようになりました。すると、相手のした行為は許せなくても、少しずつ、それこそ10年以上かけて、人間の不完全さを受け入れる気持ちになれました。人生を他人の手に委ねるのではなく、自分の手に取り戻して、起きたことを見つめながら次に進むことができるようになったのです。

 そのような心境に至った40代で、自身の障害を知ったのは良かったかもしれません。これが自分なのだと受け入れ、できないことはできないと周囲に伝え、人に頼ることができたからです。マネージャーや家族は、私が細かいスケジュールを忘れてしまうことや、時間管理がとても苦手であることを前提に、できる範囲で工夫をしてくれます。それでも失敗して落ち込むことが多いですが、必要以上に自分を責めず、完璧な人はいないのだから、と思うようにしています。

 そう思えるようになったら、癖の強い人や理解しがたい人に出会っても、何か困りごとがあるのかもしれないと考えられるようになりました。もちろん、だからと言ってあれこれ尋ねたり、抱きしめて親友になるわけではないですよ。でも、人にはどうにもならないことがあるものだと考えることができれば、傷つけないようにそっと離れたり、遠くから静かに見守ることができます。

発達障害は心がけが悪い?

 本人にとってどうにもならないことが、傍目には単に努力が足りないだけのように見えることがあります。

 私は20代の頃、摂食障害でした。過食嘔吐といって、嫌なことを忘れるために苦しくなるまで食べては吐き戻すのを1日に何度も繰り返すのです。食べ物依存症と言ってもいいかもしれません。お給料は食べ物代に消え、いつも体調が悪く、自尊心はズタズタでした。

 そのころは摂食障害という病気があることを知りませんでしたから、恥ずかしい癖だと思っていました。自分でも「こんなみっともないことを、どうしてやめられないのだろう。自分は意志の弱い、ダメな人間だ」と落ち込んで、そんな自分を忘れるためにまた食べてしまうといういう悪循環でした。

 けれどあるとき摂食障害に関する記事を読んで、それが病気であることを知り、自分だけではなかったのだと少しホッとしました。

 そして、我が身に何が起きているのかを知りたくなってカウンセリングを受け始め、30歳で初めての出産をし、ようやく過食嘔吐の症状がなくなったところへ、今度は2度目の出産と家族の問題が重なり、不安障害を発症。「神さま、少しは休ませてくれよ!」と天を恨みました。

 こんな自分と生きるぐらいならいっそ死んでしまいたい、家族にとってもきっとその方がいいに違いないと思いつめたこともありました。もちろんたった一つの理由で、生きづらさを説明することはできません。でもこの「苦しむ自分を赦す」ということが、長い間、私にとって最大の課題であったことは確かです。

33歳で不安障害を発症、治療中の頃。子どもたちは可愛いのに、絶え間ない不安感とパニック発作に悩み、消えてしまいたいと思っていました。
33歳で不安障害を発症、治療中の頃。子どもたちは可愛いのに、絶え間ない不安感とパニック発作に悩み、消えてしまいたいと思っていました。

 発達障害も、そんな簡単なことができないなんて甘えているとか、努力が足りないとか言われがちです。

 小児科医であり、当事者研究で知られる熊谷晋一郎さんは、社会によって刻まれたマイナスの烙印、スティグマについての講演の中で、こう語っています。

「精神障害や発達障害など、一見、平均的な人と同じように見える障害を持った人は、ほかの人と同じようにできないことが、本人の意思の弱さ、努力不足だと誤解されやすいのです。スティグマを貼られやすい原因になっている」。

そして負の烙印をなくすには、当事者の語りを聞くことが重要だと言います。「語りというのはまさにその人の分厚い本一冊を読むことなのです。

 あなたが発達障害を持っていなくても、障害を持つ人の話を聞くうちに、その人を身近に感じるかもしれません。それだけではなく、自分もまた、誰かに聞いて欲しい話があることに気がつくかもしれません。

 

 知人の打ち明け話を聞いて、思わず自分もそれまで誰にも話したことのなかった話をしてしまった経験のある人は少なくないでしょう。それは、相手が率直に語る姿を見て「不完全な私がここにいるように、傷ついたあなたもそこにいていいんだよ」と承認されたような気がするからではないでしょうか。そして今度は自分が語った物語が、知らぬ間に誰かに「そこにいていいよ」というメッセージを送るのです。

普通って、いったいなんだろう

 もしかしたら今の日本の社会には、そんな「赦しの場」が必要なのかもしれないと思います。あなたは苦しんでいいし、辛かったと言っていい。私はそれをジャッジしないし、比較もしませんよ、という場所。そうしたら「こんなことで苦しむ自分は価値がない」なんて思わなくて済むし、誰かを断罪する必要もありません

 たとえ友達にはなれない人でも「あなたの痛みと私の痛みとはうんと違うけれど、人生は一回きりだし、生きているとどうしようもなく辛いことはあるよね。そのしんどさは、わかる気がするよ」と思って、同じ空の下で生きていくことはできるのではないかと思います。

 それ、発達障害の話と関係ないじゃん!と思うかもしれませんね。でも、私の中では繋がっているのです。

 

 NHKの特番では「普通って何だろう?」がテーマでした。私の普通、あなたの普通・・・普通って一体なんだろね?と。それは一人一人「普通」が違っているよ、ということだけではなく、私たちがこれまで何となくそうだと思い込んで来た「普通の生活」「普通の幸せ」「普通の人生」が、もしかして私たちに「普通の苦しみ」を強いて来たのではないかと疑ってみることでもあると思います。普通の苦しみよりも上ならば同情する価値があり、下ならばただの甘えであると、思っていないでしょうか。そんな「普通」は、どこにもないのに。

 私たちは、等価で無二の存在です。命の価値は等しく、同じ人は二人といない。自分にとっては一回きりの人生が、隣の人と同じ値打ちだと言われるやるせなさ、理不尽さに、時に私たちは耐えねばなりません。だからこそ、個別の苦しみや喜びを生きる自由を手放してはならないのです。感傷的だと笑うかもしれませんね。だけどこれが私のおしゃべりな脳みそが、絶え間ない思考のフローの底にようやく見つけた道しるべです。

 最後まで読んで下さって、有難うございました。今日も小島は喋り過ぎだな!と思ったら、それは障害ゆえではなく「だって、小島だからな」と思って下さい。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】